食物繊維がたっぷり入ったライ麦パンで
腸をきれいに
美と健康のカギは腸にあり! 腸から本気のアンチエイジング | 太陽笑顔fufufu
根菜などの食物繊維たっぷりの野菜を
使った料理にライ麦量の多めのパンを
ちぎり入れて食べてみてください
更にデザートとして
ヨーグルト400gを毎日食べて
軽い運動をすれば
これだけであなたの腸も美しく
免疫力UP
便秘解消
美しい肌
肥満解消
盲腸・糖尿・乳がん・大腸がんの予防と
良いこと尽くし
知っている人だけが得をする
食べている人だけが得をする
なまけもののパン屋のライ麦パン
あなたのその美貌を維持するなら
なまけもののパン屋のライ麦パンは不可欠です
なまけもののパン屋のライ麦パンは
ただのライ麦パンではありません
一品50円から560円
パンは冷蔵ではなく
出来れば冷凍して保存してください
暑くなるとカビがすぐ生えるので
パンは冷凍して保存してください
無人販売になることもあるので
袋と小銭の用意お願いします
この店のパンは料理と合わせてこそのパンです
プレーンなパンに料理を合わせて食べてみてください
なまけもののパン屋のライ麦パンは
発酵食品との合性抜群
そしてライ麦の食物繊維
毎日食べて免疫力アップ!
おまけに肌もピカピカだ
いまの食事が
10年後20年後の
健康につながって生きます
パンのみの食事
生活習慣病へ
一直線
菓子パンやデニッシュ
食べやすいパンだけれども
それだけの食事で大丈夫
磐梯山
見た人見た人に
それぞれの磐梯山がある
磐梯山にある石の一つ一つ
木の一本一本
磐梯山の土の中に暮らす微生物に一個一個
誰も磐梯山のすべてを見ることはできない
磐梯山のどこか一部を見て
思ったり感じたり考えたり
磐梯山はそこにドーンと立っているように見えるけれど
本当は人々が作り出した
ただの幻なのかもしれない
あのひとはこういう気持ちなのだろう
あの人はこういうひとだ
どこか一部どこか一時を見ただけで
あの人のことをわかったつもりになっていても
あの人なんて本当はいなくて
あの人という幻を見ているだけなのかもしれない
磐梯山は自分であって
あのひとは自分であって
虫や鳥や犬や熊は自分であって
おしっこやうんちも自分である
美しいも可愛いも恐ろしいも汚いも
人々が作り出したもの
磐梯山もあの人も
虫や鳥や犬や熊も
おしっこやうんちも
やはりすべてが幻なのかもしれない
すべては移ろいゆくもの
物も思いも考えも
自分はこういう人間だ
あの人はこういう人間だ
そう思った瞬間に
自分は別の自分になっているし
あの人は別のあの人になっている
この世界のすべてのものは
フ~と息を吹きかければ
どこかに消え失せてしまうのかもしれない
木があるから生きられて
雨が降るから生きられて
お日様が照ってくれるから生きられて
空気があるから生きられて
虫がいるから生きられて
動物がいるから生きられて
花や草があるから生きられて
土があるから生きられて
微生物がいるから生きられて
それは人間に限ったことではなくて
木にとっても雨にとっても
虫にとっても草花にとっても
いえることで
それぞれがそれぞれを支えあって生きている
人間の社会だけを見ても
食べ物を育ててくれる人
物を運んでくれる人
建物を建ててくれる人
着るものを作ってくれる人
道具や機械を作ってくれる人
すべての人たちが
様々な人たちに支えられながら生きている
自分なんてものは初めからどこにもなくて
この世界のすべてのものは
ひとつに溶け合って
生きているのかもしれない
三週連続で塩原温泉
風がかなり強い
今回は元湯に向かう
何度か話を聞いていた梶原の湯
木造作りの素敵なお風呂だった
一時間ひとりでのんびりと過ごした
もみじラインに出て
高原野菜を売っているテントに向かう
一軒だけ店を開けているところがあった
かぼちゃと大根をひとつずつ購入
今年はきょうで店じまいだそうだ
間に合ってよかった
せっかくなので
寺の湯にも寄ってみた
きょうはだいぶ賑やいでいた
一時間くらい湯に浸かり
外に出てみると雪が舞っている
下り坂あっという間に体が冷えてくるが
赤色黄色と星々が瞬いているような
美しい光景に興奮してしまう
午後4時自宅到着
午前6時すこし前
先週に続き塩原町へ向かう
たった一週間でガラッと色彩が変わっていた
今週はもみじラインを走ってみる
また川治に向かった時のように
少し上れば下りが続くのだろうと思っていたのだけれど
こっちの道はしっかりと山越えをするコース
思っていた以上に良い景色が広がっている
だいぶ上の方に奥塩原の温泉街があった
共同浴場(寺の湯)を見つけたので
300円を払って入ってみる
酸性の硫黄泉で白く濁ったお湯
30分くらい浸かっていたが
茨城から来たひとがひとり来ただけで
ゆったりと体を温めることができた
ここはまた来ることになるだろう
温泉を出てしばらく上っていくと
数軒の農家がテントを張って高原野菜を売っている
買って帰りたかったが鞄に入りそうにない
今度鞄の中身を少なくして買いに来よう
二つのスキー場と元スギー場跡の脇を通り抜けると
下りに入る
カーブが多くブレーキをかけ続けで
手が疲れてくる
下りはこげるくらいの斜面が走っていて
いちばん気持ちがいい
山の上の方は日陰に入ると寒いくらいに感じたが
下に降りてくると25度の暑さ
鬼怒川温泉を抜けて塩谷、矢板を通り
大田原へ午後2時5分自宅に到着
このくらいの時間に帰ってこれるなら
休みの日に気軽に行ってこれる
夜はランニングに出かける
自転車で長い距離を走った後は
血の流れが良くなっているからか
余計な肉が取れているのか
体が軽く足もよく動く
一か月前よりも
いくらか体力が付いてきたのを感じる
塩原町には自転車では
あまり走りたくないトンネルがあるので
足が向かないのだが
トンネルを回避できる道があることがわかったので
それを確認したくなって
塩原へと向かう
出発は午前6時30分
風がかなり強い
確かにトンネルを回避することができた
最近の塩原は大丈夫なのかと心配になってしまうくらい
人の姿が見られないのだが
紅葉シーズンとあって旅館やホテルの駐車場は
他県ナンバーの車が多く止まっている
もう少し坂道を上りたい気分だったので
400号を上っていく
11月に入ったのに紅葉はもうちょっとの感じ
体の調子が上がってきたので
このまま会津方面に行ってしまって
帰りは電車で帰ってこよう
自転車を入れる袋も持ってきたことだし
そんな思いが湧いてきて
トンネルを回避する道を確認しに来たのに
別のトンネルを潜り抜ける
しばらく走っていると左に曲がると
日光と川治に行けるという案内板
川治というまだ行ったことのない土地に惹かれて
方向転換
左折してからは
うれしくなってしまうような素適な景色
しかも川治までの18kmずっと下りだ
のどが渇いたので水筒を取り出そうと
鞄を開けてみたのだが水筒が入っていない
確かに鞄の中に入れた記憶はあるのだが
別の鞄に入れてしまったのだろか
川治温泉到着
さびれ具合は想像内
露天岩風呂と書かれた案内板があったので
行ってみた
とりあえず内風呂に入る
かなりぬるい
先に来ていた人に
岩風呂はもっとぬるいから
止めた方が良いと言われたので
素直にしたがった
さっと浸かって出ようと思っていたが
その人に日光へのショートカットの道などを
教わったりしていたら
だいぶ時間が経っていた
ぬるいお湯だが長い時間浸かっていると
からだがポカポカしてきた
まだまだ下りが続く
しばらく走り
トンネルを抜けると
左手に鬼怒川の温泉街が見えてきた
もっとずっと遠いところにあると思っていたのだが
こんなところにあったのか
頭の中にある地図がまた少し広がった
自分の頭はグーグルマップなど見ても
その場所がどのあたりにあるのかを
イメージすることができないようになっているので
実際に肌で感じることでしか
それを知っていくことができないのだ
次のトンネルがかなり怖かった
やはりトンネルは出来る限り避けたいものだ
あのトンネルはもう絶対に通らない
日光東照宮に到着
駐車場に入ろうとする車で渋滞している
結局日光市街に入る少し手前まで
下りが続いた
35kmくらいはずっと下りだったのではないだろうか
塩原の山をそんなに上ったのかなあ?
そのまま電車に乗って帰ってもよかったのだが
数日前に実家が中禅寺湖近くで店をやっていて
自身もそこで働いているというお客さんから
紅葉がピークだと聞いていたので
中禅寺湖にはまだ一度も行ったことがなかったし
せっかくだからと行ってみることにした
駐車場整理をしている男性に
中禅寺湖に行く道を聞いてみたが
また大雑把なひとに当たってしまった
「そこを曲がってそのまま上っていけば着きます」と
言っていたのだが
曲がってすぐに道は二股にわかれ
どっちに行っていいのかわからない
右に曲がってしばらく行くと東照宮美術館脇に
上りの道があったので
ここだろうと思って上り進んだ
お堂があったり
昔のお寺の石垣が残っていたりと
とても素敵な道で
「いろは坂を上らなくても
こんな素敵な道からも行けるんだ
良い道をおしえてもらったなあ」と
喜びながら上っていると
犬の散歩をしている外国人が
「がんばって」と声をかけてくれた
「この道を上って行けば中禅寺湖にいけますか」と
一応聞いてみたら
「行けない」と言って中禅寺湖への道を教えてくれた
いろは坂到着
川治温泉であった人は
5kmくらいずっと上りだよと言っていたが
倍近くあった
中禅寺湖まで残り5kmの辺りで
雨が強くなってくる
あっという間に服はびちょびちょ
雨雲のせいで暗いのか
夕暮れ時で暗いのか
何時頃だかわからない
中禅寺湖は人であふれていた
湖の周りに店がズラッと並んでいるのには驚いた
体が冷えてきて紅葉を楽しむ余裕なんてない
湖を少し眺めて駅へ向かう
下りは渋滞
上りは二車線だったが下りは一車線
雨はまだ降り続いている
路面は濡れていて落ち葉も落ちている
最近よく転ぶのでゆっくりと慎重に下る
ブレーキをかけっぱなしなので手が疲れてくるし
神経も疲れてくる
体はどんどん冷えていき
手や頭が震えだし歯がガクガクと音を立てる
ようやく賑やかな通りに出たときには
ホッとした
神橋前横断歩道で信号待ち
青になったので走りだそうとした瞬間
転倒
寒くて体が言うことを聞かない
膝をぶった
今年は体を痛めてばっかりだ
JR日光駅到着午後5時35分
電車が10分後くらいに出るところ
鞄に入れたはずの水筒が無かったので
自転車を入れる袋も無かったりしてなんて
冗談のようなことが頭に浮かぶ
確かに朝一番に鞄に入れた記憶があるので
まさかそんなことはないと確信して
鞄を開けて中を探すと
無い
どこにもない
5回くらい探したけれど
どこにもない
こんな絶望感はいつ以来だろう
自転車はあるけれど
暗い中知らない道を走るのは
気がのらない
しかも入れたはずの反射タスキも鞄に入っていなかった
自転車を包めるような袋か布を
ショッピングセンターで探してみようと思い立つが
周辺には見当たらないので
今市市まで下りることにした
幸い雨は止んでくれていた
体が冷えてしまったので
しばらくは自転車を押して
歩いたり走ったりして体を温めた
体は温まってきたが
杉並木通りは道幅が狭く
反射タスキ無しで自転車を走らせるのは怖いので
結局今市の市街地までほとんど自転車には乗らなかった
今市でもショッピングセンターが見つからなかったので
だんだん面倒くさくなってきて
もういいや自転車で帰っちまえと自転車をこぎだした
こぎだしてみると
きょうは下り坂ばかりを走っていたからか
足は余力充分
おまけに
またずっと下りなので
このまま朝まで
こいでいてもいいかなと思ってしまうほど
何だかものすごく心地がいい
塩谷から矢板と抜けて
大田原へ
思っていたよりも早く着いてしまった
午後9時5分自宅に到着
まだ体が興奮しているようなので
そのまま軽く1kmくらいランニング
興奮を沈めた
長い一日だった
家の自転車置き場に
水筒、反射タスキ、自転車を入れる袋が
3つ揃っておいてあった
鞄から手袋を取り出す時に
一度鞄から出して
そのまましまい忘れていたらしい
自転車ですこし遠出をしたい気分だったので
どの辺を走ろうか考えて
話に聞いていた
はじまりの美術館へ行ってみることにした
午前4時頃に出発しようかと考えていたのだが
だいぶ遅れてしまい午前6時30分
猪苗代湖目指して出発
帰りは電車なのでいつもなら
電車に乗せても邪魔にならない
16インチの自転車を使うのだが
きょうはビシッと走りたかったので
20インチの折り畳み自転車を選択
ウォーミングアップに坂の多い道を選んで
白河方面へ向かう
途中 芦野の吉の目湧水で水筒に水をくむ
白河に到着ここから先は
道がわからない
案内板があるだろうからと
地図をよく見てこなかったのだ
猪苗代への案内板はなかったが
会津若松を示す案内板があったので
その道(294)を進むことにする
車もそれ程走ってなく
田畑が広がる田舎道を
のんびりと気持ちよくペダルを回す
だいぶ走ってきたのだけれど
猪苗代を示す案内板がまったく出ていない
福島といったら猪苗代だろうと確信的に思っていたので
案内板なんてそこら中にあるだろうと出てきたが
そうではなかったのか
このまま進んだら会津若松まで行ってしまうんじゃないかと
不安になってきたので
天栄村の道の駅を少し過ぎたところで右折
しばらく走っていると須賀川市に出た
どちらに進めばいいの全く見当がつかない
磐梯山はスキーのコースがあるので
見ればすぐわかるのだけれど
どこにもそんな山が見当たらない
仕方ないので草むしりをしている人や
買い物帰りの人など
この土地の住民であろう人たちに道をたずねながら
進むのだけれど
みんながみんな大雑把
優しい人たちで
どこから来たのだとか
熊が出るから気をつけてねだとか言いながら
しっかり対応してくれるのだが
「この道をまっすぐ上っていけば猪苗代湖に出る」だとか
「次の信号を右に曲がってまっすぐ行けば猪苗代湖に出る」と言うので
その通りに行ってみると
必ず分かれ道にぶち当たる
最後に道をたずねたコンビニのスタッフからも
「その道をまっすぐ行けば猪苗代湖に出ます」と返ってきたので
またかよと半信半疑で行ってみると
今回は正しい道だったようで
三つ目のトンネルの手前にようやく現れた猪苗代湖の案内板
トンネルを抜けて道を下っていくと猪苗代湖が見えてきた
湖の大きさにちょっと驚いた
猪苗代湖に来たのは3回目なのだが
過去2回は全体を見回すことがなかったのかもしれない
水が思っていたよりきれいだ
湖の向こう側には磐梯山がそびえている
こんな美しい景色に出会えるとは
期待も想像もしていなかったので
感動してしまった
猪苗代市街まで湖を回って20km
一周回ったらどれくらいあるのだろうか
道の駅到着午後2時30分
午後1時には到着するだろうと考えていたのだが
かなり遠回りをしたようだ
道の駅ではじまりの美術館のチラシを探して
美術館の場所を確認
行ってみると思っていたよりだいぶ立派な建物
駐車場を抜けて入口の方に行ってみると
まさかの火曜定休日
ちょっとガクッときたが
湖からの磐梯山の眺めに感動した時点で
こころははとんど満たされていたので
そのまま駅へと向かう
道中は気持ち良く自転車に乗れたし
走ってきた道もよかった
そして道をたずねた人たちも
正しい道を教えてくれはしなかったけれど
楽しい人たちだった
素晴らしいい一日
生きていてよかった
朝から雨
止むのを待って自転車で出かける
このまま天気は回復していくのだろうと思っていたのだが
御亭山を上っていると
また雨が降り出してきた
山頂に着く頃には服がびちょびちょ
どこかでランニングもしていきたかったのだが
全然止まないので家へ帰る
風呂に入って本を読んで昼寝
雨が上がったので買い物と用事を済ませて夕食準備
サンドバックをたたいてから
ランニングに出る
100mダッシュ10本
まだまだ風を切って走れないが
息はもつようになってきた
体力がついてくれば
日々の疲れ具合も変わってくるはず
注文していたライ麦が来てくれるかわからないが
きょうは黒猫が荷物を
運んできてくれるであろう時間に合わせて
いつもより遅い午前7時30分から
パン作りスタート
きょうは店売りができないだろうから
いつもより少し多めに作って明日に備える
午前9時30分黒猫到着
荷物運びを手伝う
午後9時30分
パンが全部焼き上がる
いつもより2時間余計にかかった
14時間ほぼ休みなしで作っていたが
今週は睡眠時間が多めにとれていたからか
ここ最近のようにグッタリになることはなかった
これからパンの袋詰めと洗い物、酵母いじり
何時に眠れるのだろう
きょうには届くだろうと思っていた
ライ麦粉が届かない
きょうの朝の段階で
ライ麦粉の在庫がほとんどなかった
きょうはライ麦の割合が少ないパンだけは
作れたが
明日はどうなる???
夕飯を作っていたら
ライ麦30%の丸パンを窯から取り出すのを忘れる
窯入れまで良い感じに行っていたので
悔しい
きのうは首を寝違える
きょうも痛い
朝起きると一年ぶりくらいに
体の調子がいい
きのうはトレーニングの後に温泉に浸かってから
家で昼寝
いつもなら起きるとトレーニングの疲れが
ある程度抜けているのだが
きのうは疲れが全然抜けていなかったので
夜にもう一度風呂に入って眠った
きょうは東京へ行こうと準備をして
自転車にまたがったのだが
東京の街のガチャガチャ感と人の多さが
思い浮かび
げんなりしてしまったので
行くのをやめて
もう一度布団に入り
二時間後目が覚める
やはり東京に行ってこようということになり
もう一度着替えて出発
東京都渋谷公園通りギャラリー
行ってみたいなと思いながら半年
ようやく行くことができた
東京都現代美術館の分館のようなところだそうで
渋谷のど真ん中にあるのに
知っている人はそう多くないだろう
渋谷PARCOの道路をはさんで向こう側に
建っているのに渋谷の街のガチャガチャさに
埋もれてしまってぜんぜん目立たない
毎日建物の前を通っている人も
ほとんどの人が気が付いていないのではないだろうか
渋谷公園通りギャラリーは
専門的な美術教育を受けていない人たちの
作品を紹介しているところで
なんと無料で観覧することができる
専門的な教育を受けていないのでは
たいしたことがないだろうという偏見があるのか
そういう人たちの作品を展示しても
あまり人は集まらないみたいだ
大きな美術展に行っても
これはすごいという作品に出会えることは
そうあるものではないが
公園通りギャラリーと同じように
専門的な教育を受けていない人たちの作品を
展示している那珂川町にある
もうひとつの美術館なんかに行ってみると
唸ってしまうような作品がいくつも展示されている
公園通りギャラリーでも素晴らしい作品に出会えた
40点くらいのそれ程多くない展示だったが
一時間以上ギャラリーから出られなかった
渋谷に遊びに行くことがあったなら
ふらっと入ってみてください
東京都渋谷公園通りギャラリー
栃木県の那珂川町にあるもうひとつの美術館もおすすめです
なまけもののパン屋から車で20分くらいのところにあります
もうひとつの美術館
練馬区立美術館
野見山暁治 追悼展
野見山作品は今年だったか
昨年だったか
初めて実物を見た
名前だけは知っていたのだけれど
どんな絵を描いているのか知らなかった
ネットの画像や本なんかでも見たことがなかったので
実物とは頭と心が真っ白な状態で向き合うことができた
その分感動も大きかった
追悼展は前期と後期に分かれていて
画家人生の前半の作品は前期
後半の作品は後期となっているようだが
前期の方に何故か遺作が展示されていた
前期の展示の中ではこれがいちばんグッと来た
練馬区立美術館
一年前よりも
だいぶ眠る時間は増やしているはずなのだが
体の方はまだまだ足りないと行ってくる
きょうはまた蔵王温泉に行ってこようかと考えていたのだが
起きられず
それなのできょうの休みは体力作りに充てる
自転車とランニング
いまの自分にはちょっとハードな内容をこなす
やはり体を動かすのはいいね
充実感
体の錆がすこし取れた気がする
きょうは蔵王に行かなくて良かったのかもしれない
トレーニングを終え
喜連川温泉へ向かう
正月までにすこしずつ体力を上げていきたいところだが
最優先は疲れをとること
先週あたりから夏の疲れが
ようやく取れてきた
長かったあ~
お盆が過ぎてから
疲れが出てきて
9月後半には腰を痛めると同時に
風邪もひいてしまい
その中でパンを作っていたので
疲れがさらに上積みされて
ふらふら状態
頭も働かないので
ミスも多くなった
夏の疲れは取れたけれど
長時間の仕事と睡眠不足で
日々疲れる
体力も落ちているからなあ
おそらく産まれ落ちてから
いままでの人生の中で
いちばん体力がない状態だ
トレーニングをすれば
体力はつけられると思うが
トレーニングする時間がなかなか作れない
勘違いで
注文が遅れる
まだ残っていると思っていたライ麦が
もう残り少なくなっていた
やることいっぱいだし
疲れもあって
材料の残り具合なんて調べている余裕がないぜ
来週前半はパンがつくれないかなあ?
朝起きて作業場に行くと
小麦酵母を保管発酵させているケースが空っぽ
昨夜いじり忘れたらしい
仕方がないので
ライ麦酵母のパンだけを作る
からだが限界だったのかもしれない
きょう小麦酵母のパンも作っていたら
作り終えられたかわからない
東京都美術館 『大地に耳をすます』
田中一村展と同じ会場で面白そうな
展覧会をやっていたので行ってみた
自然に深くかかわり制作を続ける5人の
現代作家の作品が展示されている展覧会
最初の展示室にあった川村さんのエッセイが面白かった
写真や狩猟などをやっている人
本でも出していればもっと読んでみたい
いちばんこころを揺さぶられたのは
ミロコマチコの作品
もうひとつの美術館の館長から聞いていたので
名前だけは知っていたのだが
実際に作品を観るのは初めて
会場で流れていたライブペインティングの様子を
映したビデオを観ると
子供が衝動的に紙に絵具を塗りたくっているみたいで
観ていて楽しかった
そのとき描いていた絵も展示されていて
その絵と映像の中で出来上がっていく絵を比べながら
観ていたのだが
本当にこの絵に持っていけるのだろうかと疑問に思ってしまうくらいに
ただめちゃくちゃに絵具を塗りたくっているように見えた
でも最後の最後に絵の中に大きなライオンと大きな鳥が現れたときには
この人すげえと感動してしまった
絵だけではなくて布などを使って作った人形や鳥たちも良かった
会場で流れていた映像
Umimatou_SUN 9 January 2022
お盆過ぎから
夏の疲れが出始めた
いま必要なのは
眠ることだということは
わかっているのだけれど
休みになると
朝早くから遊びに出かけてしまっていたので
疲れが全然抜けてくれない
それなのに
いつもはパンを作らない月曜日に
祝日だからとパンを作ってしまい
疲れを増幅させてしまった
そしてバテバテのまま始まった三連休
朝から腰を痛めてしまった
腰を痛めてのパン作りは本当にきつい
きょうはエネルギーを使い果たした
明日はパンが作れるだろうか
年々パンを作ることがきつくなってきている
いまの種類を毎日作ることは
出来なくなってくるだろう
休みも増やさないと行けなくなるかもしれない
仕方ない
すべては移ろいゆくもの
使用期限の最終日
青春18切符に5個目のハンコを押してもらう
何とか使い切ることができた
夏の旅の締めに選んだ場所は
篠田桃江作品館
ここの存在を知ってから
ずっと行ってみたいと思っていたところ
この作品館に並ぶのは篠田桃江という人物と
彼女の作り出す作品に惚れた館長の松木さんが
高校教諭の給料でコツコツと買い集めた作品
篠田桃江との交流の中から
作り上げられていったコレクションは
他の人のはまねできない極上のものとなっている
午前6時50分西那須野発の電車に乗り込んで出発
磐梯山が見えてくる
ススキがそやそや揺らいでいる
秋の気配が濃くなってくる
大きな川
何という名の川だろう
いつまでも電車と並んで水が運ばれていく
新潟に入る
どこまでも広がっている田んぼは
黄金に輝く海を見ているよう
黒磯・新白河・郡山・会津若松・新津で乗り換え
午後12時40分新潟駅に到着
自転車を組み立てて日差しの下に出ると
強烈な暑さ
今夏の旅は行くところ行くところ暑かった
道路の温度表示板は35度を示している
駅前から延びる大きな道路を進み信濃川を渡る
しばらくくねくねと道を曲がりながら走っていると
魚屋さん(渡辺鮮魚店)があったので
真鯛の刺身、バイ貝の刺身、小鯛の湯引きを買って
近くの公園で食べる
半年ぶりくらいの刺身
しみじみ美味い
篠田桃江作品館到着
予約制だったそうだが入れてもらい
中へ入る
2階建ての素適な空間
松木さんの熱が伝わってくる
はじめに作品の簡単な説明を松木さんが
してくれて
そこから作品との一対一の対話が始まる
桃江さんの作品は
どんな風にも見ることができるので
いつまでも眺めていることができる
書かれている文字は元から自分には読めないけれど
桃江さんの作品は文字を文字として見ない方が
描かれているものの美しさを純粋に感じ取れるのかもしれない
いつまでも眺めていたかったが
予約もなし出来てしまったので
思いを切って切り上げる
ここにはまたいつか来るかもしれない
せっかく新潟に来たので日本海を眺めに行く
テトラポットだらけなので
景色を楽しむということは出来なかったが
水の中に入って火照っている体を冷やすことはできた
魚がちょこちょこと泳いでいた
町をブラブラしながら駅へ向かう
もうちょっとじっくり見て回れば
面白いところがいくつか見つかりそうだ
そんな空気をこの町に感じた
おにぎり屋(にぎり米)があったので
電車の中で食べるのにおにぎりを4つほど購入
午後5時7分の電車に乗り込み栃木へ向かう
在来線だけではきょう中に家にたどり着けないので
郡山から那須塩原までは新幹線に乗り換える
午後10時7分那須塩原駅到着
後はのんびり自転車で家まで帰る
今年の夏はいろいろなところに出かけることができた
日を置きながら仕事の合間に出かけたのだが
なんだか連続した夏休みを過ごしたような不思議な感覚だ
どれも日帰りの旅であったが
満足感はとても高いものになった
どの旅も知らない道を自転車で走りたいがために
出かけたところもあったので
日帰りでも十分に楽しめたというところもあるかもしれないが
自転車がなかったとしても
旅に出るという行為が
ただそれ自体で楽しいものではないかと
今夏の旅では感じることができた
篠田桃江 素適な人なので
この映像是非見てください
そして興味を持ったら
篠田桃江作品館にも行ってみてください
下の名前をクリック
篠田桃紅
今週も黒磯駅発午前5時40分の電車に乗る
6時46分に郡山駅に到着したが
7時6分発の福島行きの電車がやってこない
嫌な予感
22分遅れの8時15分に福島駅に到着
8時8分発の米沢行の電車は待っていてくれることもなく
米沢に向けて出発していた
掲示板を見ると
次の米沢行の電車は12時51分
この路線おっかな過ぎる
1500円を払って在来線とは
乗車時間が11分しか違わない山形新幹線で米沢へ
在来線に乗り換えて蔵王駅到着10時22分
先週に続き今週も山形県
先週電車の中から蔵王のスキー場を眺めていたら
久しぶりに行ってみようかなという気持ちになったのだ
電車を降りた瞬間に蒸し暑さが襲ってくる
気温33度 いつまで暑いんだ山形
蔵王温泉までは10kmちょっと
自転車で坂道を上がっていく
雲が多く風もあるので自転車を走らせていれば
それ程暑さを感じないが
汗はどんどん流れ落ちる
なかなか進んでいかない自転車
人間の持っている力なんてこんなものなんだ
ボタン一つで何でもできてしまい
人間の持っているエネルギー
それを遥かに超えているとてつもない大きなエネルギーを
日々当たり前に使って生きていれば
人間は勘違いしてしまう
様々なことで歯止めが利かなくなってしまう
そして
おそらく
いつか滅びていくのだろう
蔵王中央ロープウェイ到着午前11時40分
蔵王の匂いだ
子供の頃にはよく来ていたのだけれど
何十年かぶりにやってきた
とりあえず温泉街をブラブラする
雪があるときにしか来たことがなかったので
蔵王のようで蔵王でない感じ
大露天風呂の看板があったので
行ってみる
自分が来ていたころはまだなかったと思う
開放感のあるお風呂
そうだそうだこのお湯だ
蔵王のお湯だ
ちょうど山形ビエンナーレをやっていて
蔵王温泉にもいくつか作品が展示されていたので
すこし見て歩いた
雨が降ってきたが濡れながら歩いた
ジンギスカンを食べてから
共同浴場へ
料金大人200円は子供のころから変わっていない
いいお湯だ!
強い酸性の硫黄泉
大露天風呂と変わらないお湯なのだが
自分はなぜだか共同浴場の方が断然好きだ
来る前は3つある共同浴場を全部回ろうと考えていたのだが
湯から上がってもいつまでもポカポカで
からだが冷めないので
ひとつだけで止めた
また雨が降り出しそうなので駅へ向かう
途中で出会った沼(鴫ノ谷沼)が今日の天気と合わさって
神秘的な世界を作り出していた
温泉地の手前にあった気温表示機は
お昼前には28度と表示されていたのだが
午後4時過ぎたところでは
20度まで数字が下がっていた
ほぼ10km下りが続く
ひんやりした空気が温泉で火照った体の中を
通り過ぎていく
蔵王道の駅があったので寄ってみる
たくさんの種類の野菜とフルーツ
素晴らしい温泉があって
美味い食材があって
スキーができる
誰かあるひとにとったら
この町は天国だろう
5時10分
遅れて入ってきた電車に乗って栃木へ向かう
休日一日目
午前4時10分自転車で出発
日が短くなってきた
外はまだ真っ暗
今回はぎりぎりに氏家駅に到着
午前5時21分の電車
宇都宮・大宮・南浦和・西国分寺・高尾と乗り換え
大月駅に午前9時23分に到着
(高尾駅ホームでおにぎり3個購入)
自転車で出発
日差し強い 33度
ほぼ上り
午前11時20分 河口湖到着
結婚式か何かの建物前の自販機で飲料補給
ハーブガーデン無料で入場できますと書かれた看板があったので
少しブラブラ歩いてみる
入り口付近にいたスタッフがしばらくハーブの説明をしてくれた
一周して戻ってくると
うまい具合にカフェの前を通らなければ出口に出られないようになっている
カフェの前には先ほどのスタッフ
どうやら罠にかかってしまったようだ
とりあえず河口湖を一周してみる
富士山は下半分だけ姿を見せている
椅子を作ってもらった吉野さんの住宅兼工房前は
たくさんの観光客
河口湖を挟んで真正面に富士山がドカーンと立っている
写真を撮るベストポイントなのだろう
日陰に入るとだいぶ涼しい
大月付近とはだいぶ気温が違うようだ
車があまり走っていないので
気持ちよく自転車を走らせることができる
昼寝ができそうな場所もちょこちょこあるので
気候が良い時期にはゆったり過ごせそうだ
思っていたほど一周走るのに時間がかからなかったので
お盆休みのこの辺りに
遊びに来ていたひとから聞いた鳴沢氷穴という溶岩洞穴に
行ってみることにした
入口へ通じる階段を降りていくと
穴の中から漏れてくる冷気で
もう相当涼しさを感じてしまう
中は横幅が狭かったり
天井が低かったりするので
しゃがまなければ進めない場所なんかがあり
疲れている体にはちょっとこたえるが
火照っていた体が一気に冷えた
外に出るまでに3回頭をぶつけた
大月までの帰りはほぼ下り
道はガタガタで良くないのでちょっと神経を使う
富士吉田市では火祭りの初日
法被を着た人々が歩いている
見ていきたかったが
火を点火するのは夜になってからとのこと
大月駅まで残り10Kmのところで
久しぶりにすっころんだ
途中で買ったトウモロコシで
前方に取り付けた荷物が重くなり
ハンドルを持っていかれたのか
普通ならバランスを崩すはずのない曲がり方を
したはずなのだが豪快に転んだ
午後4時前に大月駅に到着
電車はうまい具合に乗り継ぎができ
午後10時ころ家に到着
休日2日目
午前4時25分 自転車で出発
黒磯駅には早めについたので
少し付近をぶらつく
青春18きっぷを買ったのだが使えていなかったので
2日連続での電車旅
きのうは寝つきが良くなかったので少し眠い
午前5時40分の電車
今日も乗り換え多し
新白河・郡山・福島・米沢・山形で乗り換え
東北方面は電車の本数が少ないので
電車の待ち時間がだいぶ長くなる
米沢では40分の待ち時間があったので
街をブラブラしようと自転車を準備していると
同じ電車に乗っていた峠駅の近くの温泉宿で
料理を作っているという方が
上杉神社の蓮がすごいと教えてくれたので行ってみた
帰ってくると後
数分で電車の発車時刻
40分という時間はじっと待つには長すぎるけれど
街をブラブラするには短すぎる
山形駅でも60分の待ち時間があったが
ようやく天童駅に到着 午前11時46分
早速自転車で出羽桜美術館へ向かうが
またしても転倒
今回は走っている時ではなく
道を間違えて自転車をUターンさせようとしたときに
つんのめっての転倒
疲れていたのかな
出羽桜美術館で斎藤真一の絵とご対面
彼の素描はいくつか見たことがあったのだが
油絵は見たことがなかったので
ずっと見たいと思っていた
瞽女や遊女、サーカスの絵など20点くらい見ることができた
10KMくらい先に山寺(立石寺)があったので行ってみる
饅頭屋の旦那が
「きょうあたりからだいぶすごしやすくなりましたねえ」と言っていたが
日差しがじりじり皮膚を焼いていく
きのうまではどんなだったんだ
道端にフルーツの無人販売所があったので寄ってみる
無人販売の文字を見かけると
どうしても足が向かってしまう
全品200円
ひとパックが200円ではあまりにも安すぎるから
一個の値段が200円なのだろうと
仕事途中に買いに寄ったのであろう作業服姿の夫婦に
訊ねてみるとひとパックで200円だという
モモ3個で200円 プラム5個で200円 なし2個で200円
ぶどうひと房200円
1000円分買って二つの袋がぎっしり
きのう山梨で桃を1個1000円で買ったのになあ
この無人販売所を知れただけで
うれしくて心がいっぱいになってしまった
今回の旅はここにこれただけで充分に満たされてしまった
山寺に到着
ここは名前だけしか知らなくて
あまり期待もなく来てみたのだが
門をくぐって階段を上り始めたら
ここは良いぞ
すごく良いぞと
一瞬で好きになった
汗だくになったが来てよかった
旅に出るとよく蛇に遭遇する
きょうも寺の石段をよいしょよいしょと
下りている子供のヤマカカシに出会った
山寺駅に着くとすぐに電車が到着
きのう、きょうとでかなり疲れたので
できれば早く帰りたかった
乗り継ぎがうまく運んでくれればいいのだがと祈りながら
電車に乗り込む
午後3時7分山寺出発
米沢まではうまい具合に進めたのだが
米沢から福島に向かう電車が出るのが1時間30分後
さすがにそこまで待てないので
1500円を払って山形新幹線で福島まで出ることに
米沢から福島まで在来線で行っても新幹線で行っても
かかる時間は数分しか変わらないのに
福島駅で30分新白河駅で40分待って
西那須野駅には午後9時ころ到着
きょうはとにかく電車移動が疲れた
待ち疲れ
でもまあ良い休日だった
東京ステーションギャラリーで
「空想案内人 ジャン=ミッシェル・フォロン」展
ステーションギャラ―は観に行くたびに
何かしらうならされるので
できるだけチェックするようにしている
ジャン=ミッシェル・フォロン
名前も知らなかった人だけれど
今回もだいぶ楽しませてもらえた
夏を感じたくなったので
午前中は外に出て
自転車とランニング
やはり暑かろうが体を動かして
汗を流すのは気持ちがいい
走っているうちに
肉体も脳みそもとろけてきて
地球と一体になってしまったような感覚
体の中のエネルギーを
全部出し尽くしたいという気持ちになってきて
ダッシュなどを取り混ぜながら
黙々と走る
木陰や風の有難さ
水の美味さ
便利で快適な中で生きていれば
絶対に味わえない歓び
こんなささやかなものだけれど
苦しい思いをしているときには
もうこれだけで十分であって
それ以上のものは何もいらないと思えてしまうのだ
幸福を感じてしまうのだ
便利で快適な中で生きていれば
どんなことだって当たり前なことにしか思えなくなってしまう
苦しい思いをしているような
ささやかな歓びも感じることができなく
満たされるということがないので
欲が次から次へと湧いてきてしまうんだ
ダッシュをしたり自転車を一所懸命こがなくたって
自然の中に飛び出せば
もうそれだけで苦しさは伴われてくるものだから
出来る限り
外に出て過ごす時間を作ろうと思う
歳を重ねてくると
移ろいゆくものへと眼が向かってしまう
そんな機会が増えてくる
そんな時は
寂しい気持ちになったり
悲しい気持ちになったりすることが多いけれど
そこに美しさを感じてしまうこともある
枯れていくなかでも
生きていく姿
人間は産まれ落ちた瞬間から
枯れ始まっているのかもしれない
午後1時前に何とかパンが焼き上がったので
無人販売の準備をして
浜田真理子の宇都宮公演に向かった
明日はパン屋の20何周年かの記念日なので
パンを作りたいという思いもあったが
天からの贈り物だと受け取って
コンサートの方を選択した
これからペースを緩めていくことになるだろうから
その手始めにという思いもあったかな
予定通り会場(悠日)までの道のりで
迷子になったが迷子の達人にとってみれば
見つけ出すことは
そう難しいことではない
ここでコンサートがあると知らなければ
あまり中に入りたくないなあと躊躇してしまったであろう
怪しげな扉を開けて中に入る
雑然とした空間
自分の店と似た匂いを感じる
浜田真理子登場
彼女のコンサートに来たのは十数年ぶりか
音楽のコンサート自体かなり久しぶり
Idan Raichelのコンサートが最後だったから十年ぶりくらいか
ピアノが鳴り歌が始まる
ピアノを弾き歌を歌う昔と同じことをやっているし
同じ歌を歌っているけれど
すべては移ろいゆくもの
聞いている自分も
二曲目からサックスのMarinoが入る
真理子とMarinoが良い感じで絡み合い
大谷石で囲まれた空間を
美しく心地の良い空気で
満たしていく
素適なひと時をありがとう
今夜の一曲は
のこされし者のうたー浜田真理子/hamadamariko
もう一曲
流転/浜田真理子/胡池マキコ/Borzoi record
地元にらくりん座という
だいぶ古くからやっている劇団がある
通っていた小学校の体育館にやってきた
らくりん座の公演を観たのが
自分が生のお芝居に触れた最初の体験だった
あの時のワクワク感は忘れることなく
ずっと自分の心に残ることになり
高校を出て東京に出ると
空いている時間にお芝居を観に行くようになった
最初はストレイトプレイ
それからミュージカルも観るようになり
文楽や能楽の伝統芸能とすこしずつ開けてきた
伝統工芸に興味を持ったり
コンサートや美術館に行くようになったのも
その流れだろう
だから
らくりん座にはかなりの影響を受けていたことになる
初めての芝居体験から数十年
いま現在も自分はあのワクワク感を追い求めて
日々生きている気がする
ということは自分はらくりん座によって
生きていく道筋をつけられてしまったのかもしれないなあと
先日ちょくちょくパンを買いに来てくれる女性から
「らくりん座は私のおじいちゃんが作りました」と聞いたときに
これまでのことを思い返してみて
そう思った
子供の頃にどんなものに出会うか
それによって決まってしまう人生というものもあるんだなあと
改めて子供の時期の大切さを思った
午前3時30分起床
急いで無人販売の準備などをして
午前4時5分に自転車で出発
すごい湿気、気温27度
さわやかな朝の空気を期待していたのだが
全然気持ちよくない
午前5時10分氏家駅に到着
久しぶりに青春18きっぷを購入
午前5時21分の一番電車
乗り換えで新宿駅ホームに下りると
まだ午前7時45分だというのに
恐ろしい暑さ
電車を4回乗り換えて
午後12時11分長野県の茅野駅に到着
長野は涼しいだろうと思っていたのだが
強い日差しがガンガン迫ってくる
そうだ諏訪盆地じゃないか
小学校で教わった諏訪盆地という言葉が
パッと頭に浮かんできた
知識だけを頭に植え付けただけでは
何にもならないのだ
実際に自分の体で感じなければ
思っていた以上に長い上り坂
急ではないけれど
暑さで力を奪われる
茅野市尖石縄文考古館に到着
縄文のビーナスと仮面の女神に初対面
ようやく出会えた
実物を目の前にすると
いろいろなことを想像させられてしまう
もちろん想像するだけで何もわからないのだが
縄文の人々は
現代の日本に暮らす人々の中にはなくなっている
ものすごく広くて大きい何かを感じて生きていたのだと思う
外に出るとさらに気温が上がっている
茅野の市街地まではずっと下り
タイヤがどんどん回転してくれる
茅野市から隣の諏訪市へ移動
諏訪湖は想像していたよりもだいぶ小さかった
何人かの人に道を尋ねながら
諏訪大社下社春宮に到着
鳥居をくぐった瞬間に
来てよかったとうれしくなった
素晴らしい空間
御柱を眺めながら
次の御柱祭は絶対に行こうと心に決めた
水の流れる音が聞こえるので
涼みたくなり引き寄せられるように向かってみると
川では何人もの子供たちが水浴びをして遊んでいた
久しぶりに夏休みに子供たちが外で遊ぶ光景を見ることができ
高揚してきたので
自分もしばらく水浴びを楽しんだ
橋を渡ったところに万治の石仏があった
うれしくなってしまう姿
ここにも縄文があった!
下社秋宮もそれ程離れていなさそうなので
行ってみた
ここは池が素敵だった
いつまでもボーっと眺めていられる
下諏訪駅に行ってみると
東京方面へ向かう電車は一時間後の出発だったので
町をブラブラしていると
280円で入れる無人の温泉(矢木温泉)があった
汗を流すだけでもと入ってみたら
思っていた以上にさっぱりとした気分になれたし
疲れもとれたし頭痛も治まった
帰りの電車の中では50代後半くらいの女性が
席に座らずに立ったままずっとヨガをやっているし
向こうの方では60代くらいの女性が
やはり席に座らず立ったまま
カチカチカチカチとずっとけん玉をやっている
これも縄文か?
茅野・諏訪地域侮れないぞ!
帰りはずっと車窓からの風景を楽しんだ
栗や楢の雑木林がそこいら中に散らばっている
深く険しそうな山々が連なった美しい姿
小淵沢の辺りから見えた山は何て名前の山だろう?
いまこの瞬間もあの山を歩いている人がいるのだろうか?
電車に乗り込んでくる部活帰りの日に焼けた高校生たちの
まぶしさを眺めながら
自分もあのまぶしさを取り戻すぞと
静かにこころへと誓う
電車が東京へ入った途端
前を走る電車の不具合で電車が止まる
20分以上止まっていただろうか
西那須野駅までたどり着けるか
かなりギリギリのところだったが
いざというときは自転車があるから
何とかなるだろうと焦ることもなかった
宇都宮到着午後11時
10分の差で最終の黒磯行に間に合わなかった
自転車で帰るつもりでいたのだけれど
10分後の出る新幹線があったので
1720円を払って那須塩原まで帰ることに
新幹線の中で
下諏訪駅近くの総菜屋さん(デリカショップやまだ)で
購入した鶏ごぼうとお結びを食べる
海苔がべったりはられたおばあちゃんのお結びだ
鶏ごぼうもうまい
ホッとする味
諏訪に行くことがあったらまた寄りたいな
午前0時自宅に到着
浜田真理子 宇都宮公演
悠日
〒320-0838
栃木県宇都宮市吉野町1-7-10
胸の小箱 (Live at 草月ホール, 東京, 2018)
8月12日 開場15:00 開演16:00
浜田真理子 Official Website
那珂川町にあるもうひとつの美術館
企画展
「これは 文字? 記号? それとも 暗号?」
7月12日~11月24日
炎天下を蝉の声を聞きながら
田舎道を汗を流し自転車をこいでいると
子供時代の夏休みに戻っている
まったくあのころのままの夏をいまも生きている
廃校になった小学校の木造校舎を使った美術館が
更に自分を子供時代の深みへと押し戻す
今回の企画展は
文字が使われている作品を展示するということを
聞いていたので
いつもよりは地味目の展覧会かもしれないいなあと思いながら
展示室に入ったのだが
まったくそんなことにはなっていなくて
14人がそれぞれ色とりどりの花を咲かせていた
作品を眺めながら
自分の店をひとりひとりの作品でそれぞれ飾っていったら
14通りのまったく違った空間の店が出来上がっていくだろうなと
いろいろとその空間を想像してニヤニヤしていた
やはりこの美術館は楽しい
ここ何年かは毎週のようにどこかの美術館に
足を運んでいたのだが
だんだんと美術館に行く回数が減ってきた
ひとを意識しすぎて作られたものに接するということに
疲れてきたのかもしれない
もうひとつの美術館は
いろいろなものを観尽した人たちが
最後に行きつく美術館なのかもしれない
もうひとつの美術館
うまいだとかへたくそだとか
そんなところをこえたところで
いきていきたい
生かされているんだなあと
いまになって
それを強く感じられるようになってきた
パン屋を始めて
いつの間にかかなりの年月が経ったが
そこのところだけを見てみても
パンを食べてくれる人がいて
小麦やライ麦やドライフルーツなどを
作ってくれる人がいて
いろいろな命を食べることで自分は動き生きている
そして
作物を作ってくれるお日様、空気、雨、
微生物、昆虫や鳥
機械を動かしてくれる電気などなど
掘り下げていけば
あと10万個20万個くらいは思いつくけれど
とにかく多くのものの存在に支えられて
パン屋を続けることが出来ているんだ
パンを離れたところを見てもそれは言えるわけで
それを思えば
満たされていないなんてことは言えない
充分楽しく生きさせてもらった
こころがいっぱいになっていることに気がつくと
欲張ることもなくなって
いまという
その時その時を
焦ることもなく
楽しめるようになってきた
いまという時に
集中できるようになってきた
今年は空梅雨だろうか
梅雨入り宣言がされてからも雨が降らない
代わりに気温が高い日が続いている
きょうは行ったことがないところを走りたかったので
昨日聞いた雄飛の滝を見に行くことにした
午前9時20分出発
行く前に地図を見てみたが
クネクネクネクネ曲がらないとたどり着けないようだ
どこを曲がるかなんて覚えられそうもないので
とりあえず山を目指して走った
何度か来た道を戻ったりしながら
おそらくこの道を進めば
滝付近には着けるだろうという道に出ることができた
緩やかな上りが続いたが
すこしずつ傾斜が出てきた
この方が気合が入るので自転車をこぐのも楽になる
だいぶ坂道を登ったところで
県民の森に行く道と八方ヶ原に行く道に
わかれている場所に出た
これは難しい選択だぞとしばらく迷ったが
出かける前に眺めた地図に
県民の森ってあったなあと思い出し
そっちに行ってみることに
展望台があるところまで上ってみたが
こっちではなさそうだなという勘が働き
もう一度分かれ道に戻って
八方ヶ原方面の道を進む
ここまでずっと杉林が続き
気分が盛り上がってこなかったのだが
広葉樹の森に突然切り替わった
しかも素晴らしく良い山だ
ここは何度も来ることになりそうだ
うれしくなって八方ヶ原のてっぺんまで
走ってきた
お腹がすいたので八方ヶ原山の駅に寄り
チーズを購入
まだお昼前かなと感じていたが
時計を見ると午後1時30分
ここからは下りだ
おしらじの滝の看板があったので行ってみる
この滝の名前は何度か聞いたことがあった
水が岩肌をちょろちょろと滑り落ちているだけだったが
滝壺にはブルーの水が溜まっていた
更に下りが続く
一頭の雌鹿と遭遇
鹿とは本日二度目の遭遇
今日は狸も見たし
山に入っている間
鳥とセミの鳴き声が凄まじかった
自分の暮らす土地とは別世界に入り込んでしまった
雌鹿は近寄っても逃げることなく
草をムシャムシャ食べている
雄飛の滝の看板を見つける
自転車を降りて
スッカン沢に沿った遊歩道を進む
ラムネ色の水が流れていく
滝がいくつかあったが
滝よりも水の美しさにやられてしまった
舐めてみると片栗粉か何かを混ぜたような味がする
塩原の温泉街を抜け家へ向かう
午後5時30分家に到着
もうこんな時刻とちょっと驚き
午前4時10分出発
帰りは電車になるかもしれないので
16インチの折り畳み自転車を選択
馬頭町から国道294号に入って茨城方面へ
県境の山を越えると平坦の道が続くのだが
信号が増えるのでリズムが崩れて疲れてくる
大洗に入ると海が見えてきた
気分が上がる
鉾田市ではそこいらじゅうでメロンが売っていた
食べたくなってきたけれど
丸ごとひとつは食べられそうもないので断念
先週から寝つきが悪い日が続き
出かけるときにも眠気が残っていたのだが
だんだん頭がボーっとしてきた
足も少し疲れてきたので
鹿島灘海浜公園で一休み
売店で買ったトマトを眺めながら海を眺める
海は湘南や熱海、伊豆方面に行くことが多いので
横にどこまでも広がっている海は新鮮だ
午前11時10分鹿島神宮到着
にぎわっているが外国人がまったくいない
利根川を渡って千葉県に入る
香取市役所前の観光案内地図で
香取神宮の場所を探していると
伊能忠敬記念館の文字が眼に入り
ちょっと胸が躍る
これは行ってみたいと向かってみたが定休日
香取神宮着午後1時40分
周辺に古墳らしきものが点々とあった
平面の地図をながめているだけでは全然つかめなかったが
折り畳みの自転車を手に入れたことによって
少しずつ自分の中で日本の地図が形作られてきた
まだ余裕があったので
銚子まで行ってみることに
普段は一日中建物の中に
こもりっぱなしなので
休みの日には出来る限り
外で体を動かして過ごしたい
銚子の市街地に入る手前にある神社に
天保水滸伝と書かれたのぼりが立っていた
おお~笹川繁蔵だ!
きょうは伊能忠敬に続きまさかの出会い
銚子市街地着午後4時10分
どこかで刺身を買って食べようと
売っているところを探したが
見つからず
動き回る気力もあまり残っていないので
午後4時40分の電車で帰ってくる
午後11時自宅に到着
これだけ有難いことが
日々
起きているのに
あと何がいるというのだろうか
良い天気
自転車で出かける
家を出るのが遅かったので
ブラブラしてから
どこかでランニングをして
帰ってくるつもりだったのだが
しばらく走っていると
最近海に行っていないなあという思いが
パッと頭に浮かんできた
それで「
とりあえず海のある方向に
舵を切る
那須町の伊王野へ出てから
福島県の棚倉町に向かう
山越えの道は棚田が広がっていたりで
なかなか良い感じ
棚倉町に着くと
もう午前11時30分
海のあるだろう方角へを目を向けてみると
まだまだ遠そうだ
海に行ってしまえば
暗くなる前に家に帰ることは出来なくなるので
今回は諦めて引き返すことに
帰りの山越えは重いギアでも走り続けられる傾斜
ただただペダルをこぎ続ける
汗がしたたり落ちていく
体から心から
いろいろなものが削ぎ落ちていき
残ったのは幸福感
道を照らし続けてくれるお日様の有難さ
日陰を作って暑さを遮ってくれている木々の有難さ
しっかりと自転車をこぎ続けてくれている身体の有難さ
疲れを忘れさせてくれる美しい風景の有難さ
生きていることのありがたさ
産まれてこれたことの有難さ
幸福とは有難さを感じることなのかもしれない
午後3時前に棚倉町から家に到着
足が軽くなっている
ご飯を作ったり風呂に入ったり昼寝をしたりして
少し休んでから
午後7時30分ころランニングに出かける
良い風が吹いている
どんなに世の中や人間たちが変わっても
この風だけは変わらない
いつでも
僕をやさしく包み込んでくれる
朝飯は毎日買ってきた菓子パンをひとつ食べて
おしまい
そんな生活はちょっと味気ない
自分がシンプルな食事パンばかり作っているのは
食べる人に手を加える余地を残しておくためだ
創造や工夫やひと手間
自分の頭と体を使って生活することが
生きている歓びや充実感に結びついていく
そんなふうに思えるのだ
そのことに気づく人たちが増えて行けば
世界がちょっとは変わっていく気がする
気温が上がってきてから
ライ麦酵母で作るパン作りにだいぶ手間取ったが
土曜日、日曜日とかなり良いパンが出来た
なんでこうするとこうなるのか
頭で考えてもわからないところが
ライ麦パンにはある
試して試して試して試して
この繰り返しで
見つけていくしかないのだ
歳を重ねてきて
物事の見え方が変わってきた
いろいろなことが
どうでもよくなってきた
人にどう見られようと構わなくなってきたし
価値観なんかも変わってきた
欲もだんだん無くなってきた
手に入れたいものが手に入れられなかったり
こうなってほしいと思っていても
それが思い通りにならなかったり
手に入れたいものやこうなって欲しいことというのは
欲望というものが作り出した思いであって
もともと無かったものなのだから
手に入らなかろうが
思い通りにならなかろうが
平気なのだ
そんなふうに考えられるようになってきた
日々生きている中で
当たり前のように過ぎていくこと
それらひとつひとつのことに
有難みを忘れてしまって生きているから
物事を浅くしか見られなくなっているんだ
島田覚夫著 「私は魔境に生きた」を読んでいる
終戦を知らずにニューギニアの山奥で10年間を
生き抜いたひとたちの話
自分が今まで読んだ本のなかでも
10本の指に入る面白さ
豚のスペアリブとジャガイモのスープを作る
最近は午前2時か3時ころに
パンを作り始めることが多いので
早めに寝なければならない
5分か10分でもランニングをする時間を作るために
店番の合間に食事を作るようにしたのだが
あまり長い時間は使えない
短い時間で調理が済ませられるように
今春は新玉ねぎと切り干し大根が大活躍してくれた
このうま味と甘味のぎっしり詰まった二つの偉大な食材を
使い食べながら
こんなパンを作れたらなあと思うのである
このところ月曜日か火曜日か
両日か又はどちらかは必ず雨が降る
なかなか自転車で遠出が出来なかったが
久々に出かけられた
喜連川町、高根沢町を抜けて益子へ向かい
陶芸美術館で勝城碧鳳氏の竹芸作品を観る
やはりこの人の作品は良いんだよなあ
自分というものは
瞬間瞬間に変わっていく
一秒前の自分は
もういまの自分ではない
どんな失敗をしようが
次の瞬間には
別の自分になっているんだ
思いも考えも
次の瞬間には
別のものになっている
自分というものは
実体のないもののように
ぶらぶらと生きている
大人が子供の成長を
邪魔してしまっていることは
けっこう多くあると思う
子供が失敗する機会を
奪ってしまったり
危険なことから
遠ざけてしまったり
この子にはできないだろうと
やる前から決め付けてしまって
やらせなかったり
ずっと外に出なかったら
好奇心欠乏症で
魂が腐っていっただろう
胸躍らせながら
生きていなければ
好奇心なんて
湧き上がってこない
最近よく美術館に行っている
息抜きの場をいくつか持っていて
助かった
そういう場がなかったら
この世の中
生きていくのはきつかったと思う
山だったり
川だったり
劇場だったり
ジムだったり
そういう場を見つけることができる土壌を
作ってやることは
何よりも大切だと思う
学校と塾だけの生活だとか
狭い世界しか知らないでいれば
いつかパンクしてしまうだろう
暑さがやわらいだ頃から
パンを作っている最中は
いい感じで行っているぞという感覚は
ないのだけれど
食べてみると
ものすごく美味いということが
続いている
ちょっとモヤモヤしているが
おそらく自分が思っているベストな生地の状態と
美味いパンになるための実際のベストな生地の状態に
開きがあるのだと思う
きょうは天気が崩れそうなので
美術館に行ってきた
生誕120年記念 篁牛人展~昭和水墨画壇の鬼才~ | 大倉集古館
根津美術館でチラシを見たときの印象は
「へんてこりんな絵だな」といったものだったのだが
このひとの絵は実物を見てみないと
絶対にわからない
墨をつけてから乾かした筆で
擦り付けるように麻紙に描いかれた黒
ささくれ立った紙が絵を活き活きと輝かせている
カラスやカタツムリが良い味を出している
色使いも良かった
初期に描かれた絵に
ぐっと迫ってくる作品が多かった
12月12日 日曜日
NHK Eテレ 午後8時~
日曜美術館で牛人展の紹介されるそうです
長野県立美術館の 『唐招提寺障壁画展』へ
東山魁夷の絵は
まだ一度も見たことがなかったので
どんなものなんだろうと観に行ってみた
人気がある方のようで 結構な数のひとが入っていた
かなり異質な絵
これまで美術館で観る機会がなかったのは
他の人の絵を東山の絵の隣には
並べにくいかったからなのかもしれない
近くにある水野美術館にも寄ってみようかと
考えていたのだが
東山の絵に浸った後では
他の人の絵は入ってこなかっただろう
東山の絵は少し離れたところから
ひとりでボーッと眺めていたい絵であった
実際にそうしたのだが
ずっと眺めていると
このひとは空気を 描こうとしていたのかなという思いにいたった
東山は この風景に自分の孤独を見ていたのだなあ
障壁画だけではなく 白馬シリーズや山水図も
展示してあったので
かなりまとまった数の絵を見ることが出来た
こころが躍りだすと
好奇心もムズムズと目を覚ます
行きたいところが いっぱい出て来てしまったぞ
何をやるにしても 自信なんてないけれど
うまくいかなくてもいいやと
思いを気って やっている
午前中 少し気温が上がるのを待って ランニング
きょうはからだが重いけれど
少し長めの距離のダッシュを何本か入れる
なかなか前に進まないしキツイ
からだがバラバラに分解してしまいそう
守りに入ってしまいそうな心に
いつものように「ぶっ壊せ! ぶっ壊せ!」と
発破をかける
そのときそのときの
思いつきで生きている
計画を立てるのは苦手だし
好きでもない
目標達成とかいうのも
苦手だし その前に
そういう考えにいたらない
それでいいと思っている
それが自分には合っているし
楽しく生きられる
あそこに行こうと突然思いつき
出かけてしまうから 準備なんてできないし
前情報もほとんどないで出かけることになる
地図らしきものもパッと見ただけで 出かけてしまうので
そう簡単にはたどり着けない
山に行っても 山の中に入っただけで
すぐに満たされてしまうので
頂にはほとんど関心がない
東京に住んでいたときは
よく芝居やミュージカルを観にいっていた
何か面白そうなものがやっていたら久しぶりに
観にいってみようかなあと
ちょこちょこっと探していたら
「ウォーーー」と
こころを動かすものが出て来てしまった
シアタークリエ ミュージカル『リトルプリンス』 - 演劇|東宝 ..
よく観にいっていた音楽座という劇団の
音楽座ミュージカル
看板女優だった土居裕子が
音楽座のミュージカル「リトルプリンス」を
二十数年振りに演じるというもの
速攻でチケットを買いに行ったけれど
東京公演(Wキャスト 土居)は売り切れ
愛知公演の抽選に申し込んでしまった
20数年が過ぎて
いまの彼女がどんな王子を演じるのか
見てみたい
怖さに向かって
エイ、ヤァーと跳び込んでいく瞬間が好きだ
怖さの先には
自分がこころから望んでいることがある
跳んだ瞬間
そこには幸福しかない
その一瞬の幸福感を得られたのなら
その先
うまくいこうが
いかなかろうが
こころは満たされる
昔は飛ぶことが
なかなか出来なかった
でも
いまなら跳ぶ方法を知っている
ただ跳べばよかったんだ
その場でぴょんと跳び上がるように
跳べるのは
跳ぼうと思ったからだ
そう思わなければ絶対に跳べやしない
跳ぼうと思ってぴょんと跳んでみる
それだけのことだったんだ
これまでの
やれなかったでの後悔の数々
これから
その後悔が吹っ飛んでいってしまうくらい
やりたいと思ったことを次々とやっていこうと思う
忘れてしまいがちだけれど
死へのカウントダウンは始まっている
もしかしたら
もう秒読み段階に入っているかもしれない
今度だとか
もう少し経ってからだとか
もうそんな考えは
いらない
いまだ
いまやる
とにかく今日を
この今を
楽しんで生きること
それだけだ
効果だとか結果だとか
うまくいくかどうかだとか
そんなものは
もう頭にないなあ
いま
それをやっているということがすべて
走れているという喜び ありがたさ
ひとと会えているという喜び ありがたさ
パンを作れているという喜び ありがたさ
生きているという喜び
それを忘れないでいること
その喜びを感じながら生きること
それでも生きる
それでも作る
それでもやる
どんな状況であれ
どんな状態であれ
自分が本当に望んでいるものであれば
覚悟は出来る
気温が下がってきて
パンが美味しくなってきているなら
夏もどうにかすれば
もう少しうまいパンが作れるかもしれない
エアコンも冷蔵庫も製氷機も
低温で発酵させる機械もないけれど
そこはこれまでの失敗の数々で得た
引き出しで勝負だ
ものづくりは
機械の性能に頼るより
自分の知恵や勘や感覚を使って
つくる方が面白いのだ
気温が下がってきて
パンが美味しさを増してきた
特にライ麦の割合が少ないパンは
変化が大きく
旨味がぎっしり詰まっている
ライ麦の割合が多いパンも
いい味を出している
空洞のパンを食べてみたら
薄いのに
ものすごいモチモチ感
そして旨味と甘みと酸味が
バランスよく混ざり合っている
本日の夕飯
オリーブオイルでニンニク、鷹の爪、ヒラタケ、カブ、
青菜、鯖の水煮、生姜、きざみ昆布、ライ麦95%を炒める
味付け 味噌、、酒、酢
いろいろな人の話を聞いていて
子供の頃の体験というものは
からだに染み込みやすく
大人になってからも
その人に
なんらかの影響が与え続けるということが
わかった
山で遊んだり
釣りをしたり
キャンプをしたり
美術館へ行ったり
芝居を観たり
自家製の野菜を使った料理を毎日食べていたり
いろんな土地を体験したり
きょうは美術館
まずは根津美術館
円山応挙の保津川屏風
鈴木其一の夏秋渓流図屏風
保津川屏風が実物を見ると
すごくよかった絵なのに立体的に見えてしまう
屏風の面白さ
庭に出ると心地のよい風が吹いていて
素敵な空間で素敵な時を過ごせた
京王線に乗って
府中市美術館『動物の絵』展へ
乗る電車を間違えたり乗り過ごしたりで
青山から府中まで
距離以上に遠かった
あまり期待していなかったのだが
面白い絵がいっぱいあった
どんな絵があるのか
知らないでいったので
北斎の「河豚と大根」や「鷲図」
蕭白の「遊鯉図」に出くわしたときはこころが躍った
犬や猫などの絵がいっぱい
動物好きなら
なかなか美術館から出て来られないかもしれない
初めての美術館体験は
こういう展覧会もいいかもしれない
こんな美術館が住んでいるところにあったらいいなあ
おすすめです
朝6時出発
川霧がモワモワと立ち上り
太陽の七変化
幻想的な光景を眺めながら
自転車をこぐ
道路わきに立っている気温表示盤を見ると0度
昨年は風通し抜群高級軍手で出てきてしまって
痛い目にあったが
今回は防寒用の手袋と耳あて帽で万全
8時過ぎに袋田の滝に到着
少し滝を眺めてから山へ
このところ暖かかったせいか
もみじ以外の木は色づきがよくない
もみじも紅葉している木と
まったくしていない木が半分半分
もみじ谷を下って主(巨大もみじ)の元へ
まだまだ元気そうだ
観音堂の鐘を叩いて山を下りる
空気が美味しかった
だいご小学校で欅の巨木に挨拶をして帰宅
袋田の滝を眺めながら
こんな絵を見たことがあるなあと思いをめぐらしていた
下野黒髪山きりふりの滝 - アダチ版画研究所
袋田の滝編(大子町)平成27年1月9日放送 - 茨城県
体が動くようになってきた
ランニングもだいぶ楽になってきて
距離も走れるようになってきたし
呼吸も楽だ
昨年も11月になって
突然からだが動くようになった
運動量が少ないので
まだ昨年程には動けないが
徐々に上げていけると思う
今年の一月がピークだったのだが
その後トレーニング時間が取れなくなってきて
一気に落ちた
ある程度強めのトレーニングを
継続してこなしていれば
歳をとっても
からだはけっこう動いてくれるのではないかと思う
一度落ちてしまうと
強いトレーニングがきつくて
なかなか出来なくなってしまう
そうなれば落ちる一方
歳をとったから体力が落ちた訳ではなくて
トレーニング量が落ちたから
体力が落ちてしまうのだ
(歳をとれば徐々に体力は落ちていくとは思うが
一気に落ちるのはトレーニング量が大きな原因だと思う)
数週間前に京都にいったとき
平焼きのレーズンのパンを持っていった
ゴルゴンゾーラをつけてパクリ
飛び切りうまかった
奇跡の味だ
20年間平焼きレーズンの生地の硬さを
決めかねていたのだけれど
ようやく決まった
ずっと出かけないでいると
出かけるのが億劫になってくるのだけれど
思い切ってエイヤァーと出かけてみると
またすぐに出かけたくなる
その場所に留まって暮らすことで
良いこともあったのだろうけれど
今現在の大きな問題のほとんどすべてのことは
その場所に留まって暮らすことによって
起こってきたこと
その場所に留まって暮らすことを決めた時点で
滅びゆくことも決まっていたのかもしれない
あとは
そのときが来るのを
どれだけ延ばすことができるかなのだろう
ずっと、そこに留まっていることで
いろいろな問題が生じてくる
その問題を解決するには
ものすごい労力がいったり
困難なことがあったり
環境破壊やゴミの問題
争いごとややっかみ などなど
これだけ人口が増えてしまえば
解決不可能なことだって出てくるだろう
もう逃げ場だってないだろうし
土曜日に焼いて売れ残っていた
ライ麦15%のパンと小麦のパンを
焼いて食べてみたら
うれしくなっちゃうくらい美味しかった
もったいないので
買いに来てくれた人たちの袋に
おまけで入れておいた
気温が下がってきて
ライ麦比率の低いパンが美味しさを増してきた
ここ最近ライ麦30%の丸パンがとても美味しく感じて
よく食べている
昔は焼かないほうが美味しいかなあと思っていたのだが
焼いて食べても美味しいことがわかった
ゴルゴンゾーラをはさむだけでも極上の食べ物に大変身
今年はとにかく疲れた
定休日以外の毎日パンを焼くようになったことで
睡眠時間が減たのと
軟らかすぎて体に合わない敷布団を使っていたため
朝起きても疲れが取れない日が続き
毎日フラフラ
パンを作るだけで
いっぱいいっぱいのところに
閉店後にパンをビニールに入れる作業
昼間の無人販売の準備
合わない敷布団を止めたので
体の疲れ具合は
だいぶ違ってきたのだけれど
今年は天候の悪い日が多かったりで
出かけることがほとんどできなく
新しい空気を取り込むことができずに
こころの方の疲れがどんどん蓄積されていって
体を動かすことが億くうになってきて
休みの日は横になってばかり
これは良くないなあと思っていたところに
好きな絵師の展覧会があったので
思いきって
エイ、ヤァーと跳んだ
そこから萎んでいたこころに
栄養が流れ始め
三週連続で美術館
力が湧いてきた
生き返った~
もう一度
愛知県美術館「曽我蕭白展」へ
古い時代の日本の絵画が好きなのだが
そのなかでも曽我蕭白は
いちばん好きな絵師
もう見納めになる可能性もあるので
後悔しないように行ってきた
前回は冷房が効きすぎた館内
寒さで集中力を欠いたので
今回はしっかりと着込んで臨んだ
入り口を通るといちばん最初に目に
飛び込んでくるのは
いきなりの「群仙図屏風」
この絵を一番目に持ってくるなんて
うれしくなってしまう
曾我蕭白《群仙図屏風》狂気なる自我 「狩野博幸」 - アート ...
この絵が蕭白のいちばんの代表作といっても
いいのではないだろうか
どうしよもなくらいに
どぎつい絵なのだが誰もが見入っていた
そこからも次々すごい絵が並ぶ
広い美術館なので大きな襖絵や屏風がいくらでも
収まってしまう
今回は一通り絵をじっくり観てから
好きな絵をさらにじっくりと眺めた
この美術館は下から照明を当ててくれているので
絵の美しさが映える
曾我蕭白「富士三保松原図屏風」 | 青い日記帳
三重県立美術館 曾我蕭白 《竹林七賢図》 1764年頃 解説
林和靖図屏風 - SOGA Shohaku — Google Arts & Culture
夕方になると観覧者がグンと減って
少し離れたところからでも
人に邪魔されることなく絵を眺めることができる
とにかくでかい絵ばかりなので
距離をとらないと全体が目に入らない
夕方5時を過ぎると一つの展示室に
ほぼ自分と監視員の二人だけ
このときを待っていました
いちばん好きな林和靖図屏風と一時間
一対一で向かい合った
屏風絵や襖絵の不思議さは
リアルな風景ではないのに
ずっと眺めていると
その絵の中に入っていけることだ
今回は
「ああ、もっとあそこをよく観ておくんだった」という思いが
残らないくらいに曽我蕭白の世界に浸りこめたと思う
やはり行ってよかった
きのうは持って行ったチーズとパンそれから
錦市場商店街で買った白子や鱧と
うなぎの肝くらいしか食べずに
雨の中
一日中
京都を歩き回り
きょうはヨーグルトとバナナ1本で
8時間
美術館で絵と向きあった
美術館を出ると足はフラフラ
お腹はペコペコ
電車の乗り換え時に東京駅近くの
インド料理屋に駆け込んで温かい料理を
腹に収め
今回の旅は終了
泊まり旅行は3年ぶりくらいだったろうか
開放感が違うね
今週も美術館を回る
トーハクの総合文化展に向かうはずだったのだが
ゴッホ展の当日券が出ていたので
変更
期待していた以上に楽しめた
トーハクはいくら時間があっても足りない
唐津の大鉢が良かった
ステーションギャラリーで「小早川秋聲展」
あまり期待していなかったのだが
こっちもなかなか楽しめた
龍子記念館は好きでよく行く場所
いつもお客さんは一人か二人しかいないのだが
きょうは賑わっていた
いちばん好きな作品
「爆弾散花」が出ていた
【ズバリ解説】川端龍子《爆弾散華》1945年制作【大田区立 ...
疲れが出てきた
先週は大子町まで自転車で行き
山を歩いてきたのだが
終始
体のだるさが取れず
次の日もだるさは抜けず寝て過ごした
今年は仕事をしすぎた
魚を食べたくなってきたので
朝早くからエイヤアと布団を飛び出し駅へと向かう
半年近く離れていると
電車での長旅や人込みが億劫になってくる
家にいれば心地はいいけれど
この町に閉じこもっていれば
魂が腐っていく
昼飯は真鶴駅前の二藤商店で
鯛の塩焼きとアジの押し寿司を購入
熱海の高台にある梅園で食べる
MOA美術館で琳派展をやっていたので
行ってみる
俵屋宗達の犬を見て泣きそうになる
「この犬は俺だ」
がんばれよ!楽しく生きろよ!と声をかけて
美術館を出る
夕飯は村越魚店で
カマス、イナダ、カンパチの刺身を購入
ここから名古屋方面に向かうつもりだったのだが
無人販売にしてきた大量のパンを
そのままにしておく訳にはいかないので
いったん家に戻る
休日二日目
名古屋に向かう
愛知県美術館で
「曽我蕭白展」
午前10時に入って午後4時20分まで
大好きな蕭白の絵を堪能した
学校に行くと
排除されないようにと
いじめにあわないようにと
自分を装ったり ひとに合わせたり
ひとと同じように振舞いながら
大人に言われたとおりに ただ勉強や生活をこなす毎日
一つだけしかない正解を求めながら 敷かれている線路の上を
訳もわからず
みんなが歩いているからと いっしょになって歩いていく
そこには自分というものがまったくない
でもなんだか安心だ
楽しくはないけれど
そんな中で生きているから
いつのまにか自分というものが無くなっていき
自分が何をしたいのか どうしたいのか
こころに浮かばなくなっていく
たとえ やりたいことがあったとしても
それをやってもいいことだとは思うことができない
線路の上にあるものではないからね
会社に入ると
悪く言われたり
仲間外れにされないようにと
怒られたり
間違えを起こさないようにと
自分を抑えたり
自分を装ったり
人に合わせたり
人と同じように振舞いながら
無難に仕事をこなしていく毎日
輝きを失った私は
小中学校で訓練したように
みんなに合わせて 左 右 左
良い子ちゃんがいくよ
一つの閉じられた空間で
誰もが
排除されないように
いじめられないように
悪く言われないようにと
自分を抑えたり
自分を装ったり
人に合わせたり
人と同じように振舞いながら
毎日
楽しくもなく
びくびくと我慢とストレスのなか生きている
でもどんなにみんなが自分を抑えて
人と同じように振舞っていても
悪く言われるひとは出てくるし
排除される人は出てくるし
いじめられる人も出てくるのだ
びくびくと我慢とストレスが引き起こす悪循環
もしかしたら
みんなが人の目なんて気にすることをやめて
自分を装うことなく
ひとりひとりが自分のままを生き出したら
誰もがひとりひとりの違いを認め合って生きられるようになり
排除もいじめも少なくなっていき生きていて楽しい社会に
少しずつなっていきやしないか
人と同じようでないとダメだと思っているから
違いをなかなか認められない
どんなに同じように振舞おうとしても
違いは必ず出てくる
みんなひとりひとりが違うものなのに
どうやったって合わせることができないものなのに
それでも無理やり合わせようとするから
息苦しく陰湿な世界になっていくんだ
敷かれたレールの外に飛び出せば
見回す限り何もない世界が広がっていて
道なんてどこにもないけれど
自分が歩けば道ができる
どこにだって道ができる
朝起きて朝飯を食うまでは
美術館に行くつもりだったのだが
人込みがわずらわしく感じてきて
方向転換
自転車にのってブラブラと北の方へ
惹かれる道があれば
入っていって
城跡や巨木を見つければ自転車を降りて
見に行ったり
目的もないし
効率的でもないし
生産性もないのだけれど
自然の流れや
生き物たちのエネルギーを感じているうちに
幸福感に包まれてきた
地球との一体感なのだろうか
とても心地がいい
家に戻って一休みしてから
ランニング
蕎麦の花があまりにも美しいから
なにもかもが頭の中から吹き飛んだ
犬の臭いかぎの様に
蕎麦畑の周りを
いつまでもぐるぐる走り回った
家に戻る段には力がほとんど残っていなかった
それなのに家にたどり着いて
少し休んだらサンドバックを叩いていた
力を絞りきったら
からだの錆だけではなく
こころの錆も
いっしょに落ちていってくれたよう
次の日に起きると
からだもこころも軽くなっていて
気分もすっきり
いま それをやれているということ
それはとてもすごいことであって
すごい頑張り
もうそれが全てじゃないか
もっとできるだろう
それが出来たなら
次はこれを頑張れ
もう
いっぱいいっぱいに頑張っている
満足もしている
なぜ ひとはひとに対して
それ以上のことを求めるのか?
ひとはひとりでは生きていくことはできない
だから
自立して生きるということは
幾多の人たちに
支えられながら歩いていくということであって
けして
自分ひとりの足だけで
立ち
やっていくということではないのだ
大人だからやって当たり前
母親だから出来て当たり前
みんながんばってやっているのだから
あなたにだって出来ないはずはないじゃないの
やらないのは怠けているだけだ
出来ないのは努力が足りないからだ
やれないのは意志が弱いからだ
自分が出来るからといって
誰もが同じように物事がこなせるものだという考えは
人を苦しめる
行かないのではなくて
行けないんだ
やらないのではなくて
やれないんだ
自分はこの世界にただ立っているというだけでも
足がすくんでしまうような人間だ
ひとともうまくやっていけないことが多い
そんな自分がパン屋をやっている
他のことは何もできなくても
自分としては
それだけでよしだ
よくやっていると思う
誰が何を言おうと
そう思う
生きていればいろいろな厄介ごとが
起こってくるが
そんな中で
長く生き延びることができるのは
逃げることができる人なのではないだろうか
思えば自分も多くのことから逃げてきた
逃げることができたから
いまこうして生きていられるし
こころも
まあ何とかなっている
逃げることができたから
楽しい生き方を見つけることができた
ものごとには
立ち向かっていった方が良いときもあるけれど
逃げた方が良いときだってあるのだから
そういう選択を認める社会だったらいいのに
逃げずに歯を食いしばって我慢することが
美徳とされてきた社会では
逃げれば軽視される
ダメな人間とされてしまう
そんな空気があるので
逃げたくても逃げられないというひとは
いっぱいいる
閉じられた世界の中で窮屈な思い
我慢して生きていれば
いつかこころはズタズタになってしまうだろう
学校や会社のなかで
なんでもないように生活している人たちの中にも
こころを病んで苦しみで潰れかけている人もいるはずだ
幸せそうに見えても本当に幸せを感じているのかはわからない
大丈夫と言っていても本当に大丈夫なのかはわからない
そういう人たちを頑張って行ってこいと追い立てて
行ってくれたら
行ってくれたとホッとする
ちょい ちょい待てよ!
危険だぞ!
閉じられた世界の外には
広い広い世界がある
どんな生き方だってできるし
やってもいいんだ
嫌なことを我慢してこころがズタズタに
引き裂かれ潰れてしまうくらいなら
学校なんて行かなくてもいいんだ
そこまでして学校に行ったとしても
おそらく明るい未来なんて待っていない
道はひとつだけではないのだから
いろんな道を歩いてみればいいのではないだろうか
そこに喜びがあるなら
学校にこだわる必要なんてないだろう
そこが居場所
生きていく場所
いろんな生き方があっていい
こっちが良いひとはこっちをやればいい
あっちが良いひとはあっちをやればいい
いろいろな選択ができる社会
いまでもそうなのか
学校ではみんなが同じようにすることを
強要される
生徒の意思なんて入れられる余地がない
そんなんだから
子供達は自分がどうしたいのか
もうわからない
自分で考え判断し動くということができなくなっていき
卒業する頃にはロボット一丁上がり!だ
多様性多様性と叫ばれているけれど
どうやって
ここから多様性の社会へと持って行くのだろう
高校へ行って
大学へ行って
どこかの会社に入って
それだけが道ではない
もっともっと多くの道が
この世界にはあって
どの道を行こうと自由なんだ
高校に行きたいひとは行けばいいし
そうしたくない人は別の選択をすればいいのだけれども
別の道があることを知っている子が
いまはほとんどいないのではないだろうか
いろんな道が見えるようになればいいのに
そういう機会を作るのが大人の仕事なのかなあ
価値感を押し付けることが
大人の仕事ではないのだ
人が社会にあわせなければならないのではなくて
社会がひとにあわせなければならないんだ
昔から変わらない制度
昔から変わらない仕組み
昔から変わらない価値感
昔から変わらない風習
学校も会社も役所も政府も
人にあわせて変わっていかなければならないんだ
いま
みんなが疲れているように感じる
きゅうくつ過ぎるこの国の社会生活
ちょっと変だちょっと変だと思いながらも
社会に合わせなくてはと
ほとんどの人たちが
自分のこころを
誤魔化したり
無視したりして生きている
あるいは
そういうものなのだろう
そういうものなんだという思い込みに支配されて
この社会を生きているうちに
こころがボロボロになってしまった人たち
学校や会社、社会の制度、その他もろもろに
疲れはてた方は是非
「もうひとつの美術館」に行ってみてください
社会に合わせなければという考えや
既成概念を吹っ飛ばしてもらえます
近くに住んでいるのに行ったことがないなんて
もったいない
これだけ面白い場所はそうないと思うのだけどなあ
自分自身をなかなか生きることが出来ない、この社会で
あなたはあなたのままでいいんだよということを
教えてくれる貴重な場所
いまの日本社会に
いちばん必要な場所ではないだろうか
特に今回の企画展「ありのままがあるところ」は
ものすごいエネルギー
いろんなことを突きつけてきます
本日の映像は
世界が注目するアート集団
知的障害者支援施設
『しょうぶ学園』を紹介する番組です
一滴の向こう側『しょうぶ学園』 - YouTube
きょうはからだが軽いのでダッシュを繰り返した
もうダメだ
これ以上続けると
体がバラバラになってしまうんじゃないか
そんな思いを押し殺して
へロヘロになっても
走り続けてみた
終わってみれば
ピンピンした体と充実感
人間はなまじ思考なんてものがあるから
命を喜ばせ輝かせて生きることが
出来ないのではないだろうか
無駄か無駄じゃないかだとか
得か得じゃないかだとか
無理か無理じゃないかだとか
うまいからだとか下手だからだとか
そんなものなどを超えたところで
生きてみれば生命力はどんどん
増していくのではないだろうか
きょうは午前中から
ランニング
金木犀の香りにエネルギーをもらい
木陰の涼しさにホッとして
太陽の熱に負けるもんか~とダッシュして
自然は絶対に不自然には動かない
だから自然と対峙したときに
自然に逆らって動けば
必ず跳ね返させられる
これだけ不自然に生きていれば
これからも様々なウイルスが次々と近寄ってくるだろう
しかし
それに対抗できる免疫力は
やはり不自然な生き方によって
落ちている
自然からあまりにも遠のいてしまった人間
でも人間そのものは
いまでも自然そのものであって
人間の思考が
人間に不自然な行動を取らせているだけなのだ
だから
人間は不自然な生き方に耐えられない
からだもこころも衰弱していく
もっともっとの生き物である人間は
いつかは滅びることになるのだろうが
少しでも滅びるのを遅らせようとするならば
不自然な生き方を
自然な生き方に戻していくことしか
ないのだろう
表面だけきれいに整えられたもの
そういもので いまの世の中はいっぱいだ
そういうものって何の力も持っていない
だから
それを受け取る人に
受け取る力がなくても
受け取ることが出来る
多くの人がそういうものに
集まるというのは
そんな理由があるからなのではないだろうか
美しいさというものは
内側から湧いてきているもの
それなので
美しいものは
ものすごく大きなエネルギーを持っている
だから
それを受け止めるには
それなりのエネルギーが必要になってくる
しかし
いま現在そういう力を持ったひとが
育つ環境はほとんど失われている
自分が生まれ育った町もやはり
そんな状態だ
ひとが育つ土壌がない
絶望的な状態といってもいいと思う
でも 少数だが
土壌を作って 種を蒔いている人たちはいる
その種がわずかでも
その種を拾った人の中で芽生えたなら
その人がいつか花を咲かせて
種を蒔いてくれるだろう
200年後300年後
いや500年後1000年後には
もしかしたら
この町にも美しいものがあふれているなんてことが
あるかもしれないね
美しい山が削られ
ゴルフ場やリゾートホテルなどが建てられたりという現象も
町がチェーン店ばかりになってしまうという現象も
美しいものを受け止める力を
持った人がいなくなってしまったということの
現われなのではないだろうか
死ぬまで生きたというだけで
人生は成功なのではないだろうか
いや この世に生を受けた時点で
すでに人生は成功なんだ
そういうものだという思い込み
そういうものでひとは
がんじがらめ
そうしなければならない
そんなものなんて
そんなにあるものではないのに
勝手にそう思い込んで自由を失って
苦しんでいる
店に入って
店の人が挨拶しないといって
店の人に食いかかっていくのは筋違い
店の人は挨拶するものだと
勝手に思い込んでいるだけなのだ
思い込みというものは
使い方によって
良く働くときもあるし
悪く働くこともある
でも
もしかしたら
思い込みなんてものをなくしてしまった方が
生命を輝かせて
生きることが出来るのかもしれない
安心安全だという思い込んでしまうほど
危険なことはないのではないのだろうか
保険に入ったから安全安心だ
大きな堤防が出来たから安心安全だ
国が安心安全だといっているから安心安全だ
有機栽培と表示されているから安心安全だ
ようやくの秋晴れ
久しぶりに自転車を引っ張り出して
僕はプカプカと空を見上げながら
稲穂の海の上をただ漂う
もう間もなくで潮が引く
そうすれば
ここは
あっという間に冬枯れの風景
かすかに残る潮の香りが
こころに沁みて
泣きたくなるのだ
小学校の夏休み前日に配られた
夏休みの心得というプリント
そこには毎年
悪い友達とは遊ばないようにしましょうと書いてあった
プリントに書かれていることは
誰か生徒が読み上げさせられるのだが
その文を目にする度に
何だか違和感
モヤモヤするものがあった
いまになって気づいた
そうか
これって
いじめじゃん!
知らず知らずのうちに
自分たちはひとを排除するということを
うえつけられていたのかな
従順じゃない人間しか
やっていけないのが
学校という世界なのかもしれない
いつだって人生はここからだ
歳をとっていようがいなかろうが
男だろうが女だろうが
うまかろうがそうでなかろうが
金があろうがなかろうが
誰だってぶつかっていけばいいんだ
一歩足を踏み出して
飛び込んだとき
エネルギーは湧き上がってくる
小学校の夏休み前日に
夏休みの心得なるプリントが配られた
そこには毎年必ず
「悪い友達とは遊ばないようにしましょう」と書かれてあった
その文に出会うたびに
ここに書かれている悪い友達ってどんな人だろう?
そんな排除しちゃっていいの?
排除された人はさびしいじゃん
学校ってそんなところなんだ
ということが
頭の中をくるくるくるくる
いまでは関係者以外立ち入り禁止の看板
受け入れてもらえずに孤立した人のこころは・・・・
排除された人はどこに行けばいいの・・・・・
寄り添ってくれる人がいたら防げた犯罪や自殺は
少なくないはず
地域おこしだ!となると
人を呼び込め~みたいなことになっちゃうけれど
それよりも
そこに暮らす人たちが
素敵な所だと思えるような町にすることが
本当の地域おこしなのではと
自分は
思っちゃうんだなあ
そのひとがそのひとのまま
そのひととして生きられる町
そんなふうに生きられるチャンスがあって
チャレンジできる町
どんなひとでも排除されることなく
寄り添ってもらえる町
人が育つ土壌がある町
美しいものが残る町
そんな町にすることは難しいかもしれないが
そんな店になら出来るかな
個人を守るために作った組織も
いつか組織を維持するために
個人を切り捨てるようになる
人の幸福よりも
生産性を上げることを優先させる
じゃあ生産性を上げたその先に
何があるというのだろう
生産性を上げることは
目的ではなく
人を幸福にさせるための手段であったはず
でも
そもそも生産性を上げることで
人が幸福になれるという考えが
間違っていたのかもしれない
結果は自分にとって
それ程重要なことではなく
いまそれを
やれているということが全て
よく成功の~
成功者の~とかいう本が
出ているけれども
成功って何だろう
何をもって成功というのだろう
自分にとって
店にお客さんがいっぱい来てくれるようになっただとか
お金がいっぱい入ってきただとかは
成功とは違うんだよな~
自分にとって成功だったといえるときがあるとすれば
死ぬまで自分を誤魔化すことなく
通すことが出来たときかな
でも死ぬまで生きていたというだけでも成功なのかな
自分はこれからも
不完全で未完成のまま
悩み苦しみ
もがいて
落ち込んで
やるぞ~となったり
なまけもののまま
下手糞のまま
弱いまま
不器用に
非効率に
~のためにじゃなくて
そのときそのときの思いつきで
やりたいからやるだ
目的的には生きない
芯だけは決して曲げない
そうやって歩いていくのだろう
そっちの方がいい
まあ他の生き方は出来ないか
それなら
胸を張って生きてやろう
涼しくなってきて
パンの調子も上がってきた
捏ねていても
粉の粘り具合が違う
やはり夏はそれなりに粉の劣化は起こっているのだ
小麦のパン、ライ麦15%ライ麦量少な目がかなり美味い
ライ麦量多いパンは2月3月頃の作り方に戻してみた
えもいえぬ美味さ
自分で言う
やはりこのパン屋は
面白い
梅雨が明ければ
猛烈な暑さ
モワモワの空気の中
エイ、ヤーッと自転車をこぎ出す
18Kmの距離がきつい
那珂川町にあるもうひとつの美術館
先週から始まった企画展
「ありのままがあるところ しょうぶ学園」
今回のもうひとつの美術館は
自由があふれていた
刺繍を眺めると
針があっちにつき抜け
こっちにつき抜け
糸が何十にも重なり合って
ぐちゃぐちゃしているのだけれど
美しいんだよね
本当に自由なこころで作られたモノ
自由なこころって
簡単そうだけれど
そうなれるものではない
何もないところから作り出すことの難しさ
制約があった方が楽なのだ
自由なこころでやってみようと思っても
既成概念にとらわれたり
評価されるものをと思ってしまったり
枠の中に収めきらなければと考えてしまったり
誤魔化してしまったり
大人ぶってしまったり
表面だけきれいに整えただけのものって
何の力も持っていないし
すぐに飽きてしまう
でもそういうものに
ひとは集まる
今回の作品たちは
グングンとせまって来て
僕のこころをかき回し
自分の思い込みを撃ち砕いてくれた
そして自由というものの持つ力がどんなものか教えてくれた
自分もこの作品たちを超えるような力のあるパンをつくってやろう!
そうしたら、よけい食べてもらえなくなっちゃうかな?
そんなことはない
感じ取ってくれるひとは
必ず
いるはず
夏のパン作り
はじめて酵母の調子をおかしくすることもなく
粉をそれ程劣化させることもなく
ひと夏を通して
パンらしいパンを焼くことが出来た
試したいことが出てきた
それをすることによって
味に違いが出てくるのか?
酵母はどこまで耐えられるだろうか?
苦しいという心の叫びを
誤魔化したり
我慢したりしていれば
いつか必ずパンクしてしまう
会社に行くのが
苦しくて苦しくてしかたがない
学校に行くのが
苦しくて苦しくてしかたがない
そんなときは
休んでしまった方がいいときがあると思う
疲れたときや苦しいときには平気で休める社会
コロナ禍を機にそんなふうになっていけばいいね
生産性、生産性
なんでもかんでも
あそこでもここでも
生産性
学校も
生産性を上げられる(ロボットみたいな)人を
作るための場所でしかなくなってきているし
そんなところでまじめにやっていたら
そりゃあ子供達も疲弊するよ
耐え忍ぶことが美徳なんてされているけれど
こんなギスギスした社会で
ずっと耐え忍んでいたら
こころが潰れてしまわない方がおかしい
苦しいときは
まずその苦しみを
どうすれば取れるのかを考えてやることだろう
逃げるという方法ももちろんありだ
別の生きかたを見つければいい
時には人の助けも必要だ
必ずどこかに
助けてくれる場所
助けてくれる人はいる
これまで自分もどれだけ
人に助けられただろう
でも助けを求めなければ
助けを必要としていることは
なかなか見つけてはもらえないこともある
助けを求めることは
勇気がいるけれども
そこからしか始まれないこともある
もちろん苦しみに
浸り込んで
そこから何かを発見し
生命を輝かす
そういう生き方もある
火災や津波が起こったとき
多くの人が避難している方に
同じように避難すれば
安心だし安全だろうと
走りに走るひと
または誰も避難してないから
大丈夫なんだろうと
同じようにその場で過ごしているひと
そして自分の勘や感覚にしたがって
避難したひと
大多数の人たちに着いていくひとたちと
そうではないひとたち
これまでの人類の歴史の中で
生き残ってきたのは
どっちの方なのだろう
さびしさは
ぬくもりでしか
溶かされていかない
悲しみは
時間が流れなければ
薄れていかない
人によって痛められたこころは
人によってしか癒すことは出来ない
店をやっていなかったら
自分はどんなことになっていただろう
支えてくれた人たちが
素敵な人生を送れますようにと
毎朝
手を合わせている
ワクチンを打ったことによって
死んでしまったら
バカらしいよなあ
コロナに感染しても死なない自信はあるが
ワクチンを打って死なない自信はない
ある程度の犠牲者が出ても
ワクチンを大勢の人たちに打ってもらうという
国の考えも見えるだけに怖い
「大勢の命を救うために君、命を投げ出してくれ!」
何ヶ月か後には
ワクチンを打っても
あんまり効果ないよとなっている可能性もあるだけに
もう少し様子を見たい
ワクチンを打ったから安心安全だ!というのが
いちばん良くない気もする
本当にコロナウイルスが怖いなら
ワクチンを打ていようが
いなかろうが
免疫力を高める努力をしておくことを
わすれてはいけないのではないだろうか
自分は誰が作ったのだかわからないワクチンなんかよりも
自分のパンの方が信じられるんだけどなあ
もしコロナウイルスに感染して
死んでしまうようなことがあったとしても
いまの生活
(発酵食品や野菜をたくさん食べて
運動もしてなまけもして
ストレスもそれ程たまらないような)で
そうなったのなら
しゃあんめと納得できる
今夜2曲目は
教訓Ⅰ-浜田真理子 - YouTube
コロナウイルスよりも
日本という国の
いまの状況の方が
自分には恐ろしい
成果、成果、成果
生産性 生産性 生産性
合理化 合理化 合理化
絶対疲れるよね
俺たちは人間よ!
何もかも完璧にこなせる人なんていないし
そんな組織もないだろう
それぞれ
得意なこともあるし
不得意なこともある
出来ることもあるし
出来ないこともある
好きなこともあるし
嫌いなこともある
そもそも完璧って何だろう
ひとりひとり
考えも違うし
思いも違う
何が正しく
なにがダメなのか
何かあると
おまえ関係ねえだろというヤツまで
ああだこうだと言ってくる
そのひとはそのひとを生きているのだし
ほっとけと思う
嫌な風潮だ
誰も彼もが縮こまってしまって
思い切りジャンプ出来なくなっている
無難なところで誤魔化して背中を丸めて歩いている
多くのひとが
自分自身を生きられていないなんて
不幸な世界だ
この先
面白くもなんともない世界が待っていると思うと暗い
失敗しようが迷惑をかけようが
許される世界
完璧じゃない人たちが
そのままで生きられる世界
ダメだダメだダメだばかりの世界じゃなくて
それでいいんだよ
変わらないでいいんだよ
よくやっているねと見守ってもらえる世界
そっちの方が絶対に面白い世界が出来上がっていくと思う
いまの日本の異常さは
このところの異常気象以上に
危険な気がする
この窮屈な社会
子供だって
背を伸ばしていけないよ
大人なんだから
こうあらねばならない
親なんだから
こうあらねばならない
そんな固定概念から
完璧な大人や親になろうなんて考えたら
おそらく
こころがパンクしてしまう
誰も完璧な人間になんて
なれやしないのだから
仕事をしているのに
毎日毎日か家族の御飯なんて
作れないよ
人それぞれ
出来ること出来ないことはあるし
変われること変えられないこともある
出来ないからといって
後ろめたい気持ちになる必要はないし
完璧でなければという重圧で
こころが押しつぶされるくらいなら
変わる必要なんてないだと思う
パン作りがわかっていくこと
イコール
思い込みを壊していくことといっていいと思う
その思い込みにひびを入れてくれるのは
あれ、何でこうなっちゃうの?というような
うまくいかない出来事だ
どんなことでも
起こりうる
「まさか」なんて言葉は
いらないのかもしれない
人間誰の中にも
強さもあれば
弱さもあって
優しさもあれば
残酷さもあって
さまざまな
相反するものが
静まったり
騒ぎ出したり
だから人間は
矛盾だらけ
でも
しかし
人間の面白さは
そこのところにあるのだと思う
専門家は長く続けてる程
頭がガチガチになってくる
パン作りもこういうもんだという思い込みを
打ち壊すのは簡単なことではない
立ち位置を変えなければ見えてこないものがある
この芯のない風潮はなんだろう
何か言われれば
すぐに
ころころ
ころころと
変えていく
芯のないものには
何の力もないし
面白さもない
多くの人が
人の評価に臆病になっている
そんな社会が
面白くなっていくはずがない
ワクワクすること
世間の空気に合わせて
抑え込んでいきていれば
こころは干からびていって
生きようという力も失われていく
いまは多くの人が
誰かの評価で動いている
損するのが嫌だからやらない
損したくないから他人の評価が高いところを選ぶ
それが人生においてのいちばんの損だったりして
損することも覚悟の上で
行動しなければ
世界は広がらず
面白いことには出会えない
他人の評価は他人の評価だ
自分がどう感じるか
自分の感じ方は
他人の感じ方とは違うもの
危険なことを完全に取り除いた中で生きていたり
失敗することを恐れて行動しなかったり
そこには退屈な時間があるだけだ
人間はめんどくさい生き物なのだ
小麦のパンに青かびのチーズをのせて
パクリ
夏なのに
こんなにうまいパンが焼けて
よいのだろうか
このところ小麦のパンがいい感じに焼けているのだけれど
ライ麦パンの美味しさに目覚めたのか
最近皆さんライ麦のパンばかり買っていく
夏のパン作りは
気をつけないといけないことが
いろいろと出てくる
うまくいかないことも多くあるので
パン作りの力をつけるのには
よい時期だ
先週今週と
何でこんな味が出てきてしまうんだろうというようなパンが
出来てしまったことがあった
一瞬ガクッと来るのだけれど
次の日には
どうやって改善してやろうかと
ワクワクしてくる
よーしやってやるぞと燃えてくる
からだとこころが喜んでいる
素晴らしい世界というのは
喜びも
悲しみも
痛みも
苦しみも
全てがある世界だと思う
悲しみも痛みも苦しみもなくて
喜びだけの世界なんて
恐らく退屈なだけだろう
その前に
悲しみ、痛み、苦しみというものがなければ
そこには喜びというものもないのかもしれない
悲しみを知っているから
痛みを知っているから
苦しみを知っているから
喜びというものも知ることが出来るのだし
その逆も
それに
人間がいちばん輝いているときというのは
悲しみや痛みや苦しみを乗り越えようと
踏み出した瞬間なんじゃないだろうか
本当にやりたいことがあっても
将来、素敵な人生を送るためにと
いまという時を犠牲にして
受験勉強
でもね、いまを犠牲にしてしまうような人のところには
いつまで経っても
素敵な人生なんてやってこないと思う
高校や大学に行ったからといって
楽しいことがあるとは限らないし
その後
素敵な人生を送れるとは限らない
道はいくらでもあって
どの道を選ぼうが
楽しもうと決意さえすれば楽しめるし
決意しなければ楽しめない
素敵な人生を送ろうと決意して行動しさえすれば
素敵な人生になるし
決意して行動することなしには
素敵な人生なんてありえない
高校や大学に行っただけで
素敵な人生が待っているなんてことはないんだ
最近の国の打ち出す政策を見ていると
大学を出たかどうかや
どこの大学を出たのかなんてことを
いまだに企業が採用決定の判断材料にしているのが
おかしく思えてくるし
そんなことで踊らされている子供達が不憫だ
いま本当に自分がやりたいことを犠牲にしてまで
受験のためだけの勉強をする価値があるとは思えないんだよなあ
高校、大学と経験してきた大人たちは
そう思っていないのだろうか
なぜ変わらないのだろう
3ヵ月後に地球が滅びてしまうということになったとしても
自分の生き方は変わらない
そういう生き方をしている
三ヵ月後に地球が滅びてしまうことになっても
学生達は塾に行って勉強をするのだろうか
俺は明日パンを買ってくれる人がいなくても
パンを作っている
本日の昼飯は
美味しい茄子が手に入ったので
オリーブオイルでニンニク、鷹の爪、玉ねぎ
茄子、舞茸、しし唐、生姜、ライ麦95%のパン、いわしの水煮を
炒めたもの
(味付け 酢、塩、日本酒)
うまい、いくらでも腹に入る
変えてはいけないものがある
店があるのは
ライ麦パンを食べるひとが日本一といっていいくらい
いない市なのだが
それでも
自分はこの場所で
ガチガチのライ麦パンを作る
売れないからといって
ライ麦パンをやめて
軟らかいパンを作ったり、甘いパンを作ったり
そんなことは自分には出来ない
自分の思いを誤魔化しては生きられない
とてつもなく美味いライ麦パンがあれば
食べた人の物ごとを見る目、感覚を変えられる
そのくらいの力をライ麦パンは持っている
人が変われば町も変わる
町を魅力あるものに変えていくことが出来るとすれば
それが出来るのは政治家でも役所の人たちでもない
そこに暮らす人たちの思いと妥協のない行動だ
とてつもなく美味いライ麦パン
もう少し長生きできるなら
作れると思う
作ってやる
いまがどんな状況におかれていようとも
やることは一つ
自分をおもいきり生きること
それなら自分にもできるし
そして
それしか自分には出来ない
コロナ渦だろうが
明日地球が滅びようが
パンが売れようが売れなかろうが
きょうもサンドバックを叩き
夜の町を走り
本を読んで
パンを焼く
うまくことが運ばないことを嘆いていても
何がどうなるものでもない
夏になっても
いまのところ酵母は絶好調
これまで夏は全然良いパンが作れなかった
2年前に夏の酵母の扱い方に気がつき
昨年は夏の小麦粉の劣化具合に気がつき
苦節20年
ここに来て
一気にステップアップ
そうはいっても
夏はちょっとでも気を抜くと
酵母の調子を狂わせてしまうので
いつまでこの良い状態を
続けることが出来ることか
休みの日に長い時間布団に入っていると
なんだか体が痛い(主に腰)という日が続いたので
軟らかい敷布団をやめて
ござを敷いて寝てみたら
起きたときの体の調子が全然違った
体のだるさがないし
疲れも取れている
美しさは内側から
湧き出てくるもの
どんなに表面だけをきれいに
飾り立てたって
誤魔化せはしない
いやいや
誤魔化せるのか
この世の中
そういうものに誤魔化されてしまう人たちで
いっぱいだ
この時期に
自分が作るようなライ麦パンを
からだが求めてくるということは
からだがしっかり機能している証
普段からしっかりとした食事を摂っていて
からだを動かし汗を流しているひとは
夏も強い
危険なものを排除したり
禁止するよりも
危険なことが起こったときに
どうするかを学ばせることの大切さ
海に巨大な堤防を作ったところで
自然の力には敵わない
そんなもので安心感を与えてしまうことの
危険
大きな地震があったときに
どうするか
川で流されたときにはどうするかを
子供のときから教え込んでいくこと
考えさせておくことの方が
命を守るのには良い方法だと思う
危険は常に近くにあるということを
ひとりひとりの頭の中に持たせておくこと
きょうも無人販売にして
美術館めぐり
といっても
きょうは美術館にどうしても行きたくて
行った訳ではなく
自転車で春を感じたかった
午前5時30分出発
まずは、茨城近代美術館で
志村ふくみ展
午前9時20分着
偕楽園に隣接する千波公園内にある美術館
この公園も素晴らしいし
この公園の中に美術館があるのも素晴らしい
水戸にはこの美術館の他に県立歴史館、水戸芸術館、
植物園、市立博物館などもあるし
茨城全体で見れば
文化施設はかなりの数がある
茨城県素晴らしい
展示されている着物は結構な数だが
前期と後期で総入れ替えしたそうだから
すごい
素敵な着物がいっぱいあった
こういうのなら
自分も着てみたいな
笠間市に移動して
日動美術館で
シンクロシニシティ展
笠間稲荷神社があったので
先にそちらの方に行ってみた
境内に入ると立派な藤棚
藤の花が香ることをはじめて知った
日動美術館の企画展はパッとしなかったが
常設の展示は楽しめた
高橋由一の鮭があったり
藤田嗣治やピカソの作品もいくつかあった
創設者と親交があった画家たちから
プレゼントされたという
パレットコレクションはすごかった
帰りは茂木を通り抜け烏山の島崎酒造で
東力士を買い込み293を北上し帰館午後6時10分
いまの時期の茂木は美しい
田んぼばっかり
田んぼしかない
そこが
清々しい
この時期に自転車に乗るなら最高だ
この時期に限れば
茂木は栃木でいちばん美しい場所かもしれない
ライ麦95%のパン
味噌にオリーブオイル、酢、七味唐辛子、新玉ねぎ、セロリを
混ぜ合わせ
パンに塗りこみ
オーブンで焼いて食べてみた
うまい
夏にはナスをのせてもうまいかもしれない
ゴールデンウィーク最終日は
無人販売にさせてもらって美術館めぐり
まずは国立博物館
「美を紡ぐ展」
狩野永徳の檜図屏風
本などではよく見ていたが
まったく惹かれることがなかった
だから、この絵に対しては
ほとんど期待していなかったのだが
実物と対面してみると
その場から動けなくなった
今回は常設展の方も充実していて
なかなか博物館から出られなかった
六本木に移動して国立新美術館で
ウィーンモダン展
国立新美術館はじめて行ったが
ここはとにかくでかい
ウィーンモダンの他に
トルコの至宝展もやっているし国展もやっている
ウィーンモダンはまったく予備知識なく行った
画家の名前も知っているのはクリムトひとり
クリムトだって
つい最近知ったくらいだ
素晴らしかった
かなり楽しんだ
作品数も充分過ぎる程あるし
作品内容もよかった
クリムトの作品もいっぱいあった
東京都美術館のクリムト展よりも
こっちのクリムト作品の方が
好きなものが多かった
オスカー・ココシュカの「眠る羊飼いと家畜たち」も好き
3時前に入って
終了時間の午後6時までいたが
出来ることなら
まだ浸っていたかった
図録を買って帰りの電車の中で
眺めながら来たが
図録では良さが伝わって来ない
やはり絵などは
実物と対面しなければ
わからないもの
昼飯はライ麦15%のパンに
オリーブオイルとチーズと鯖缶のオープンサンド
シンプルだけれど美味しい
チーズはチェダーチーズ
酸味と旨みのバランスが良いチーズで
なまけもののパン屋のどのパンとも合うので
常備している
美術館に行っても
解説などはほとんど読まない
レストランのメニュー、電化製品の説明書、
ボードゲームのルール説明
説明を読んだり聞いたりすることが
苦手で拒否反応が起こってしまうということもあるのだが
説明されてしまうと
どうしても自分の目で見れなくなる
一度、イヤホンガイドなるものを
どんなものなのだろうと
借りたことがあったのだが
邪魔くさくて
すぐに使うのを止めた
感じる力
そういうものが退化していきやすい世の中に
なってきている
子供の目なら
まっさらな状態で
作品と対峙できる
感じる力を育てるなら
子供のときだろう
う
きょうはパンを作らず
一日店番をしていようと思ったが
いつものことで
店番だけでは
どうしても眠くなる
昼寝中に来てくれた方
ありがとうございました
イチゴも
早速頂いています
産まれ落ちてから何十年
素晴らしい日々を送らせてもらったし
いまも楽しい毎日を送らせてもらっている
いま
すべてが
自分にある
足りてないものなんて
何もない
この世の中は
ほとんどが嘘ごとで
成り立っているのだが
ひとに嘘をつかれていることがわかると
とても応える
結果とか成果とか最近では
どうでもよくなってきた
うまくことが運べば
それはそれで嬉しいのだが
うまくことが運ばなくても
いまは、それを受け入れられる
起こることのすべては
当たり前に起こっているわけではない
何かがうまい具合にいくということは
奇跡であって
物事はそんなにうまくいくものではない
うまくいかなくても
なんでもないこと
これまでの人生
たくさんの奇跡が起こり
たくさんの素晴らしいことを体験させてもらった
恵まれた人生だった
すべては産まれてこれたからこそ出来たこと
これ以上望むことは
そうはない
産まれてこれた ありがたさ
生きていられる ありがたさ
何かをやれるだけ
ありがたいことだし
うれしいこと
あとは
命の灯火が消えてしまうまで
楽しませていただく
飾ったり
誤魔化したりして
ひとによく見られる必要なんてない
いまの自分のまま
こころのままに
おもいきり
ぶつかっていくんだ
たとえ病気になって死んでしまうことになったとしても
パン屋を終わりにすることになったとしても
身体を思うように動かすことが出来なくなったとしも
おそらく
受け入れられると思う
人がやりたくても出来ないことを
やることも出来たし
素晴らしい人生だった
いまの日本に生まれていなかったら
全然違った人生を送ることになっていただろう
パン屋なんて出来なかっただろうし
自分のやりたいことを
何一つ出来ないまま人生を終えることになったかもしれない
午前4時起床
酵母をいじり
無人販売の準備をして
4時40分出発
西那須野駅はゆっくり走って40分~45分
5時38分の上野行き
高校生多し
彼らはいったい何時に起きているのだろう
9時20分東京都美術館到着
クリムト展
500人くらい並んでいたが
10~15分で中に入れた
帰るときには5分も待たずに入場できそうな列になっていた
地下一階は少し混雑していたが
1階、2階はそれ程ではなく
目玉の作品はゆっくりと観られる
行くなら、いまか
11時50分府中市美術館着へ
そまがりな日本美術
やはり美術館がある町はいいな
何はなくとも美術館だけは作っておくべきだ
美術館があることで
様々なことにおいて
町の人たちの意識が作られていくのではないだろうか
14時30分うらわ美術館着
岸田劉生展
浦和の町ぶらぶらしてみると
何か面白いものに出会えそう
16時30分浦和会館のベンチで遅い昼飯
ライ麦15%のパンでサンドウィッチ
最近、このパンで感動する機会が多い
焼くとパリパリになって美味しいのだが
焼かないで食べると
また別の美味しさがある
e
ランニングをしてから
用事を済ませ
自転車で茨城県大子町へ向かう(9時40分)
田んぼに水が張られ
新緑と春の花
この辺りが
いちばん美しく輝く季節だ
風景を楽しみながら進んだが
久しぶりの遠出
暑さもあり
行きだけでバテバテになってしまった
(12時25分)月居山登山道入り口に自転車を止め
山に入る
新緑、間に合った
いちばん好きな季節
ゴールデンウィークは来られそうもないので
来るなら、きょうしかなかった
上だけではなく
下にもニチリンソウやヒトリシズカなど
いろいろな花が咲いている
もみじ谷の主(大もみじ)に会いに行き
そこで昼飯
きょうはチェダーチーズとライ麦30%の丸パンと小麦のパン
うまい
少しのんびりとしてから引き返す
いくつか買い物をして
(18時) 家に到着
明日は早起きをしないと
早めに寝よう
良い一日だった
きょうの夕食は
フライパンでヒラタケとセロリを軽く炒めてから
下ろした長芋を回しかけ
軽く焼いてからひっくり返し
その上に
ニラを振りまき
卵を落とし
蓋をして
焼き固めたものを(味付けは塩、酢、七味)
トーストしてちぎったライ麦95%にかけたもの
パンはプレーンなパンだけでもいいんじゃないのかと最近思う
プレーンなパンの方が料理と合わせやすいし
チーズをのせて食べるにしても
プレーンなパンで充分美味しい
自分の値段の付け方では
材料が増えれるほど
利益が減ってしまうので
プレーンなパンが多く売れてくれるようになると
とても助かる
気合を入れて料理と合わせて食べてもらえさえすれば
ライ麦パンの良さ、素晴らしさをわかってもらえるはず
桜の花が散って
春本番
緑が増え
外に目を向けると
眩しいくらいだ
田に水も張られ出したし
そろそろ自転車の季節
店の庭の利休梅はいまが
満開
今年はいっぱい花を付けたので
見に来て下さい
昼飯は食材が何もなかったので
ライ麦95%のパンに味噌を塗ってから
七味唐辛子を振りかけ焼いて食べた
なかなかの味
酒の友にも
子供のおやつにも
最適だと思う
今夜の音楽は
Orchestra Baobab - Specialist in all Styles (Full Album) - YouTube
きょうは何だか
聴きたくなって
店でずっと流していた
2003年の来日公演は
すごかった
彼らが次から次へと発するエネルギー
公演が終わったときには
へとへとになった
久々に腰痛
家でじっとしているのも退屈なので
きょうも美術館へ行く
武蔵小金井駅から府中市美術館まで3KMくらい
迷うのだから地図でも書いてくればいいものだが
それが出来ない
行く前の地図を眺めたら
簡単に行けそうに思えてしまうのだ
縮図の怖さだね
途中二人の方に道を尋ねたが
ふたりとも全然出鱈目
二人ともよくあれだけ自信を持ってて答えられるもんだ
武蔵野公園で最初に尋ねた女性は
「かなり先だけど、その道をずうーっと真っ直ぐ行くと右側にあるから」とのこと
尋ねてよかったと、その道を進んでいくと突き当たり
美術館は同じ方向に進んでから小金井街道にぶつかったら
左に折れて2.5kmのところにあった
突き当たってくれてよかった
小金井街道で尋ねた男性は
「この坂を下ったら右に曲がって
4Kmくらい進むと府中だから」とのこと
しかし、坂を下ったところにあった看板には
そのまま真っ直ぐ進めば府中とある
もちろん、躊躇なく真っ直ぐ進んだ
道に迷ったおかげで
いくつかの素敵な公園と出会えた
大きな木が残る公園や美術館
そういうものの重要性を感じている人が土地の行政機関に
いてくれるかどうか
これは運なのか、
土地の人たちが育っているかどうか
すなわち、その土地の歴史なのだろうか
企画展の内容はとても楽しかった
大好きな山雪や芦雪の絵も楽しめたし
徳川家光と家綱の親子は何故
こんなに絵を小さく描くのか?
その心理は興味深い
美術館もありゃあ良いってもんじゃなくて
面白くなるかどうかは
学芸員の力量も大きく関係してくるのだろうな
へそまがりな日本美術
このところ美術館ばかり行っている
その中で
いまの自分の心情に触れてくる絵に
いくつか出会うことができた
そのどれもに
なんとなく共通しているものがあり
それらの絵と向き合うことで
いまの自分
これから歩むべき自分が見えてきた
『もうひとつの美術館』で開催されている企画展でも
いくつか、そういう絵と出合うことが出来た
というよりも
ここの絵がいちばん
いまの自分のこころにぐさりと来た
うまく描いてやろうなんて気負うことなく
自分の内側をただ
そのままドーンと出している
うまいだけで何の面白みもない絵だけを
張り出す学校の先生がいたが
そんな絵はこころに何にも響いてこない
そんな絵を描かせないようにするのが
教師の務めなのではないだろうか
な~んてことは言わないが
ほとんどのひとが
年齢を重ねるごとに
こころの内側をそのまま
平気に
出すことが出来なくなっているのではないだろうか
絵描きさんは晩年になって来るにしたがって
面白い絵を描くようになってくることが多い気がする
それはうまく描いてやろうという気負いもなくなり
ひとに受けるよう絵じゃなくて
自分の内側をそのまま絵に表しているからではないだろうか
今回の『もうひとつの美術館』企画展は
新・北斎展や暁斎展、奇想の系譜展と並ぶくらい
面白いものだった
『もうひとつの美術館』は
なまけもののパン屋から車で20分くらいのところにあります
興味がある方は行ってみてください
きょうは福島県立美術館で
開催されている若冲展に行こうと考えていたのだが
起きられず
3月から定休日の月曜日火曜日は
朝4時起きで電車での長距離移動
さすがに体が疲れてきた
運動といっしょで
やらないでいると(行かないでいると)
やるのが億劫になってくるが
やってみると(行ってみると)
また行きたくなる
疲れはするし楽でもないが
やらないでいると
こころもからだも精神も錆付いてくる
だから、ちょっと休憩したら
また、やることになるだろう
そういうことで、きょうはゆっくりと眠ってから
ランニングに出かけ、風呂に入ってから
自転車で馬頭町のもうひとつの美術館に行ってきた
今回の企画展は素晴らしい作品がたくさんあって
三周もしてしまった
ここには何度か来ているのだが
「感動した」という作品にはこれまで出会えていなかったと思う
それは、おそらく自分が良さを感じられなかっただけで
素晴らしい作品はいっぱいあったのではないだろうか
自分が変わってきたことで
今回の作品たちと本当に出会うことが出来たのだと思う
きょうは、寒かった
もうひとつの美術館に向かう途中
雪が舞ってくる
セブンイレブンで手袋を買おうと寄ってみたが
売ってなく
「開いてりゃいいんだというものじゃねんだ」と毒づきながら
美術館を目指す
帰りは那珂川温泉旅館の湯で
温まっていこうと思っていたのだが
もうひとつの美術館で
予想外の時間を食ったので
黒羽町にある蕎麦屋『鎌倉』に向かう
5回連続で店が休みということがあり
しばらく、足が遠のいていたが
久しぶりに行ってみたら
良い味になっていた
昨年4回の手術をした大女将も
元気そうで良かった
大女将と蕎麦のセットで
鎌倉という店が成り立っているのだから
ずっと、元気でいて欲しい
開いてて良かったと
こころから思った
夏まで魚はお預けになるので
熱海にて魚の食べ収め
朝かばんにチーズは入れたのだが
朝飯のパンを忘れる
昨夜枕元に用意しておいた電車で読む本
今朝かばんに入れたのだが
読もうと思ってかばんを開けてみると
全然別の本が入っていた
しかも入っていたのは、まだ一ページも読んでいない
全5巻もの長編小説の3巻目
さすがに途中からは読む気になれず
開かずじまい
きょうは早めに帰途につくが
人身事故のため宇都宮線は東京でストップ
どうにもならないので
上野に出て奇想の系譜展
月曜日だが桜祭りのためやっていた
思ったとおり人は少なく
地方の美術館なみ
最後の30分は蕭白の群仙図屏風をほぼ独り占め
上野公園は桜満開
空洞パンに使う酵母が足りずに
半分しか作れず
計算機を使って計算したのに間違えたのか
連日のうっかり
ここまで続くのは人生ではじめて
大丈夫だろうか
この芝居は観てみたい
和の心を伝える企画プロデュース 響和堂 - 土佐源氏
東京から戻ると
パンが全然売れていない
まさかと思ってHPを確認してみると
更新したと思っていた
本日の営業時間は昨日のままになっていて
更新されていなかった
2月3月と何度同じことをやっただろう
このところ、うっかりミスは少なくなっていたのだが
反動なのか、ここに来て
すごいことになっている
昨夜は発酵器の電源を0時に止めるはずだったのだが
寝てしまって、起きたら0時30分
あわてて電源を消しに店に行ったのだが
今朝店に行ってみると
電源がつけっぱなし
問屋に材料の注文も忘れたので
今週は材料が間に合うかどうか
きょうは行ってみたかった東京の小岩にある
盆栽美術館『春花園』へ
小岩駅から約3500m
オープン1時間前に駅に到着
歩いていってもオープン時間には着ける
普通の人なら
勘違いで反対側の出口に出てしまう
縦に一キロ,横に一キロ進んだところで気づく
春花園まで5500メートル
仕方がないので走ったがなかなか見つからず
5人の方に尋ねて
ようやくたどり着いたときはオープン時間を30分過ぎていた
入ってみると働いているのはみんな外国人
すごい盆栽ばかりなのだが
あまり響いてこないのは何故だろう
それから、きのう観た岸田劉生の麗子像が素晴らしかったので
彼の他の作品も観てみたくなって
国立近代美術館へ
桃山時代に作られた信楽焼きの茶入たちが素晴らしく
くれるというなら貰いたかった
藤田嗣治の作品も良かった
今年夏には岸田劉生没後90年の展覧会があるそうだ
楽しみ
本日の無人販売
たくさんのお買い上げありがとうございました
きょうは天気が良かったので
箱根まで足を伸ばしてきました
ポーラ美術館
こころが揺すぶられるような絵には出合えなかったのですが
けっこう楽しむとが出来ました
絵の他にガレのガラス作品もいっぱい展示しています
明日もパンの販売行います
最近はけっこう良いパンが焼けているなあと思う
パンはタイミングが少しずれれば
まったく別の味になってしまうので
余裕を持ってやっているのか
余裕なんて持てていないのだか
自分でもわからないが
前よりも生地の状態を
見られるようになってきたとは思う
このまま夏を乗り切れるかどうかだ
夏のパン作りは
年々よい感じになってきている
夏を越す度に力を付けている感じだ
今年は不安はあるが
楽しみの方が大きい
このところ
最高にうまいライ麦80%を
続けざまに焼き上げている
窯に入れるタイミングを少し早めてみたら
味がかなり変わった
パンはまだまだ美味くなる余地がある
その余地を自分が埋めていけるかは
わからないが
余地があるということには
光がある
夢がある
空洞パンを食べているときに
これは餃子の皮の味に近いなと感じた
噛んだときの感じも似ているし
もしかしたら
ひき肉のような食感のライ麦95%のパンを挟んで
焼いてみたら餃子もどきになるんじゃないか
と
やってみた
ホットサンドメーカーに挟み
両面を軽く焦げ目が付くくらい焼いてから
醤油、酢、七味唐辛子を混ぜたタレに付けて
口の中へ
餃子だ!
ニンニクやニラなどを入れたら
もっと美味しくなるかもしれない
素晴らしい
餃子味になってしまうパンなんて
探しても
そうはないだろう
是非試してみてください
海産物は味覚を育てるに
もってこいだなと
なまこやからすみを食べながら思った
海の近くで育った人は
土台がしっかりしているひとが多い
それは何年もパン屋をやっていて感じたこと
からすみを食べたのは
はじめて
これ程うまいものだったとは
大変な手間暇をかけて
作られるものなのだろうな
この味は
どんなに技術が発達したとしても
食品添加物では出せない
添加物の味に慣れてしまった人の舌では
この味をうまいとは感じられないのかな
もったいない
加工食品やインスタント食品ばかりの食事で
子供の味覚を壊してしまうということは
こういうことだ
もったいない人生を送ることになる
自分の子供をそんなふうにしてしまっていいのかなあ~
いまや食べ物はほとんどのものが
食品添加物の味になっている
デパ地下で買ったサラダ、うま過ぎだとか
この牛丼屋の汁、絶品だとか
このファミレスのハンバーグ大好きだとかと
ブログに書き込んでいるひとたちは
添加物の調合、絶妙~
添加物最高だぜ~と
書いているようなものではないだろうか
ランニング後
店番をしている女性のあくびに誘われて
入った『くり原の珍味』というお店で購入した
からすみ、はばのりと昨夜食べ切れなかったイカ刺しで
昼飯、飲み物は泡盛
からすみはあぶって大根おろしと酢をぶっ掛ける
はばのりはあぶって熱々のごはんに混ぜて蒸らしてから
鰹節と醤油をかける
イカはツマといっしょにフライパンで炒め卸した生姜と
刻んだしその葉、醤油をかける
どれもうまい
本は京極夏彦
極楽極楽
またひとつ熱海に良い店を見つけた
最近は海産物が
自分にとっての極上の食べ物
いつか海の近くに暮らせる日がくるだろうか
きょうは熱海
昼飯はカンパチの刺身定食
MOA美術館 『うるし 伝統と革新』
明治から昭和初めにかけての
漆芸界のスーパースターたちの作品が揃っていたので
期待していた以上に楽しめた
明治時代の両巨頭、一朝と松哉の作品の
丁寧さと手間暇のかけ方にため息
権六さんの作品もやはり面白い
福島屋旅館は休み
村越魚店でカンパチ、マイカ(はらわた付き)、
カワハギ(肝付き)の刺身を購入
酒も買い込んで
帰りの電車で本を読みながら
食べて飲んで
至福の時間
パンの塩の量を少しずつ減らしている
気づいた人は
それ程いないだろうと思う
料理と共に食べるパンなので
塩味はそれ程必要では無いんじゃないのかと思って
お客さんの舌を慣らしながら
減らしていくことにした
きょうも東京
上野にある東京都美術館で
奇想の系譜展
きょうから新しい展示
牛前9時20分朗着
開門前で200人近く並んでいたが
すぐに入れた
混雑する前に
伊藤若冲はスルーして
今回の展示会でいちばん観たかった
曽我蕭白の『群仙図屏風』を目指す
これはすごい
これだけのエグイ絵を自分は知らない
このエグさは印刷や映像では
絶対に伝えられないだろう
このひとの絵には
とんでもなくエキセントリックな人物や生き物たちが登場するので
そちらの方にばかり目が行ってしまうが
このひとの技術(筆使い)は相当なものだと思う
一周して戻ってみるとこの絵の前にはひとが群がっていた
多くの人がこの絵にこころを揺さぶられているようだ
今回展示されている、8人の絵師の絵はどれも
強烈なものばかりだが
この絵は群を抜いている
この展覧会の後
少し国立博物館を歩いてきたが
奇想の系譜展を見てしまった目や頭には
どの絵もつまらなく映ってしまう
その後、鎌倉へ
『はま善』へは間に合わずに行けなかった
小町通りから少し入ったところにある『鏑木清方記念館』で
探していた資料を見つけることが出来た
月曜日、今朝も雨に降られた
雨男復活か
午前5時15分西那須野駅に向かう
朝飯はライ麦15%のパンとブリーチーズ
このパンがとんでもなくうまかった
最近はなかなか良いパンが焼けていると思う
レベルはかなり上がり
うまく出来たときの味は
そうとうなものだ
六本木『サントリー美術館』
河鍋暁斎の後半
やはり、このひとは面白い
月曜日でもお客さんが入っていた
自分が思っていた以上に人気があるようだ
せっかく六本木に来たので
近くの『森美術館』で新・北斎展の二回目
きょうは10分も待たずに入れたが
中は何故か込んでいた
入り口付近はかなり込んでいるので
出口から逆回りで見て回った
最初はみんな1点一点しっかり見ようと
意気込んでいるのだが
作品が多いので
ほとんどの人が途中から流してみるようになるので
後の展示ほど見やすくなる
並んでみようとすると疲れるので
空いたところ空いたところ
隙をみつけて見て行く方がいいと思う
単眼鏡があると離れたとことからも観られるので便利だ
『東京都美術館』奇想の系譜展と新・北斎展
両方観にいくのなら
少し安くなるセットチケットがあるので
先に買ってから行くといい
明日も東京、奇想の系譜展後半
時間に余裕があれば鎌倉まで脚を伸ばしてみよう
遅くとも21時までには戻らなければならないので
魚を堪能している時間は無いかな
熱海の村越魚店は
一年前に町の中をブラブラしていたときに
見つけたお店
店構え、建っている場所、品揃え、そこで働いている人たちなどなど
自分の中ではパーフェクトの魚屋さん
もし、どこか
いまとは別のところで
暮らすのなら
こんな魚屋さんがある町で
暮らしてみたい
明日に備えてなんてことを
考えることなく
自分を守ることなんて止めて
いまのいま
この瞬間だけに
全てをぶつけて生きられるような
そんな人間に
なろうと思う
移住者を増やそうという取り組みが
全国的に見られるが
この町の場合は
移住者を呼び込むよりも
住んでいる人たちが出て行かないような
魅力ある町にしていく方が先だろうと思う
そのためにはひとを育てることだ
町はそこに住んでいる人たちが作るもの
ひとが育っていなければ
魅力ある町には絶対にならない
時間がかかってでも
土台を作っておくこと
30年50年先を見据えて
ひとが育つ環境を整えていくこと
ファストフード店やファミリーレストラン
インスタント食品の味で育ったひとが
何か食べ物屋さんを始めようとしても
それなりの店しか出来ないだろう
大手メーカーの大量生産品や
スーパーの特売品ばかり購入していれば
物を見る目は育たない
どんなにしっかり作られたものがそこにあろうとも
その価値がわからないだろう
購入決定の基準は
安いかどうか
物の良さなんて関係ないし
わからない
こだわりの店がいまのこの町に出来たとしても
生き残るのは大変だろう
手間暇かけ作られて素材の味を引き出したものよりも
安くて添加物味のものの方が選ばれる
この町の場合は
味覚が育ってないひとが多いから
同じ値段だとしても
添加物味の方が選ばれるかな
いまのこの町では
こだわればこだわる程
おそらく
買ってはもらえなくなる
こだわりを受け取ることが出来るひとがいないのだ
だからといって
町の人に合わせて
ふわふわのパンや
甘ったるい垂れがたっぷりかかった
柔らかハンバーグなんてものばかり作っていたら
ひとは永遠に育たない
ひとが育たなければ
町は
外からの大きな資本にのみ込まれていくしかない
物を提供するひとたちの意識が変わってくれたらとも思うし
素敵な意識を持ったひとたちが育ってくれたらとも思う
このままでは
いま以上に魅力のない町になってしまうだろう
このパンを作ることが少しは
町の人たちの意識を変えさせることには繋がっていくと思うが
もうひとつ自分がやりたいことは
職人さんたちによって
誤魔化しなく
しっかり作られたものを
見たり触れたりすることで
大量生産品にはない良さを
知ってもらえるような空間を作ること
それから音楽や美術など
文化的なものに興味がもってもらえるような空間も作りたい
島根に移住した女性その2
自分の娘のことだけではなく
何代も何代も
続いていく
先のことに
目が向いている
なんだか
大きくなって帰ってきたぞ
このひとには学校の勉強なんて
全然入ってはいない
学校のテストなんて受けても
0点だよ
だけれども
このひとには誰よりも世界が見えている
学校の勉強をしたからといって
素晴らしい人間になれるとは限らないし
彼女を見ていると
学校の勉強なんて
必要ないんじゃねえのとも
思えてくる
きょうは別々の時間に来た
別々のふたりのひとから
まったく同じ言葉をかけられた
「ここのパンは料理と食べると美味しいと言っていたことが
どういうことかわかった」
ここに書いたのは自分の記憶で書いたものなので
この通りの言葉を二人が言ったのではないのだが
ふたりは一字一句違わない言葉を発したので
驚いたし
自分が進もうとしている方向は
間違ってはいないと確信できた
料理といっしょに食べてもらえさえすれば
ふたりが言ったことを
かなりのひとにわかってもらえると思う
そのまま食べるのが好きだという人のほとんどは
料理と共に食べたことがないひとが
ほとんどであることがわかった
栃木県で売られているパンのほとんどは
そのまま食べられるパンだし
その結果、パンだけで食事を済ませてしまうひとが多い
そんな状況なので
パンを料理といっしょに食べてもらえるように
もって行くまでが
なかなか出来ない
とても困難なことなのだが
料理といっしょに食べれば
パンは何億倍も美味しく食べられるし
栄養失調や添加物害、糖分や油の摂取過多がもたらす
大病を予防することも出来る
そのことがわかっているのに
菓子パンやデニッシュは作れない
いったん死んでみると、生きていたころの、どんなにつまらない一日でも、まばゆく、まぶしく輝いて見える
井上ひさしの戯曲『ムサシ』より
生きているいまは
どれだけ長く生きたかじゃなくて
どう生きたかだとも思うけれど
いったん死んでみると
どんな思いになるのだろう
でも、生きているいまなら
自分はやりたいことを
思い切り楽しむことを選ぶだろう
受験勉強や大学に行くこと
一流といわれる会社に就職することに価値は見出せない
島根からのお客さん
4年ぶりに会えた
もともとはこっちのひとなのだが
いまは山の中で暮らし
子供も産まれた
環境が変われば
ひとは育っていくもののようだ
もともとよい感性を持ったひとだったのだが
島根に移住し
自然の中で暮らし
食料を育て
子供と共に生き
だんなさんの感性もきっと素晴らしいのだろう
感性が益々磨かれて来たようだ
こういうひとが地元に残ってくれていれば
とてつもない財産なのだろうが
いま、現在
ここは
こういう素晴らしいひとを留めておけるような魅力は
残念ながらない
昨日から雨
午前4時過ぎ小雨になったので
傘を差して駅まで走る
午前5時38分発
朝飯はパンとチーズ
午前10時28分熱海着
忘れるだろうなと思った傘をやはり
電車に忘れる
先週図書館で見ていた本にあったクスノキを見に行く
樹齢2000年
これだけデカイ木ははじめてみる
きのみや神社
木の周りを願い事をしながら一周すると願いが叶うそうだが
ただただ「ありがとう」という思いしか心に浮かばない
美術館へ行く前に早めの昼食
何度かいったことのある店で
金目の酒蒸、焼き白子を食べる
缶詰以外の魚を食べたのは昨年の夏以来かもしれない
MOA美術館へ向かっている途中雨が強くなってきたので
傘を見つけくる
昨年一週違いで観られなかった
尾形光琳
紅白梅図屏風と初対面
何だこの迫ってくるものは
圧倒的な美しさ
30分近く
離れたところからしゃがんで眺めていたが
それでも去りがたい
これまで自分が見た絵の中では
普賢菩薩像と並んでいちばん好きな作品となった
映像や写真では何度も見ていたが
実物は全然違った
実物と対峙することなしには
絶対に感じられないものが
この絵にはある
素晴らしい絵を見ることが出来た
生きていてよかった
産まれてこれてよかった
福島屋旅館で湯に浸かり
海を眺めてから駅へ
午後6時53分発黒磯行き
今朝もランニング途中に
最近のお気に入りである方府田の高台から
蛇尾川を眺める
ここからは大蛇がクネリクネリと行進している様子を見ることが出来る
赤く染まる川面
きょうは少し雲が出ているので
夕焼け空のような優しい赤だ
きょうは風が最高に気持ちいい
顔を撫でていく風に
うれしくなってくる
堪らないぜ
家に着くと休む間もなく
自転車に乗り込んだ
いつの間にか三時間
もっと本に浸っていたかったのだが
帰って酵母をいじらなければならない
それにどうにも腹が減ったので
飯を食ってから温泉に浸かって帰ることに
図書館を出て入った食堂
出てきた料理
味噌汁の中にソウセイジが入っているのを見て
嫌な予感
市販の漬物に
濃い味の料理
だしの素の味のする味噌汁
これでは
コンビニの弁当を食べているのと変わらない
自分が化学調味料を使った料理が嫌いなのは
身体に悪いからということよりも
不味いからだ
おふくろの味を強調していたので
ほんのちょっとは期待して店に入ったのだが
いまやおふくろの味は
化学調味料の味なのだ
「あら、奥様お買い物ですか」
「ええ、そうなんざますよ。これを切らしてしまいましてね」
「それはなんですか」
「これざますか、これは全国展開している有名牛丼店や
有名回転寿司屋でも使われているお出汁なのよ
これをお湯に入れるだけでお出汁が取れてしまうの」
「そんな便利なものが」
「あなたもお使いになってみたらいかが。いま、みんながお使いになっているざますよ」
「そうなんですか、でも成分表には
聞いたことも無いようなものがいっぱいかかれていますが
これは何なんでしょう」
「大丈夫ざますよ、みんなが食べているのざますから。
安心、安全ざますよ」
「みんなが食べてるのか、それなら
安心安全ですね。私も使ってみようかしら」
「これは良いざますよ。この味に慣らしておきさえすれば、
いつか子供たちが大学に行くことになって
家を離れても、コンビニエンスストアやファミリーレストランは
全国どこにでもあるざなすから
いつでもおふくろの味が味わえるざます」
「便利なものですね、この粉末が母と子供たちを繋いでくれるのですね」
「そうざますよ」
「奥様、大変な親ごごろですねえ」
「オッホッホッホ」
いまや勉強第一
その考えは自分が子供だった頃よりも
強くなっているのを感じる
味覚を整えておくということは
生きていく中でのいちばんの基本だと思うのだが
ほとんどの親たちはそんなことに
関心は無いようだ
とにかく受験用の勉強が出来るようになること
添加物まみれのスナック菓子や清涼飲料水、ファミレスの料理を
平気で食べさせているということは
子供たちの健康よりも
受験用の勉強の方が
大切だと感じているということなのだろうか
味覚が狂ってしまっているひとほど
添加物や濃い味のもの好んで食べるようになるので
病気にはなりやすいのだ
これだけ大病を患っている人たちが多い世の中で暮らしていて
親たちはそれを意識しないのだろうか
みんなが食べているから
安全安心なのかな
給料が少なすぎるとか
不平を吐いているひとは多いと思うが
自分で店などをやれば
働けば
お金が入ってくるということが
当たり前なことではないということがわかってくる
パンを入れる紙袋のことも
平気で何枚も要請する人がいるが
紙袋一枚のお金を稼ぐのが
どれくらいか大変なことなのか
守られた環境にいる人は
なかなか
そこまでのことに
思いはいたらないだろう
モノを売る側が過剰なくらいに
モノを包むようになったのはいつ頃からなのだろうか
買う側は包んでくれるのが
当たり前になっていて
自分の店でもビニール袋に入っているにもかかわらず
ひとつふたつのパンに
紙袋を要請する人たちがいるので
近々、紙袋の代金を払ってもらうことを考えている
それによってお客さんが去って行ってもいい
そういうことに意識をしてくれる人が増えることの方が重要だ
いまのこの国
評価評価評価で
売る側がビクビクビクビク商っているが
そういう精神が
この国をつまらねえ国にしている
本当に紙袋なんて必要なのか
店から家へのたった数分、数十分で捨てられてしまう
紙袋の悲しみ
こういうものに金を使わなければならないのは
バカバカしいなあと思ってしまう
過剰すぎるサービスが
日本をくだらねえ国にしてしまったし
くだらねえ人間を作ってしまった
ストレスだらけの日常や人々を作ってしまったのだろう
24時間営業、へりくだりもどきの対応、時間厳守、ミスが許されない対応
病んでいる人が多いのも当然だ
日本には素晴らしい文化がいまでも
わずかばかばかり残っている
そういう知恵の詰まった素晴らしい文化は
残していくべきだと思うが
くだらねえ習慣や形式は
切り捨てていっていいんじゃねえかと思う
意識が変われば
人生が変わる
そんなことって
あると思う
味覚が変われば
人生は変わる
ものすごく変わる
ものの見え方が変わってくる
子供には
素晴らしい世界を見せてやって欲しい
せっかくこの世に生まれてきたのだから
きょうも心臓がドキドキと動いてくれている
朝からサンドバックを叩いた
運動後の酒はうまい
感謝
もっともっとが
人類を蝕んでいき
もっともっとが
いつか人類を滅ぼすのだろう
もっともっとを
人間から取り去ることは出来ないだろう
坊さんからだって取り去ることは出来ないのだから
でも
もっともっとの舵取りさえ間違わなければ
それによって
人類が滅ぶことも無くなるかもしれない
が
それは
ドラえもんがじゃんけんで勝つことよりも
難しいこと
原発再起動
経済優先
震災のとき
考えを改めたひとも多いはず
それでも
時が経てば
そんな考えも
湧き出してくるもっともっとの思いに
飲み込まれていく
もっともっとの思いに囚われている人間は
休み無く働いて疲れきり
ため息ばかりが多くなる
そんな生活をするために
小学生の頃から
塾に通い受験勉強
ゆっくりごはんを食べる時間も無ければ
仕事と勉強をする以外のことをする時間も無い
もっともっとゆっくりごはんが食べたい
もっと仕事や勉強以外のことをやる時間が欲しい
舵を切って
別のもっととっとへ
もっともっとを人間から
取り去ることは出来ないが
もっともっとも
進む方向を間違えなければ
豊かに生きることは出来るのではないか
もっともっとの思いに囚われている人間は
山を削って住宅地や道路を作り
仕事に行けば成果成果でストレスだらけ
朝夕は渋滞や満員電車
食べるご飯は添加物
夕焼けも満天の星も
眺めることを忘れて生きている
もう
人間として生きていける社会ではなくなっている気がする
科学者や国の
もっともっとで出来上がった
原子爆弾
もっともっとは
人のこころをも破壊できるのか
何十万ものひとの命を一瞬で奪い取ってしまうようなものを
同じ人間が使ってしまった
正当化するために
真珠湾は利用されたのか
それはそれで狂気だ
肌の色が違うということも
自分たちのこころを納得させるために
利用したのだろう
もっともっとの
抑えられない思いは
そこまでのことをさせてしまう
もっともっとは
成果を見せつけることも重要だから
原子爆弾を作っただけでは
終われないし
作ったものは使いたくなるものだ
そして
もっともっとは
とめどなく
もっと強力な爆弾を作りたくなる
そして作ったなら
持っているなら
使いたくなる
戦争で死んでも
国は回る
地球も回る
やりたかったことを
すべて奪われての無念の死
そんな
ひとつの命が終わっても
国はなんでもない顔をして
生き続ける
ひとつの死は
すまん
すまんのこころのない言葉だけで
済まされてしまう
もっともっとは
とめどなく
いつか人類を滅ぼすまで
止まることはないだろう
科学者も
政治家も
会社も
誰も彼もが
もっともっとを止めることは出来ないだろう
人間のさがだね
もっともっとによって
人類が滅んでも
地球は回る
いま、こうして心臓がドキドキ動いているのも奇跡だし
こうして身体を動かせていることも奇跡
時も身体も
ありがたく
そして大切に使わせていただく
山の熊たちの会話 1
「最近は、人間が増え過ぎてしまって困ったものだな」
「近頃は山にまで入ってきやがるから、落ち落ち食事も出来ねえぜ」
「あいつら、『人権だ人権だ』と騒いでいるけど
それなら俺たちの権利も認めやがれってんだ」
「山下りただけで、鉄砲で撃たれちぁ適わねえや」
山の熊たちの会話 2
「最近なんだか人間どもがいなくなったな」
「なんでも、あのでけぇ建物が爆発したときに
危険な物質が飛び散ったそうだ
それで、人間どもは逃げ出して行ったそうだ」
「いま、あの村には誰もいねえ」
「いまでも、その物質はこの辺を漂っているそうだ」
「俺たちは、大丈夫なのけぇ」
「知らねぇ」
「人間どもは逃げて行けば済むけれど、
俺たちは逃げる場所なんてねえ」
「向こうの山の熊たちも食料が無くてヒィヒィ言ってるようだもんな
俺たちが行っても食べるものなんてねえ」
「食料があったとしても向こうの山に行こうにも
山を下りれば鉄砲で撃たれちまうしな」
「あいつら、自分たちで大地や空気を汚しておいて
自分たちだけ、どこかに行っちまうんだから虫が良すぎるぜ」
「人間たちも、まさかこんなことになるなんて思っていなかったんだろうな」
「みんな、驚いた顔して逃げて行ったもんな」
「それに、怒っている人たちもいたな」
「村に住んでいた人たちも騙されていたんだろうな」
「でも、人間たちは虫が嫌だ嫌だ言ってるぜ
汚いからだってよ」
「自分たちは特別だと思っているんだよ」
「自然さえも制覇できると考えてやがるんだ」
「困ったもんだ」
人間は特別な存在じゃない
特別おろかな生物ではあるけれど
この世で起こっていること
すべてが奇跡なんだと思う
当たり前に起こっていることなんて
何にもない
自分が生まれてこれたことも奇跡だし
いまこうして生きていられることも奇跡
その中で
大好きなスポーツもいろいろ出来たし
素敵な人たちとも出会えたし
旅行にもいけたし
パン屋も出来たし
産まれてこれて
本当に儲けもの
産まれていなかったら
こんな経験は出来なかったんだから
これからの人生も
何かが出来れば
儲けもの
うまくいかなくたって
そんなことは
なんでもないこと
何かが出来ることが
奇跡的なことなんだから
もとから
何にもないんだよ
うまくいかないことを
受け入れられないのは
こころのどこかに
当然という思いが隠れているからだ
当然なんてものを
捨ててしまった方が
いっぱい喜べるし
いっぱい感動できるのではないだろうか
動物や蝿やゴキブリや土が
汚いというのなら
人間だって
汚いものだ
人間は特別な存在じゃない
久々に東京
美術館を廻ってきた
奇想の系譜展
河鍋暁斎展
新・北斎展
ひとクセも
ふたクセもある絵ばかりで
面白かった
こういう素晴らしいものに出会える環境にある地域では
ひとは育っていくだろう
東京にはひとをつまらなくしてしまうものも
いっぱいあるが
素晴らしいものにもいっぱい出会える
何を選ぶかはそのひと次第だが
素晴らしいものがそこになければ
素晴らしいものは選べない
ひとが育っていなければ
素晴らしいものは残っていかないし
生まれてもこない
悪循環
素晴らしい文化も
素晴らしい建造物だって
すばらしい森も
みんなぶっ壊しちゃう
新しいもの
流行りものにこそ
価値がある
ぶっ壊すのは
悪うはないと思うのだが
ぶっ壊したらそれを超えるようなものを
つくらなきゃいけない
ひとが育っていかなければ
どんどん貧しい町になっていくだろう
なまけもののパン屋のチラシが完成しました
お客さんである八木沢さんが
ある日
「チラシ作っちゃいました」ともってきたチラシは
ありがたいがイマイチ納得が出来なかったので
いろいろと要望を出して
改良を重ねてもらった
徹夜などもして作ってくれたそうで
自分の期待や想像を
大きく超えるような素晴らしいチラシを作り上げてくれた
自分でチラシを作ろうという思いもなかったので
八木沢さんがチラシを作って持ってきてくれなかったら
なまけもののパン屋のチラシは永遠に存在しなかっただろう
全然作るつもりもなかったのに
いざ、チラシを作って持ってきてもらったら
チラシ作りたいモードになっていった
チラシはラブレターのようなもので
自分の思いを伝えるものだと思う
その思いに共感してもらえれば
お客さんとなってもらえる
文が多すぎて
読むのが大変な
自分らしいチラシ
店のテーブルの上に置いてあるので
来たら手にとってみて下さい
読み終わったら誰かに手渡してもらえると
ありがたいです
本日の映像は
人気の「人間は何を食べてきたか」動画 22本 - ニコニコ動画 - niconico
モノが溢れ
お金さえ払えば
何でも手に入ってしまうこの国
いろいろ考えされる映像です
とてもおもしろいので
是非観て下さい
モノを作っているので
モノに興味がある
しっかりと作られたモノを
見たり
集めたり
作っている人に会いに行ったりすることが好きで
自分が遠くへ出かけるときは
ほとんど
そういうモノや人に会いに行くときだ
明日は美術館に行きたい気持ちを
抑えられなくなってきたので
連休最終日だがパンを作らずに
出かけてこようと思う
ここ数年で
身体が急激に動かなくなった
100メートル全力で走っても
30秒くらいかかるのではないだろうか
息も100メートル持たなくなった
運動を続けていれば
ある程度体力は維持できるだろうと考えていたのだが
ここまで急激に体力が落ちるとは
こうなってみると
身体が動くときに
すべてをぶつけるくらいに
運動に打ち込んでいればよかったという思いが残る
誘惑や弱さに負けて
たくさんの貴重な時間を捨てるように費やしてしまったなあ
でもその貴重さを
その当時に感じることは
難しかっただろうな
大根がいっぱいあったので昨夜は
フライパンの上に大根をたっぷりおろして
豚肉を入れて軽く煮て食べたら美味しかったので
(味付けは焼酎、塩、醤油)
これはパンにも使えるかもしれないと思う
きょうの昼はパンを使って改良版にチャレンジしてみた
たっぷりの大根おろしと鯖缶、水少々、ライ麦95%のパンと醤油、酢を
フライパンに入れて
熱が通るまで軽き煮て出来上がり
けっこういける味なので
試してみてください
パンをそのまま食べるのが好きという人の多くは
サンドウィッチなどにして食べて
美味しい体験をしたことがないことが多い
この町が好きだという若い人たちの多くは
あまり外に出たことがなく
素晴らしいものに出会ったことがないひとたちだ
変化がない方が
心地が良い
変えようとするなら
何かしらの苦痛がある
苦しくても
そこが楽しいのではあるのだが
やはり、いつもと違うことをするには
勇気がいるよね
でも、そこを越えられた人だけが
世界を広げることが出来るんだ
怖くても、勇気を出して
エイ、ヤァーと踏み出しさえしてみれば
世界は一変する
素晴らしい世界との出会いが待っている
うまくいくとかいかないとか
そんなことは
どうなろうとたいしたことではない
やったかやらなかったか
自分の気持ちに正直であったか
結局は
そこだけだよ
自分を守りたいという思いと
本当に自分がこころからやりたいこと
どちらも正直な思いのようにも思えるが
どちらかを選んで
後悔するようなら
後悔しない方の方が
本当に自分がやりたいことなのだろう
店の近くには国際医療福祉大学があり
けっこう学生たちがパンを買いに来てくれる
男子は少なくて
ほとんどが女性だ
男子はコンビの弁当などで味覚がダメになっているのかもしれない
女性は自炊している人が多いので
味覚が侵されていない
これが社会人になると逆になる
女性は外食やコンビニ弁当が増えるためだと思うが
味覚が狂ってくると自分が作るようなパンは
食べなくなる
でも若い男性客が多いのはなぜ何だろう
そこのところが良くわからない
若いお客さんだけではなく
この店のお客さんは
他のパン屋に比べて
男性の比率がかなり高いと思う
これは何なんだろう?
福祉大の女学生は
味覚が侵されていないだけでなく
他の大学のように遊んでばかりいられないので
みんな純真だ
勉強もするし
実習期間もあるからなのか
3年生4年生になるとガラッと変わる
大人の女
色気がすごい
この大学の女学生は特別だと思う
大田原市の20代30代の女性は全然適わないよ
このパンの美味さがわかるのだから
色気がないはずがない
大田原市の中では
いや全国の中では
自分のところが
福祉大の女学生がいちばん来てくれる店だと思う
自分は超幸福人間だよね
卒業のときに挨拶に来てくれるんだぜ
卒業してからも
パンを買いに来てくれるのだから
人生これで充分じゃん
欲張ってはいけない
す
この町にも
薄味の店が増えればなあと
思っているが
それには薄味を求める人が増えてこなければ
ならないだろう
いまの状況では店の人も
薄味の料理を提供することに踏み切れないだろう
その前にそういうことを意識している料理人は少ないだろうが
薄味を好む人が増えれば
店側も少しは意識しだすだろう
といっても
薄味を好む人を増やすことは
並大抵のことではない
行政が動き出せば
少しは違ってくるかもしれないが
そういう動きはなさそうだ
『子供の味覚を育てる町大田原』とかやった方が
高い金を使って
つまらないPRビデオを作るよりも
アピール度はあると思うのだけど
まあ、そんなアピールなんか
どうでもいいが
子供が育っていく環境を整えておいた方が良いんじゃないか
いろいろと思うところはあるが
とりあえず、自分は子供の味覚が育っていくような
パンを作っていこう
いまのパンなら
わずかなりとも変えていくことが出来ると思う
町はもう悲惨な状態になっている
歩いていると
こころがザワザワして
疲れるので
最近は町の方へ足が向かなくなってきた
町はそこに住む人が作る
これだけチェーン店ばかりの町になってしまったのも
住む人たちがそれを選らんだからだ
今年に入り
パン作りは徐々に調子を上げてきていて
1月半ばくらいから
かなり良いパンが焼けるようになってきた
力も付いているので
うまく出来たときは
これまでにないようなパンが焼けている
今年はどこまで持っていけるだろうか
上を見上げれば天井なんて見えなくて
どこまでもどこまでも遠くへと
階段は続いているが
はたして
これから先
一段をも上ることができるのか
自信というものはない
それくらいパン作りというものは
わからないものだし
いま以上にうまいパンというものを
食べたことがないので
目指すべき
具体的なものが
頭にはない
とにかく
作って作って作って作って
する以外はないのだ
作って作って作って作って
でも
どうなるのかわからない
どこに向かっていくのか
わからない
きょうは朝からランニング
もう、この辺りはだいぶ走り回っているはずだが
まだ通ったことがない道というのも
けっこうあるもので
きょうも新しい道を見つけた
舗装されていない道なので
知っているひとは少ないと思うが
脇を小川が流れていて
とても素敵な道だった
本日は蛇尾川沿い箒川沿いを走って
蛭田から鹿畑を通って帰ってきた
ここ最近大田原市が
美しい土地であることが判明してきた
それを感じられるようになってきたのかな
自分が変わってきたのだろう
いままで見ていた風景が
違って見えてきたのだと思う
しかし、昔はもっと美しい土地だったことも想像できる
木はもっと多かっただろうし
川はこれほどいじられてはいなかっただろうし
舗装された道も
これ程多くはなかっただろう
これから先
いつまで
ここが美しい土地であると
思っていられるだろう
なんであれ
ひとつのものを
真剣に
誤魔化すことなく
突き詰めていけば
ひとは哲学者になれる
きんぴらは
ライ麦95%のパンにも合うことがわかった
なまけもののパン屋のライ麦パンは
根菜との合性が抜群に良いので
いっしょに食べていれば
腸が美しくなってくるので
免疫力が上がり
病気になりにくい身体になってくるし
体重が増えにくい身体になってくる
パンを食べすぎると太ってしまうということをいう女性がいるが
ライ麦割合の高いパンと根菜の組み合わせなら
食べれば食べる程
太りにくいからだが出来上がってくるはずだ
食べる量を減らして
体重を落としても
一時的なもので
すぐに戻ってしまうだろう
健康も美も
食事の改善と運動で
根っこを変えていくことだ
美しさは内から沸き出してくるものなのだ
この町で暮らす若い人の添加物摂取量は
全国的に見てもトップクラスだろう
親たちも子供に平気で添加物を与えている
添加物が出始めた頃ならわかるが
これだけ情報量が増えてきている中で
コンビニやファミレスや牛丼屋やハンバーガー屋や
チェーン店が賑わってしまうのは
何なんだろう?
美しくないものを摂っていれば
美しくはなれない
美しいものを摂っていれば
美しくなくはなれない
おそらく、この先
大病を患う人は増えてくるだろう
いまでも、この町には
糖尿病の人や血圧が高いひとは
かなりいるのではないだろうか
今現在、この町は
かなりの危険レベルにあると思うが
そういう危機感を感じているひとは少ないと思う
少なくても
それを感じている人が
声を上げたり
行動に移せば
時間はかかるかもしれないが
すこしずつ変わっていくのではないだろうか
何より、濃い味付けが
この町のいちばんの問題だ
住んでいるひとたちが
そこのところに意識を
持っていってもらえるように
本当は飲食店の人たちが立ち上がってくれればいいのだけど
この町で薄味で勝負するという勇気ある人はいないだろう
自分のパンを買いに来てくれるひとたちの中には
そういうところに意識が向いているひとが多くいる
初めから意識が向いていたひともいるし
自分のパンを食べて
そっちの方に意識を向けてくれたひとたちもいる
パンを作って
そういう人たちを増やしていくことしか
自分には出来ないが
自分が撒いた種が
いくつかでも
発芽してくれれば
後はその芽が育って
いつか花を咲かせ
自分に代わって種を撒いてくれるだろう
いつまでできるかわからないけど
そのときが来るまで種を撒く
花が咲くことを夢見られる
それは自分にとっての明かり
絶望の中で
やってきた
自分に訪れた希望の明かり
きょうは四つのパンを買って
暗算で合計金額を
計算してしまった人がいて
驚いてしまった
150円
280円
150円
280円
これ、計算機使わないで暗算できる?
280円がふたつもあるんだよ
近くにあるゴルフ場が
いつのまにか
営業を止めていた
ここに木を植えたら
立派な林が出来ると思うのだが
やはり
太陽光パネルが並ぶのかな
近年は物騒な事件が多いので
部活帰り
心配なので
部活をさせないという親が
増えてきた
でも、実は物騒な事件なんて
昔もいまも変わりなく
同じようにあった
昔は口裂け女もいたし
戦争を始めちゃう人たちなんかもいたのだから
いまは効率化による学校統合で
スクールバスでの登下校の生徒も増えているようだが
登下校時こそ
子供たちを育てる絶好のとき
危険を遠く
世界の外に追いやってしまう方が
よっぽど危険と思う
どこかの山で噴火が起こったときに
多くの人が映像に収めていたが
あれこそ危険な行為だろう
どこかの町
町中に水路が張り巡らせている
いまの風潮なら
「危険だから水路には
近づかないように」となるところだろうが
その町では
水路に近づくことを禁止するのじゃなくて
水路に落ちたときや流されたときには
どう対処すればいいのかを教え込むそうだ
成熟した町というのは
子供を育てる
何千万人という人たちが
小学校や中学校に行って
同じようなことを学ぶ
別のことを学ばせたほうがいいんじゃねえの?
どこかの町がやっていることが
流行っていると
うちの町も
うちの町もと
マネが始まる
結局どこも
やっていること同じ
味覚びんびん大田原とか
森を作るぜ原点回帰大田原とか
自分もそれ程
外に出る方ではないが
自分より若い世代は
自分以上に外に出ない
「大田原が好きだから」という若い人たちが多いことに驚いてしまう
自分が子供の頃はまだこの町もすこしは魅力があったと思う
子供たちが育つていく環境にあったと思う
いまは
危険を回避
安心安全
心地よく
失敗も回避といった社会
でも、いまこの町のどこに魅力があるというのだろう
もっと外の世界を見て欲しい
いま、日本のどこの世界も
似たような感じにはなってきているが
まだ、素晴らしいものに出会える機会は残っている
どんどん、外に出よう
いろんな世界を見てみよう
子供たちにも素晴らしい世界を見せてやろう
自分も外に目を向ければ
素晴らしい世界に
出会えることがわかったので
これまで以上に外の世界に
飛び出して行こうと思う
この店は子供たちがいっぱい来るのだが
子供たちを観察していて
素晴らしい原石がいっぱいあるのを感じる
それを
活かすも殺すも親次第ってところもあるが
本人が輝こうとすれば
親がどうであろうとも
素晴らしい輝きを発して生きることが出来る
身体を動かすことが好きだったのに
ずっと動かさずに過ごしていると
身体を動かすことが億劫になってくる
ずっと出かけない生活が続いてくると
出かけるのが億劫になってくる
いまの生活は心地がいい
刺激はないけれど楽チンだ
楽しくはないけど楽チンだ
旅行もエイヤァーと飛び出してみれば
またすぐに行きたくなる
跳びさえすれば
何かが動き出す
お客さんのMさんが
いま、この店のチラシを作ってくれている
素敵なチラシが出来上がりそう
出来上がったら
是非、回し読みしてください
ライ麦80%のパンを試食
この味は初めて
なんなんだ
このフルーティーな風味は
すげぇ~うまい
食べてもらいたいけど
この味をわかってもらえるひとは
この町にそうはいないだろうな
口に入れた瞬間に
味がわかってしまうような
すごく甘かったり
すごく味が濃かったり
そんな食べ物しか
受けないんだろうな
菓子パンやデニッシュの方が
美味しいと思っちゃうんだろうな
それでも
地元の人でも
このパンを食べてくれる人は
少しずつだが
出て来てくれた
何十年も生きて
単純な味のものしか
美味しいと思えないなんて
ちょっと悲しいよね
和食という
味覚を作り上げるには
世界最強の料理がある国なのに・・・
素材の持つ味を最大限に引き出す料理がある一方で
究極の濃い味付けで素材の味を台無しにした料理がある
この国
どちらを選ぶかによって
美しい人間になるか
美しくない人間になるか
その境界線
いや、違う
美しく生きている人は
素材の味を最大限に引き出す料理を選ぶし
そうじゃない人は
そうじゃないものを選ぶのじゃないだろうか
コンビニの揚げ物や
なんとか家の牛丼なんて美しくないだろう
美しい人は美しいモノを選ぶし
美しくない人は
それなりのものを選ぶんだ
ファーストフードの店や
なんとか家の店には
絶対美しいお客さんはいない
美しい人というのは
内から美しさが溢れ出している
ものごとなんて
意識をどこに持っていくかで
どうにでも見えてしまうんだ
きょうも気落ち良く晴れわたり
ランニング日和
もう速く走ろうとしても
速くは走ることが出来ないけれど
最高に気持ちよく
最高に楽しい
うまくことが運ばないことに思いがいってしまうと
そのことだけにしか目がいかなくなってしまうが
その闇の向こう側には
極上の喜びが輝き瞬いているのだ
うまくいことが運ばないことを嘆くのは
欲張りだろう
うまくいくとか
うまくいかないとか
そんなことより
もっともっと根っこの部分
やれるということの喜び
やれるというだけで
本当はとてもとても幸福なことなのだ
喜びの根源
もう、いつ死んでしまうことになっても
受け入れられるだろう
恵まれた人生だった
もちろんつらいことも苦しいことも
いっぱいあった
そっちの方に目を向けてしまえば
素晴らしく楽しい日々があったことが見えなくなってしまうが
間違いなく素晴らしく楽しい日々は
どうしよもないくらいに
たくさん存在した
素晴らしい人たちにも囲まれて
申し分がない人生だった
余生があるのは
儲けもの
そのときがくるまで
目一杯楽しもう
なまけもののパン屋のライ麦パンは
砂糖もバターもマーガリンも卵も入っていない
シンプルなパンだ
だから、これまで食べてきたように
そのまま食べてもらっても
その美味しさはわかってもらえない
料理の味を損ねてしまうような邪魔な味がないので
いろんな料理と合ってしまう
料理といっしょに食べてこそ
その良さが活きてくるパンなのだ
買ってきたパンを
そのまま食べて終わりじゃなくて
ひと手間かけてから食べられるのが
この店のパンなのだ
買ってきたものをそのまま食べるだけでは
つまらない食事で終わってしまうが
ひと手間が加わることで
食事はグンと美味しくなるし
食べたときの喜びも大きくなる
パンに関して言えば
そのまま食べられてしまうようなパンのほとんどは
毎日食べていれば
味覚を狂わせるし噛む力も弱めてしまうものばかり
簡単で便利で快適で
本当にそれだけでいいのだろうか?
日々感じてしまう虚しさや
人間が本来もっているはずの能力の喪失は
そこが原因なのではないだろうか
例えば珈琲
喫茶店で淹れてもらったコーヒーよりも
自分で淹れたコーヒーを飲んだ方が喜びは大きくなるし
それよりも自分で焙煎した豆を使って
自分で淹れた方がもっと喜びは大きくなる
もっと行けば
自分で育てた豆を使えば
尚更だ
もちろんプロの技術には適わないかもしれないが
ひと手間を加えることで起こってくる喜びは
そういうものを凌駕してしまう
ひと手間とは
ちょっとしたことではあるけれど
そんな力を持っている
興味があることに
飛び込んでみると
そこから
どんどん自分の世界が広がっていく
最初は木で作られた椅子やテーブル、
写真立てなどに興味を持ったのだが
そういうものが展示している場所や
販売している場所などには
漆が塗られた製品なども置いてあったりして
そういうものを見ているうちに
漆の世界にも魅せられてしまい
漆器なども使うようになった
するとそこに施されている蒔絵や沈金にも興味をもった
その世界に入り込んでいくと
蒔絵や沈金は絵が生命線であることがわかってきた
どんなに蒔絵や沈金の技術があっても
絵がダメならお終いなのだ
そこから今度は絵画の世界へとのめり込むことに
なってしまった
音楽もそんな感じで
たまたまアンケートの答えて当選した
アイリッシュミュージックのコンサートの入場券
アイリッシュのCDはものすごい量買ったね
コンサートもいっぱい行った
そういうところにもいろいろと接点があって
イングランド、スコットランドと広がっていき
更に北欧、中東、東欧、アフリカ、日本と
どんどん広がっていった
パンはそのまま食べてしまうという20歳の男性
ここのパンもずっとそうやって食べてきた
けっこう意地っ張りで頑固
何かといっしょに食べたときの美味しさを
知ってもらいたいなという思いから
何度かチーズをはさんだパンをおまけに入れておいた
ついに引っかかった
「青かびのチーズをのせて食べたら
めちゃくちゃ美味いんですよ」と
彼の感覚ではかなり高額であろうチーズを
ちょこちょこ買いに行っているようだ
これからはチーズだけではなく
料理といっしょに食べるようになったりと
だんだん広がって行ってくれるんじゃないか
今年はまだ強烈な寒さではないので
走っていても気持ちが良い
店の前の坂道を下りて
右の曲がると町
左に曲がると田畑や川や山
何かの用事がない限りは
左に曲がる
中途半端に中途半端なものがあるよりも
返って何もない方が魅力を感じる
町は
個人の店が入り込む余地がないほど
大型店がひしめき合っている
大型スーパーの数もすごい
ほとんどの人が食材や飲食物を
スーパーかコンビにだけで済ませている
八百屋や魚屋はまだどこかに生き残っているのかな?
個人経営の個性的ですばらしく良いものを扱っている店が
新しくこの町に出現したとしても
おそらく流行ることはないだろう
素晴らしいものがあっても
その素晴らしさがわからないと思う
そういう人間が育たないような環境下に
いまこの町はある
人々は誤魔化しものになれてしまっているし
良いものに出会う機会が無さ過ぎた
子供には外の世界をいっぱい見せてあげた方がいいと思う
素晴らしいものに触れさせておいた方がいいと思う
何十年も生きて
大好物がどこかのチェーン店の牛丼だだとか
どこかのメーカーのカップラーメンだというのでは
さびしすぎる
味覚を育てることは
感性を育てることにもなるのじゃないか
誤魔化しものばかり食べさせていては
きっと感性は育たない
高校を卒業したら
大学へ行くというコースを選択する人たちが
昔より増えた気がする
この人のもとで学びたいとか
こういう勉強をしたいから
この大学に行きたいという強い思いは
なくて
名前だけで決めている人たちが多いのは
いまも昔も同じ
大学受験のためだけにする勉強って
もったいないと思う
時間は貴重だ
この大学で勉強したいなら
足し算はどうしても必要だから
それだけは習得して来て下さい
足し算を習得出来ていたなら
入学を許可します
そんなんでいいんじゃないかと思うのだけど
高校生の段階で
何の仕事をやりたいかなんて
なかなか見つけられないと思う
家と学校の行き来だけが
世界なのだから
もっといろんな世界
広い世界を見られるような
そんな環境が整えばいいのに
本当にやりたいことが見つかっているなら
学校なんて行かずに
その世界に入っていけるような
そんなふうに
世界が確立していけばいいのにな
大学へ行って
経営学を学んだ
実践的な勉強をするのかと思ったら違った
会社は誰のもか?
そんなことを一年かけて勉強するところだ
自分は何のこっちゃという感じで
それを二年間勉強することになったが
いまでも何のこっちゃで
理解出来ていない
社会に出て役立つこと
経営者になるにあたって役立つことなんて
経営学部では
何一つ学べなかった
図書館に行って
本を読んでいた方が
ましだったと思う
でも、やはり講義や本を読んで学んだ知識なんて
そんなに役に立たない
医療関係などは使えることもあるのだと思うが
変な知識があるのは
逆に邪魔だ
頭が固くなる
パン屋をはじめる前に
たくさんパン作りに関する本を読んだが
そこから得た知識なんて
何一つ役立たなかった
経験もないのに
本を読んだところで理解できないんだ
現場でしかわかることは出来ない
力を付けることはできない
大学を出たかどうかとか
どこの大学を出たか
そんなことを
選考基準にしている会社なんて
それだけのものでしかないだろう
そんなものじゃ
人ははかれない
しかし、そんな
いつの間にか作り上げられてしまった
ウソかマコトかのシステムの中で
いまも昔も
人々は翻弄されながら
恐々と生きている
それだけのものでしかない会社に入るために
貴重な時間をなげうって
こころからやりたいと思うことも
ほったらかしにして
セイカセイカセイカセイカと生きている
こういうシステムが
いまのこんな日本を作った
いまの日本を変えるのなら
まずは、こんなシステムを
どうにか
することだろう
食べることは生きていくことにおいて基本的なこと
だから味覚を整えておくことは基本中の基本
その基本ができてない人たちが町に集まれば
町は底の浅いつまらないものになるしかない
若い女性の味覚の狂いは
この町だけのことではないかもしれないが
この町はとにかく酷いことになっている
20代の女性に薦められたラーメン屋さんは
スープがしょっぱ過ぎて
飲めなかった
そのお店に若い女性が
次々入ってくるのだから
驚き桃の木よ
ある別のお店
「ぇえ~何この味付け!」という料理が出てきた
味覚がおかしくなければ絶対出せない味だ
どの料理も
余計な味を加えすぎている
不味い、不味いと思いながら食べていると
隣のテーブルの30代の女性たちが
何と!おかわりをしている
嘘だろと思いながら
食事を終え会計をしながら
厨房を覗いてみると
料理を作っているのも
若い女性だった
そういう話は
まだまだいっぱいある
味覚に対して
何かの対策をすることが出来る機関は
あるのだろうが
その人たちの多くも味覚が整っているとは思えないから
家庭や飲食店が
そういうことを
担っていくしかないだろう
飲食店をやっている人たちの意識は変わっていくかな
この店のある周辺では
うまい野菜が出来る
道の駅や直売所でも
そういう野菜を安く手に入れることができるが
そこで売られている惣菜は何故不味いものが多いのだろうか
作っているのは
おそらく農家の人たちなのだろうが
とにかく味付けが濃い
強烈に甘かったり、しょっぱかったり
せっかくの良い素材が台無しだ
成分表示を見てみると
平気で味の素なんて書いてある
お金を取って
食べてもらうなら
出汁くらい、しっかりとろうや
農産物のうまさを知ってもらうための惣菜作りではないのか?
誤魔化しものでも売れりゃあいいというなら
コンビニやファミリーレストランと精神は同じじゃないか
でも、そういう誤魔化しものの方が売れてしまうんだよな
コロッケなんかも
うまいジャガイモがあるのだから
変に調理なんてしないで
塩振って揚げただけで
極上コロッケが出来ると思うのだが
売れるのは
余計なものが入りすぎて
ジャガイモの味を堪能できないようなコロッケだ
この辺の人は
目の前に素晴らしいものがあるのに
それを素晴らしいものだと感じられない
なぜなんだろう?
美しい夜空があるのに
ピカピカピカピカとLEDで飾り立てるし
美しい山並みが眺められなくなるような
高い建物を作ってしまうし
美しい風景を楽しんでいると
突然巨大太陽光パネル施設が現れたりと
人間が育っていかないのは何なんだろう?
きのうに続き
きょうもたくさんのお客さんが来てくれたが
水木金の平日の売れなさが響き
まだまだパンがいっぱいある
これまでにないくらい
素晴らしいパンに仕上がっております
1月14日 月曜日もパンを販売しておりますので
お越しください
県外の方もぜひ
きょうも県外からなまけもののパン屋のライ麦パンを
求めて多くの方が買いに来てくれました
遠くからでも買いに来る価値があると思います
1月14日 月曜日
大量購入者大募集
集合場所 なまけもののパン屋
集合時間 午前9時から午後7時30分までの間
募集人数 無制限
各自集合、各自解散になります
ライ麦80%のパンを食べてみた
思っていた通り素晴らしい味
いや、想像していた以上の味だ
このパンうまさをわかってくれる人が
いまの栃木にどれくらいいるだろう
パンがうまい!
ライ麦15%のパンにイカ人参
イカ人参はトーストしたライ麦95%のパンも合うかもしれないな
丸パンも平焼きのレーズンもきょうはうまい
自分の焼いたパンで作るサンドウィッチやパン料理が
あまりにうまいので
外に食べに行きたいという思いが起こらなくなってしまった
良く出来たときの自分のパンをたべると
前向きになれるし力が沸き起こってくる
うまいものを食べた喜びもあるが
うまいパンが出来たことの喜びがそうさせてくれるのだろう
ここ何日か
ライ麦95%を食べるようになった
やはりこのパンは偉大だ
身体の中の調子がとてもよくなった
ライ麦95%のパンが
残っていたので
炒め物の中にちぎり入れて食べる
良い味だ
今年は早速パン作りにおいて
気がついたことがいくつもあった
成長が止まらない
なまけもののパン屋
今年はどこまで登りつめていくだろう
楽しみなのは夏
毎年夏はうまく行かなく
お客さんを減らしてきたが
いちばん条件が悪いときというのは
いちばん力を付けられるときでもある
夏のパン作りは止め方が
お客さんを繋ぎとめて置くにはいいいかもしれないが
チャレンジすれば
必ず力は付いてくる
昨年の夏はかなり大きな欠片を拾った
今年の夏はこの欠片をどこまで活かせるか
楽しみだ
こういう楽しみを共有してくれるお客さんこそ
人生の楽しみ方を知っているお客さんだと思う
パン作りに関しては
自分はどんどん攻めていくよ
その過程で
うまくいかないことが起ころうとも
攻めていくよ
だからといって結果じゃない
その方が楽しいからだ
いまはとにかくお客さんが少ないので
パンを買いに来てくれたありがたみで
こころが暖かくなる
通信簿に1、2,3,4,5なんて
本当に必要なのか
美術の評価をひとりの人間が
評価していいものなのだろうか
その評価によって
人生を狂わしてしまうひとだっているかもしれない
可能性を摘み取ってしまうことだってあるのだ
そういうことがまかり通っている受け継がれてきたシステム
義務教育なんて
そもそも無くしてしまえばいいと自分は思っているのだけれど
やるならやるで
もうちょっとやり方があるんじゃねえの
いまの時代は成果を求め過ぎな気がする
小学校、中学校の部活やクラブ活動で
そこまで勝敗にこだわる必要があるのだろうか
野球部に入ったのに
3年間野球の試合に出られないって
おかしいよな
三年間キャッチボールとバッティング練習で終わってしまう
うまくなけりゃあ試合に出られないと思い込んでしまう
それが当たり前になってしまう
うまかろうが
下手だろうが
平気で野球やればいいんじゃねえの
店を終えてランニング
冷たい風が肌に襲いかかってくるが
ひんやりした空気が
気持ちよくもある
昔住んでいた家の辺りを走っていると
いつもと違う風景
見通しがよくなっている
何かが無くなっている
あたご文庫だ
昔ちょくちょく通っていた古本屋の建物が
跡形もなく消えていた
町の姿もどんどん変わっていく
昔からある道を走っていると
何かホッとする
しかし、そういう道も
どんどん姿を消していき
強引に通したような大きな道ばかりが
張り巡らされ
故郷が故郷と呼べない姿に変わって来てしまった
ここは白河市か氏家町か
故郷はこころの中にあるばかりなり
きのう、きょうもランニング
冬は冬で空気が澄んでいるので気持ちがいい
椅子のおかげで腰痛がなくなり
継続してトレーニングが出来ている
もう少し早く
この椅子に出会えていたらという思いもあるが
いま運動を出来ていることを喜ばなければ
欲張ってはいけない
好きなことが出来るということに感謝
今年三回目のパン焼き
小麦酵母、ライ麦酵母は更に力強く
悪くないパンが焼けていると思うが
このパンでもわかってもらえないかな
日々欠片を見つけながら
力はついて来ていると思うのだが
平日のお客さんの少なさ
自分の感覚では
この町でやっていくのは
もう無理かなという感じかな
地元の人を捉まえられなかったのが
いちばんの要因だろう
年末年始も
遠くからのお客さんが来てくれたから
なんとかなったという感じだもんな
あと一二年やってみて
他の県でパン屋を出来るなら
それもありだし
終わりなら終わりでもいいかな
それでも
蒔いた種は
少しは芽吹いたと思うよ
パン焼き2日目
小麦酵母が更に元気になってきた
小麦のパンを試食
いい味
いつも年初めのパン焼きは
酵母をうまく良い状態へともっていくことができなく
出来の悪いパンしか焼けなかったのだが
今年は合格点をあげてもいいかなというパンが焼きあがった
小麦酵母の力がちょっと弱いような気もしていたのだが
焼きあがったパンを食べてみると
自分好みの味が出ていた
パンは食べてみるまでわからない
きょうは良いパンになったんじゃないのと
高まった気分で食べてみると
あんまり美味しいくなかったり
きょうのパンは自信がないなという場合でも
食べてみると感動してしまうような味であったりと
よかった~
きょうはお客さんが来てくれて
きのうの初売りは
お客さん3人
いきなり
去年の最低来店者数の6人を更新
しかも3人
今年はどうなっちゃうんだろうと
あんまり明るい気持ちにはなれなかったのだが
昨日きょうと素敵なお客さんたちと
素晴らしい時を過ごすことができた
今年も素敵な一年になれそうだ
最上の味を求めて
可能性が見出せたなら
作り方もどんどん変えていく
誤魔化しや嘘をつくことなくやっていれば
必ず進化していける
何十年経とうが
どれだけ力がつけたとしても
やっている限りは
必ず進化していける
コンビ二もファミレスも牛丼屋もハンバーガー屋も
あれだけ大きくなれば
どれだけ儲けるかしかなくなってくる
肉料理のはずなのに
添加物を使って肉の風味をつけたりと
誤魔化しでもいいから儲けてやろうという精神だ
こういうところの食べ物ばかり食べていれば
そういうコンビニ的精神やファミレス的精神を受け継いで
誤魔化しものでもいいやというふうにもなってくるし
手間暇かけて
誤魔化しなく作られた
素晴らしいものの良さがわからない人間になってしまうだろう
誤魔化しものを
誤魔化しものだとわからなくなってしまっているかもしれない
自分が生まれ育った町には
コンビニ的な精神を受け継いだ人たちが大勢いて
その証拠に町がコンビニだらけになっている
こんな人口が多いとはいえない町に
セブンイレブンだけでも20軒くらいはあるのだから
こういう町は見かけだけ綺麗に着飾っただけの
深みのないつまらない町になっていくしかないのだろう
誤魔化す技だけを見れば
コンビ二もファミレスも牛丼屋もハンバーガー屋も
進化している
でも
進化にも二種類あって
それを使う人が
人間として
進化できるものと
逆に退化してしまうもの
科学技術が
どれだけ
発達しても
それが
人間が人間として生きていく喜びを
失わせてしまうものばかりならば
世界は歪んでいくだろう
今年最後のパン焼きにしようかなと考えていたのだが
きのうの寒さで
窯の電源を切った途端
作業場の温度が急激に下がってしまい
そのことに気がづかずにいたので
酵母の発酵が進んでいないことにも気がづかず
ライ麦酵母は使用できず
締りのない終わり方
しかし寒い日の対処方が見つかって
また引き出しがひとつ増えてくれたので
良しとしよう
添加物が身体に良いのか悪いのか
どうかということは
自分にはわからないことだが
添加物が味覚バカを作っている大きな要因であることは
間違いないだろう
人々の味覚がおかしくなっているのは
全国的にいえることかもしれないが
自分の住んでいる地域は
危険を通り越して
手に負えない状態になっている
ここまできていたら
もうどうすることも出来ないだろう
わずかばかりの可能性にかけるのならば
子供たちに酸っぱいものだとか
苦いものだとか
いろんな味を憶え込ませておくことだ
パンを売りながら人々を観察して18年
海の近くで生まれ育った人たちの多くが
発達した味覚を備えているということに気がついた
子供の頃から海産物を食べてきたので
酸っぱいあじや苦い味、旨みなど
いろんな味を体験してきたからなのだろうと思う
自分のパンは癖があって
濃い味に慣れた人たちには
とっきにくい味だろうけれども
子供たちの味覚を発達させるのには
悪いものではないと思う
使命感とか
そんなものは自分にはないけれど
自分の作ったパンで
子供の味覚がおかしくなるようなことには
したくないと思っているから
自分はこれからも
こういうパンを作っていく
売れるパンではないけれど
それが自分の中の芯だから
とても難しいパンだけれども
やるからには
最上の味を求めていきたい
濃い味に慣らしてしまえば
濃い味が好きになるし
薄味に慣らしてしまえば
薄味のものでも美味しいと感じるようになる
息子の喜ぶ顔が見たいから
きょうもグルタミン酸ナトリウム
子供の味覚に無頓着な親はいま
とても多い
親の味覚が狂ってしまっているのだから
仕方がないことなのだろう
ファミレスやコンビニは大盛況だし
スーパーに行けば
親たちが買い物カゴに
清涼飲料をどっさりと詰め込んで歩いている
3連休はたくさんのお客さんたちと
素敵な時間を過ごすことができた
パンもそれ程悪くないものができたと思う
毎日うまいパンが作れればいいのだが
パン作りは
毎回納得できるパンが出来るような簡単なものではない
室温や他の生地との兼ね合い、自分の調子、偶然性などなど
足を滑らせ谷底へ真っ逆さま
そこに偶然飛んできた一反木綿
運良くその背に着地して
一命を取り留めた
うまいパンは
それくらいの奇跡的なことが起こらなければ
出来上がらない
自分に出来ることは
いまの自分の力をすべて出し切ってパンを作ること
いまの自分をすべてぶつけて誤魔化しのないパンを作ること
それしか出来ない
本物のような味を目指すのではなくて
本物の味を追究していく
肉の風味付けをしたハンバーグに
グルタミン酸ナトリウム風味のソースをたっぷりかけて
提供される
本格ハンバーグ
手作り風油揚げ
何とかという店の
何とかというパンのようなパンを目指すのではなくて
俺は俺のパンを作る
きょうは面白い味のパンになった
発酵というものの面白さ
パンというものの面白さ
感じてもらえるかはどうかわからないが
感じられる人には感じられると思うので
ためしに来て下さい
明日23日午前中から販売します
シンプルなパンだから出せる味
シンプルなパンだからわかってもらえる面白さ
味付けの濃い料理は素材を殺してしまうように
余計なものが入れば
余計な味が邪魔をして
粉の味も楽しめなくなるし
発酵の面白さも感じられなくなる
もちろん
そういう面白さを
わかってもらえるようなパンを作るには
作り手にも力がなくては出来ないが
本日も素敵なお客さんとの出会いがいっぱいあった
産まれてきたことパンという食べ物と出会えたこと
パンという食べ物が誕生したこと
店をやれているということ
自分が作るものを食べてくれる人がいるということ
そのほかの
もっともっと
いろいろなことに感謝
毎日が奇跡
すべての現象が奇跡
版画がどうやって作られるのか
そういうことがわかれば
また違った楽しみ方で版画を観られるようになるのかもしれない
知識でものを見るようになると
見えなくなる部分も出てくるので
それがいいことなのかどうかはわからないけど
でも版画は眺めるよりも
作る側の方が何億倍も楽しいのだろうな
この地域の食べ物屋さんの味付けの濃さは
ファミレスや牛丼屋などのチェン店に
勝るとも劣らない
この地域のほとんどの店が
そんな感じだから
外食が多い人は
濃い味に慣れてしまうし
濃い味が好きになってしまう
自分は子供の頃に外で
食べることが少なかったのが幸いして
栃木っ子にならずにすんだ
店の人も濃い味にしないと売れないからといって
濃い味付けにしている訳ではなく
栃木っ子として
自分の感覚で味付けをしている
それはそれで恐ろしくはあるが
味付けが濃いという自覚がないのだから
仕方がない
パン職人としては味覚を狂わすわけには行かないので
いまでもほとんど外で食べることはしていない
年齢よりも若く見えてしまう要因のベスト3を
自分が感じているままに挙げると
食べているもの
生き方
遺伝
子供の頃に外で食べることが
少なかったことは
パン職人として生きる上では
幸いだった
この町で再び暮らすようになって気づいたことは
ここで暮らす人々はの多くが
年齢より歳をとって見えるということ
そしてもうひとつ気づいたことは
この店によく来てくれる人たちは
みんな年齢よりも若く見えるということ
やはり食べ物は
老化を進める大きな要因なのだろう
何を食べているか
ライ麦パンも老化を遅らせる要因のひとつにはなっているだろうけども
ここのパンを食べてくれるような人は
食生活がしっかりしている人が多いのだろう
きょうは
ほうれん草に酢と醤油と頂いたゆずをかけて食べた
ゆずを料理にかけることは
いままでほとんどやったことがなかったが
うまいね
このところ野菜とライ麦パンで
心身ともに絶好調
冬こそ
ライ麦パンなのだ
特に女性の方!
美しくありたいなら
この時期こそ
ライ麦パンですぞ
お客さんに鹿児島のお茶を頂いた
前にも同じお客さんに鹿児島のお茶を頂いたことがあるのだが
衝撃だった
お茶ってこんなに美味しくものなんだと教えてもらった
物事は実際に体験してみなければ
見えてこないし
何もつかめない
学校などでどれだけ知識を詰め込もうとも
なにひとつ
見えるものはないんだ
宮大工 西岡常一棟梁の言葉
「合理的なことを考えずに、時間がかかってもええから
本当の仕事をしてもらいたい
誤魔化しでなくて
ほんまの仕事をやってもらいたい」
パンを食べた子供たちの
味覚を狂わしたくない
まだまだ自分の力不足はあるけど
そこだけはぶれずにやっていきたい
いまの世の中、子供の味覚を狂わせないでいることは
大変困難な時代だ
飲食店や飲食産業は
売ることだけを考えてか
あるいは
作る側が味覚が育っていないためか
それとも
利潤だけを考えているのか
本物を追究することなく
甘みや濃い味で誤魔化したり
添加物投入で素材を活かすことなく
ハンバーグもどきや肉もどきのものなんかで溢れている
いまは「子供だまし」どころか
「大人だまし」という言葉が生まれてもいいほど
大人が育っていない
日本食が文化遺産とかになったけれども
いま出汁をしっかりととって料理をしている人が
どれくらいいるだろう
出汁の素やめん汁は便利だし安価だが
子供たちの味覚を育ててくれることは絶対に確実にない
自分のパンも安価だが、山崎パンよりも安いかもしれない
(膨らむパンじゃないからそう思わないかもしれないが
どんなにパンが売れようとも
店主は超貧乏だ)
でも、手間だけは日本のどんな
パン屋よりもかけて作っている
まだまだ力不足ではあるけれど
これからも誤魔化しのない
本物を追究していきたい
このところの休みの日は
出かけることなく
体力の強化
若い頃のような成果は出ないが
それでも
負荷を増やせば
身体は動くようになる
自分は身体を動かしているときが
やはり
いちばん幸福感に浸れる
月曜日、火曜日の無人販売
いっぱいお客さんが来てくれたようだ
いっぱい残っちゃうだろうなと思っていただけにうれしかった
日曜日は焼かなくても大丈夫かなあと
土曜日の夜まで考えていたのだが
パンを作りたいという気持ちが抑えられなくなって
急遽酵母をいじり始めた
木曜日、金曜日と悪くないパンが出来ていて
調子が上がってきただけに作っておきたかったのだ
今年はもともと少なかった大田原市のお客さんが更に減った
冬の寒くてすぐに暗くなる時期は
遠くからのお客さんも見込めないので
ここは我慢の時機
この辺りもパン屋が増えたので
いまは力をつけておく時だ
日曜日も悪くないパンが出来た
残ったパンも多かったが
残ったパンがあったからこそ
ここから物語が始まる
月曜火曜日も素敵な出会いがいっぱいあった
12月に入ってから
平日のお客さんがめっきり減ったが
パンは出来る限り作っている
パンを作る度に何かしらの学びがあり
日々、欠片を見つけながら
階段を上っている
パンを作れていることに感謝
恵まれ過ぎている人生に感謝
自分の作るパンは
自分でも面白いと思う
この店にパンを買いに来てくれる人たちは
この面白さを感じてくれているのだと思う
シンプルな材料で作るパンだからこそ
見えてくる発酵という働きの面白さ
バターの香りも
砂糖の甘さもないパンだけれども
そこには
深い
深い
味わいがある
調子が上がってきたので
きょうもパンを作りたかったのだが
売れ残ったパンが
作業場にもいっぱい
パンを作る場所がないので
朝からランニング
きょうは最高に気持ちがよかった
走っていてうれしくなってくる
走るほどに
身体からエネルギーが湧き起こってくる
こうして走れることに感謝
産まれて来られたことに感謝
生きていることに感謝
野菜がうまい
身体が野菜を求めている
ネギと春菊の炒め物にこころが弾む
オーブンに放り込んでおいた秋茄子を
裂いて塩をパラパラと散らしほうばると
旨み汁がジュワジュワーと垂れ出してくる
止められない止まらない
塩を振って焼いたしいたけのプルプル感と旨み
大自然の恵みに感謝
春菊の炒め物も味付けは塩と七味唐辛子だけだし
野菜は偉大だ
午前中にランニングやらサンドバックやら
トレーニングを終えて
昼飯は薄くスライスしたライ麦80%のパンを
フライパンに敷き詰めて
その上に鯖缶をドバッと落としてから
千きりの白菜もドバッと落として
更に大豆の水煮もドバッと落として
蓋をして中火で数分
味付けなし
こんなんでも美味しく食べられるライ麦パンの偉大さ
わかってない人はもったいないと思う
うまいライ麦料理があればビールがうまい
食後、本を2ページ読んだところで
身体の疲れと頭の疲れで
眠くなってきたので昼寝
読書は予想以上に脳みそを使っているようだ
目覚めたら絶好調
目も頭もバッチリ冴えて
身体も疲れがまったくない
超さわやか気分だったので
もう一度ランニングに出かけた
きのう、きょうと珍しく足が軽かったので
ダッシュを繰り返す
心臓は破裂しそうだし
手足がもぎれてバラバラになりそうだが
もう限界と思ったところで
もうひと踏ん張りして数メートルでも先に進んでみる
生きている中で自分がいちばん喜びを感じる瞬間だ
怖くても怖くても踏み込んでみる
自分を全て出し切れば出し切るほど
死に近づけば近づくほど
人間の喜びは大きくなる
この国に暮らすほとんどの人が
自分は死なないと思っている
いつかは死んでしまうだろうが
いまは死なないと思っている
それは死から最も離れたところで毎日を生きているから・・・
死が見えない
いまは命を懸けなくても生きられる
死を感じる瞬間に出くわす機会がないのだ
そこがいまの僕たちのが抱えている虚しさの根源なのではないだろうか
動物を捕って暮らしていた時代は
毎日が命懸けだっただろう
動物が捕らなければ生きてはいけない
医療がまだまだ未発達だった時代
怪我や病気で命を落としてしまうことも多かっただろう
動物を捕るにしたって銃なんてものはない時代だから命懸けだ
誰の中にも死がすぐそばにあった
自分の全てを出し切らなければ生きていけなかった
彼らには
いまという時しかなかった
いまを思いきり生きたし
いまをおもいきり楽しんだ
上手いだとか下手だとか関係なく
誰もが歌い
誰もが踊った
そこには大きな喜びがあったはず
現代では自分のエネルギーを使わなくとも
代わりのエネルギーが何もかもやってくれる
動物は誰かが用意してくれ
調理だって誰かがやってくれる
寝転がってテレビでも観ながら
チンとなるのを待っていればいい
電気やガソリンが自分たちをどこかに運んでくれる
自分がいったい何をやっているのか
何を作っているのかわからないくらいに
分業化が進み
ただ何かの一部となって生きている
自分が自分の力を発揮しなくても
誰かが
あるいは
何かが
代わりに
やってくれる時代だ
命燃やさなくても
生きていける
そんな時代だ
材料の注文を出すのを忘れていた
届くまで材料がもつかな
こういうことは
しょっちゅうあることなので
自分にとっては珍しいことではない
でも子供の頃はもっとすごかった
学校では毎日何かしら忘れ物をしていたし
宿題もほとんどやった例がない
子供の頃はいまの瞬間しかなかった
いまという時といまやっていることが全て
自分の中に過去も未来も存在していなかった
宿題なんて出された瞬間から過去のも
次の日にみんなが提出するまで
宿題が出されていたことなんて忘れている
笛やら教科書やら学校に持っていくものがあっても
使うのは先のこと
自分の頭の中には存在していない
その頃の方が生きることを楽しめていたのかな
はじめて、この店に来た人達に
ライ麦95%のパンは
スープや炒め物、カレー、煮物、酢の物なんかに
ちぎり入れて食べてくださいと説明すると
こんな返答がよくある
「じゃあ、これはもうほとんどパンではないですね」と
パンに対してもっているイメージは人それぞれ
自分はこのパンこそが
パンだろうと思っている
なまけもののパン屋のパンばかり食べていれば
その人の精神はなまけもののパンになってしまう
家庭の味もやはり
食べる人の精神をつくっていく
ファミレスの料理やコンビニの弁当ばかり食べていると
その人の精神もファミレスの料理やコンビニの弁当になってしまう
町から顔が消えていく
町はチェーン展開している店で溢れ
生えている木々よりも多くあるソーラーパネル
美しい山々や夕焼け空を隠してしまう背の高い建築物
顔のない町
何でもかんでも那須与一を持ち出せばいいっていうものじゃない
役所や市議会では那須与一でいいんじゃねって感じなのだろうが
そんな大昔のひとはもういいんじゃね
那須与一をいくら出したところで
町の顔にはなり得ないのだ
町の顔というものは
その町の持つ美しさであり
そこに暮らす人々の精神だ
市役所だからといって立派な建物をつくる必要はない
権威の証のような建物
そんなものは町の顔にはなり得ない
廃校にしてしまったまだまだ使える建物があるのだから
そこを市役所として使えばいいんじゃねって感じにはならなかったのか
そういう精神こそが町の顔となるんじゃね
気温が低くなってくると
休みの日の
酵母の扱いが難しくなってくる
特に小麦酵母の管理が難しく
11月に入って3週続けて
酵母を弱めてしまったので
水曜日はいつも
酵母や生地を修正しながらの作業となるため
焼き上がりがオープン時間の60分後、90分後と
なってしまっていた
きょうは、しっかりと良い生地に仕上がってくれた
どうしてやれば良いのかがわかってきた
引き出しが増えてくれると
やはり、うれしい
その分良いパンが出来る確率が増えてくるからだ
出せるものなら
毎日うまいパンを店に並べたいもん
人間は慣れてしまう生き物だ
身体を動かすことをしていれば
それが習慣になってしまうし
身体を動かさなければ
それが習慣になってしまう
濃い味のものばかり食べていれば
それに慣れてしまうし
薄味のものばかり食べていれば
それに慣れてしまう
だから
何かが変わるだけで
180度違う人生を送り得ることだって
ある訳だ
時に、こころは脆くもあり
強くもある
でも
どんなことが起ころうが
それでも生きて生けるのだから
人間のこころは
基本、強く出来ているのかな
自分が生まれ育った大田原市で
いま大人も子供も大好きな味
これはずば抜けてNo.1だろう
何だかわかるかな
それは
これだ!
添加物!
慣れてしまえば是ほどうまいものはないのかもしれないね
コンビニやチェーン展開している飲食店は連日大賑わいだし
スーパーでは加工食品がバンバン売れている
どんなに素晴らしい飲食店が出来ても
この町では見向きもされないだろう
チェーン店じゃなくても
味付けが濃い飲食店ばかりだ
味覚や食が育つ環境にないんだよね
添加物は除いたとして
好きな食べ物ベスト5を調べてみても
おそらく、大人も子供も
ほぼ同じものが入ってくるだろう
いまの大田原は多くのことにおいて
人間が育ちにくい環境にある
人間が育ってこそ
町は魅力的なものになっていくのではないだろうか
小麦酵母のパンがめちゃくちゃうまい
恐ろしいうまさ
きのう、きょうと
もしかしたら
これまでで一番のパンだったかもしれない
最高の状態の生地がどんなものなのかが
わかったのは大収穫
最高の状態の生地の発酵の見極めも方もつかむことができた
今年はすごかった
4段階5段階と
一気に駆け上がってしまった
これまでに
うまくいかないときに見つけ
拾い集めてきたパズルの欠片が
繋がり始めて
形が見えてきた
だいたいの形が見えてきたなら
足りない部分を想像するのは
易しくなる
いままでも目の前に存在していたのに
見えていなかったもの
それが
なんでもなく簡単に見えてしまう
いまの自分はそんな状態
午後三時満月
今回もお客さんがいっぱい来てくれた
きょうは大田原マラソンの日
県外からもたくさんの人がやってくる
毎回レース後にパンを買いに来てくれる方たちが5人いて
今年もその5人の人たちは来てくれた
これはね
うれしいよ
みんな30歳40歳越えている人達だが
それぞれの場所で
がんばって
そして、楽しんで生きているようだ
オープン当初から来てくれていて
自分のパンをいちばん食べてくれている
Kさんが長い病院暮らしから
自宅へ戻られたとのこと
病院でもトースターを持ち込んで
パンを食べていてたそうで
「このパンのおかげで生き延びられた」とのお言葉も頂いた
こういう人に支えられながら自分は生きている
年齢は80歳前後
これからもバリバリパンを食べ続けてください
今週も自転車で茨城県大子町へ
今回は大子町の3つの巨木を巡った
だいご小学校の欅
月居観音堂の銀杏
もみじ谷のモミジ
三つの木とも圧倒的な存在感
大子町には他にも大きい木はいくつかあるが
この三つの木の存在感には敵わない
山の中はもみじの紅葉がだいぶ進んでいた
月居山付近は圧巻
空が赤い色で埋め尽くされている少し山の中を走ってから
もみじ谷の大もみじに腰掛けてサンドウィッチの朝飯
自然木のブランコに寝転び風景を楽しんでから
もうひとっ走り
かなりきつかったが
身体がいくらか再稼動してくれた感じ
身体がだいぶ軽くなった
そろそろ寒くなってくるだろうし
風も吹き始まった
大子行きはあと一回くらいで終わりかな
いままでレーズンやひまわりの入ったパンばかり買っていたお客さんが
プレーンなパン
ライ麦95%と空洞パンに切り替わってくれた
具入りのパンしか買っていかない人は
まだこの店のパンの本当の良さをわかっていない
料理と合わせたときのこの店のパンの凄さ
「スープに入れて食べたら、ものすごくおいしかった。はまっちゃいました」
いままで料理といっしょに食べていなかったのだと思う
3ヶ月くらい来るのが途切れていたので
やはりダメだったかなと思っていたので
とてもうれしい出来事
この土地で人々の食を一気に変化させることは無理だけど
続けていれば何人かの意識や基準は変えられると思う
いまも、チューインガムをクチャクチャさせた5,6歳くらいの娘を連れた女性が
やって来たが、パンを買わずに「また、来ます」と言って帰っていった
初めてきた人だが、そういう人に食べてもらおうと思えば絶望しかない
もし、また来たら逆立ちして大田原一周をやってやるぜ
無理な人には無理だということ
そういうことを割り切ってやらないと
こころがもたないということが最近になってわかってきた
この町でこういうパン屋をやろうと思えば
気持ちゆったりと構えてやらないと
顔が変わってきてしまうからね
うまい料理を追究していけば
素材の味を引き出すために
塩や醤油の量を減らしたりと
余計なものを取り除いていくということが
起こってくるのではないだろうか
逆に下手な料理人や味覚が出来ていない料理人は
余計な調味料やスパイスを加えていってしまう
(素材は台無しになってしまうのだが
そういう料理の方が地域によっては
お客さんがいっぱいやってきてしまうのだから
恐ろしい)
パン作りも料理といっしょで
うまいパンを追究していけば
余計なものは取り除いていくことになる
でもそういうパンが人気がないのは
料理といっしょ
外に出ると
突然目の中で星が瞬いた
見上げると素晴らしく美しい星空
久しぶりに夜空を眺めた
見上げれば、毎日そこに美しい夜空があるのに
そこに美しい夕焼けがあるのに
そのことを忘れて生きている自分
那珂川温泉旅館に行ってきた
お客さんに薦められていたのだが
なかなか行けなかった
ちょっと興味があるなあという気持ちから
ものすごくいってみたいなあという気持ちに変わってきたので
行ってきた
どの辺にあるのかつかめていなかったのだが
思っていたより近くにあった
馬頭町に行くときに必ず通る道
必ず止まる信号の真正面に
大きな看板があった
大きな目が二つも付いているのに
まったく見えていなかった
ひとはそんなにいろんなものを見ていない
見ているようで見ていない
見ているつもりで見ていない
素晴らしい温泉だった
朝から自転車
大子町に向かう
11月なのにこのところ暖かい日が続いている
大子の山でも黄葉が始まっている
もみじは少し遅いようで
一週間か二週間先だろうか
いつものように観音堂で鐘を突いてから
月居山から第一展望台、第二展望台を抜け
もみじ谷の主(大もみじ)のところへ
ここは麓の村に抜けるルートになっているのだが
滑って歩きづらいので
おそらく、このルートを歩く人は皆無だろう
通る人がいたとしても主は大きいわりに
なぜか目立たないので
現在この木の存在を知っている人は
地元の人でもほとんどいないのではないだろうか
山を降りると町は人で溢れていた
大子の町が一年でいちばん賑わう時期
ちょっと奥に入れば
もっと素晴らしい景色に出会うことができるのだが
みんな行くところはいっしょだ
いまこの町に必要なのは
地元のお客さんで賑わうような飲食店ではない
甘ったるいだけのソースがたっぷりかかった料理や
しょっぱ過ぎるスープの料理や
ただ強烈に甘いだけのデザートなんかじゃなくて
町の人達の意識を変えたり
基準をぶっ壊してくれるような食べ物や飲み物
うまい味噌汁
塩焼きの魚
当たり前なことをして作った料理でいいんだ
食材の味を出来る限り引き出した料理
いまは全部自分の代わりにやってくれる
スイッチ押せば誰かがバット振って
ボール投げてグラウンドを走り回ってくれるし
クリックすれば想像したり考えたりすることなく
答えにたどり着いてします
キーをまわして足を踏み込めば
猛スピードでどこかに行けてしまうし
チンとなれば調理をしなくても
食事が取れてしまう
評価、評価
人の評価で買うもの決めたり、行く場所決めたり
人の評価を気にして
気に入られるもの作ったり
やりたいことやらなかったり
人の評価で自分にとっての良い絵が決まめてしまったりと
人の評価を基準にして生きている
もう自分が自分でなくなっている
もしかしたら人間でもなくなっているのかもしれない
味覚さえ、しっかり整えておいてやれば
チェーン店の弁当や料理を食べても
おいしくないのがわかるから
子供がひとり暮らしを始めることになっても
食が乱れることは少なくなるだろう
子供は味覚さえ、しっかり整えておいてやりさえすれば
後は勝手に育っていく
朝、昼、晩と毎日3回とる食事
味覚を整えておくことは
生きていく中でいちばん基本的なことであり
いちばん必要なこと
味覚は全てのことに繋がっていて
味覚さえ整っていれば
身体も心もスムーズに機能する
味覚が整っていれば
食べているものの深いところまで
感じることができる
このベースがあるなら
物事の深いところも感じられるようになってくる
うわべだけの世界に惑わされることなく
良い人生を送れるだろう
物事の深みも感じることができるだろう簡単で便利なことは
いいこともあるし
悪いこともある
簡単で便利なことを選択したことで
必ず
何かは失われる
人間の持っている能力であったり
人間としての喜びであったり
それは人間にとって
とても大きなもののことが多いので
新しいものが出てきたからとか
みんながやっているからと
容易に飛びついていたら
自分が自分でなくなっていくかもしれないし
もしかしたら人間でもなくなっていくのかもしれない
必要のないダム作ってしまったことで起こった
川の氾濫は人間の生活を脅かす
機械が人間の変わりに全てをやってしまうことで
やってくる虚しさ
携帯電話、カーナビ、インターネット、だしの素、電気,.、,、貨幣、稲作
新しいものの出現によって
必ず何かは失われる
みんなと同じだと安心する
子供の味覚が狂っているのも
周りのみんなも同じだから
安心なのかな
濃い味付けで栄養価も少ない
チェーン店の食べ物も
みんなが食べてるから安心なのかな
食べ物だけ気をつけていても
睡眠をしっかりとっていなかったり
身体を動かすことをしなければ
病気になる
今年はそのことを理解することができた一年だった
表面だけ綺麗に着飾ったものに騙されることなく
真の美しさというものをわかるようになれる生き方
美しいものを知らなければ美しいものがわからないし
自分自身が美しい生き方をしていなければ
美しいものを美しいとは感じられない
いまのこの世界は
目先の利益で動いている
自分の中にしっかりとした芯がなければ
その流れに流されてしまう
表面だけの浅い世界
モノを見る力がなければ
その表面だけの浅さに騙されてしまう
文明経済社会の思うつぼ
ここに来てライ麦パンの良さをわかってくれる人が増えてきた
それでも
ダメな人は絶対ダメだ
濃い味のラーメンや大手チェーン店の牛丼やハンバーガーを
好んで食べている人たちには食べてもらえない
そういう味にはどんなにがんばっても勝てない
そういうものを好んで食べていた人が
ライ麦パンは身体に良さそうだからと言って
たまに買いに来るが
ほとんど一回で終わりか
がんばっても数回で終わりだ
日々の食習慣を変えるのは
とても難しいことのようだ
子供の頃の食事の大切さ
そのことを感じている親は
この町では多くない
自分は子供の味覚がおかしくならないようなパンを作る
いつまで続けられるかわからないけど
自分は種を蒔く
何千個蒔いた種のいくつかは芽を出してくれる
大切なことは継続することだ
食べやすいパン屋が見つかれば
そっちに行ってしまう
そういうお客さんも少なくない
ガクッとは来るしさびしいくなるが
それでも自分は種を蒔く
辛抱強くやっていれば
こういうパンを求めている人たちが集まってくる
小麦のパンを食べると
具合が悪くなる人
油脂や砂糖が邪魔くさく感じる人
食に対する意識の薄い人、味覚が狂ってしまっているひと
本当はそういう人たちにライ麦パンを食べてもらいたいと思うのだが
18年パン屋をやって来て
それは無理なことだとわかってきた
だから自分は買い来てくれた人の子供たちに向かって
種を蒔く
本日も快晴
まもなくやってくる冬の日を思えば
これだけ気持ちのいい日に
出かけないなんて選択はありえない
昨日たどり着けなかった県民休養公園へと
再チャレンジ
思っていたよりも近くだった
帰ってきて
押しライ麦のパンと丸パンを食べる
作り手として
うれしいうまさ
どちらのパンも出来が良ければ
二日経ってもおいしく食べられることがわかったのは
収穫だ
先週、烏山市へ行く途中に見かけた『県民休養公園』の看板
気になっていたので、きょうはそこでランニングをすることにして
自転車で出発
先週通った道を行けば着くだろうと考えていたのだが
気がつくと全く記憶にない道
でも、そのおかげで花の寺と掲げている東輪寺というお寺に出会うことができた
咲いている花は少なかったが夏にはたくさんの種類の蓮の花が開くそうだ
結局、県民休養公園は見つからず、先週に続き烏山市街地まで来てしまった
そしてここで、またおかげさま第二段
烏須山城跡の看板を発見
まさか、こんなところにあったとはと驚いた
そしてそこがなかなかのランニングコース
初っ端の階段は何段あったのだろうか
体力低下を痛感
足も上がらないが
息が持たない
キツイコースだったが土の上を楽しく走れた
方向音痴と記憶力の無さは
生きていくうえで
そんなに悪いものではない
昔、忘れ物ばかりしていて
学校でよく叩かれたり、罰を与えられたが
忘れ物をするのは気が緩んでるとか
そういうことじゃなくて
そういう脳なのだから
仕方がないことで
そういうことは教師をするなら
理解しておいてほしいと思う
このところ、隙あらば布団に潜り込んでいる
一ヶ月前に風邪をひいて
寝込んだ
そのとき身体が眠ることの心地よさを
知ってしまったのだろう
風邪を引く前までは
連日のようにパンをこねながら眠りに落ちていた
あっちで転がり
こっちで頭をぶつけ
フラフラとパンを作っていた
風邪をひいたのも寝不足が大きな要因だったのだろう
いまはとても調子がいい
頭がすっきりした状態なんて
すっかり忘れていた
きょうは出だしに
なんだなんだというくらい
お客さんがやってきた
もしかしたらと思って
外に出てみたら
やはり満月だった
何故だか満月の日には
お客さんがやってくることが多い
身体と月の影響
よくわからないけれども
何かあるのだろう
満月にひとが
ライ麦パンを求める理由も
何かあるのかな
土曜、日曜と空洞パンの出来が素晴らしかった
きょうのお昼は
その空洞パンもサンドウィッチ
青唐辛子とレンコンを炒めてから
卵と酢を落として目玉焼きを作り
火を止め
会津トマトとチェダーチーズを投入し
絡めたもの(味付けは塩)を挟んだら
うますぎて
二枚をぺろり
酒も飲みすぎた
今朝は自転車に乗り
烏山市へ
時間があるので
最短距離ではなく
気持ちの良さそうなコースを選びながら
ただ外に立っているだけで
幸せを感じてしまうくらい気持ち良いのだが
自転車はもっと気持ちよかった
秋の光、秋の空気、秋の色
朝の光、朝の空気、朝の色
早い時間に出かけてきてよかった
烏山の清水川公園でランニング(アップダウンがあって良い場所だった)を
してから山あげ会館へ行き有坂カラスコレクションを鑑賞
三期連続で来てしまった
よくこんなにカラスのものばかり集めたものだ
人生は世のため人のためなんて考えて生きるよりも
こんなバカバカしいことをやって生きる方が断然楽しいのだと思う
島崎酒造で東力士と酒粕を買い込んで帰館
うまい
うまい
トマトをいただいた
トマト農家になって2年目
冬はレストラン
夏から秋はトマト農家
南会津の山奥で暮らす夫婦と子供たちからの贈り物
甘みと酸味のバランスが素晴らしい
近年こういうトマトに出会う機会は滅多にない
甘いだけのトマト
のっぺらぼうのトマト
最近トマトの購入量が少なくなっていたのは
そのせいだったのだろう
うまいのでバクバク食べてしまったが
このトマトならなまけもののパン屋のライ麦パンにも
絶対合うはず
残りはサンドウィッチにして食べてみよう
ここ数ヶ月、恐ろしいほどにうまいパンを連発している
微生物の力恐るべし
ずっと種を蒔いてきた
自分の力不足で発芽させられた種は少なかったが
ポツリポツリと種は発芽し芽を出してくれた
ここ数ヶ月は発芽しやすい種をいっぱい蒔くことができた
これまでに無い位たくさん芽を出してくれるはずだ
それでも、土壌が悪ければ
どんなに良い種をまいても
芽を出してくれないこともわかった
糖尿だとかどこかの病気だという人が
ライ麦パンは身体に良いというTVで言っていたといって
ライ麦パンを買いに来ても
ほとんど、その一度きりで終わりだ
土台が出来ていないのだから
仕方がない
子供の頃からの食生活
それは親の意識の低さはもちろんだが
それだけじゃない
一族の間で代々受け継いできた食
味覚のおかしくなっている人には
その自覚が無いことが多い
だから、意識が低いとか
そういうレベルのことでもなかったりもする
高校や大学に行くためだけの
勉強なんてもったいない
人生はそれ程長くない
若いときにしかできないことって
あると思う
そういうふうに思う人って
あまりいないのか
そういうことを経験してきた人たちは
これは無駄なことだと思わないのか
毎年繰り返され終わることのない
受験勉強
何かを変えるなら
ここからじゃないのだろうか
昼時、自転車で少し遠出したときに
水分補給でコンビニに寄ったら
カップラーメンを購入しているひとの多さに驚いた
車で移動している人が立ち寄るような立地で
コンビニでお湯を注いで車の中で食べている
安く済ませようという考えなのだろうが
こういう味が濃くて、添加物だらけの食品は
中毒性があるので
おそらく、週に何度かはカップラーメンだけの昼食で
済ませているのではないだろうか
空腹を満たすだけで、栄養なんてほとんど取れないカップラーメン
病気にだってなるだろう
カップラーメン人間に陥ってしまうかどうかは
子供の頃に何を食べてきたのかが大きく影響しているだろう
子供が喜ぶから、よく食べてくれるからといって
味付けの濃いものや甘いものばかりを与えていれば
大人になってからも
ギトギト濃い濃いラーメンや甘ったるい牛丼や形容しがたいハンバーガーだけで
満足してしまう人間になってしまうからね
夜の静かな公園で
ピカピカLEDが虚しく瞬いている
正直言って邪魔くさい
何で市はこんなことしちゃうんだろうと考えながら
通り過ぎる
本当はここで走りたかったのだが
月が照らし出す美しい世界
上へと目を向ければ数えきれないくらいに瞬く星々
そこにドーンと素晴らしいものがあるのに
何故LEDが必要なのか
このピカピカにいまの大田原市が集積されている
文明経済によって感覚が侵されてしまっている
この町で生まれ育った自分が
自信を持って断言できることは
田園風景、夜空、遠くに見える山並み、その山に沈んでいく夕日
この町で素晴らしいものといえば
それ以外にはない
だから、それだけは大切に守った方がいいと思う
4週続けて栃木を脱出
自転車で茨城県大子町へ
大子町の街中に入ったところで
クラクションを鳴らして
自分に手を振るトラックの運転手と遭遇
顔が良く見えなかったのだが
誰だっただろう
誰かと間違えられたのかな
二時間ばかり山を歩いてから
だいご小学校の巨大欅と再会して
帰ってきた
山の紅葉はあと2週間ちょっとだろうか
京都なんかに行くよりは
この山の紅葉を観た方が
絶対感動できるから
近くの人は行ってみてね
旅は迷子になってこそ面白くなる
思ってもいなかったこととの出会いが
旅を豊かなものにしてくれる
本日、木曜日から営業再開しました
水曜日の夜に旅から帰ってきて
同時に冷蔵庫で保存していた酵母も
活性化開始
次の日の夜には力を取り戻していた
これまで酵母を短い時間で回復させられるか不安で
泊まりの旅にはなかなか出られなかったのだが
休みの間の酵母の扱い方がわかったので
これからは気分転換の時間が取れそうだ
肩の力を抜いて生きられそう
京都に行きたくなってしまったので
仕方なく、店を休みにして京都に行ってきた
縁あって自分のところに廻ってきた一枚の絵
その絵を描いた狩野永敬というひとの襖絵を見ておきたかった
残された時間
やりたいことは『いま』
やっていかないと
一日目は
三年坂美術館で明治時代に作られた印籠
智積院で等伯の襖絵
養源院で俵屋宗達の板絵と襖絵
聖護院で永敬の襖絵
5年前に京都に来たときは
こういうものに全然興味がなかったのに
面白いものだ
いつものように昼飯は食べそびれた
夕食は宿の周辺に惹かれる店がなく
どうしようかと思っていたところに
スパイスの香りが漂ってきた
インド料理の店
なかなかいい味
二日目は
ランニングで京都を回った
朝6時宿を出て
まずは鴨川を走る
ここはやはり良いね
みんなに愛されている川は活き活きとしている
高野川にそれて岩倉方面へ
そこから鞍馬寺まで駆け登る
岩倉の実相院で永敬の襖絵と対面
京都府の植物園を少し歩いて
上賀茂神社と下鴨神社を巡る
さば寿司を買ったので
ランニングは終了
梨木神社で水を汲んだり
酒の肴を買い込みながら
四条大宮の宿までブラブラ歩く
京都満喫
旅行者は見ることがないであろう京都の景色にもいっぱい出会った
もう思い残すことはない
京都よ、ありがとう
昼飯抜きだったので
6時頃からビールと日本酒で
夕飯
いつの間にか眠っていた
3日目は三重県津市に移動
県立美術館で曾我蕭白の襖絵や屏風を観て
今回の旅は終了
しばらくは日常に集中できそうだ
自分の中に全ては揃っている
きょうはパンが残っていて
パンを作ることができないので
仕方なく、自転車を乗りに行った
白河方面
稲穂とススキと乾いた空気
目から鼻から皮膚からと
秋が入り込んでくる
気持ちが良すぎる
10月はからだを動かすのに
いちばん良い季節
南湖でランニングをして帰ってきた
来週の仕方なくは
どうしようかな
又自転車に乗ろうか
それとも山歩きに行こうか
木曜日 良いパンが焼けたがお客さん少な目
木曜日は週の中でいちばんお客さんが少ない日
残ったパンは明日販売
このパンからドラマは始まる
金曜日 埼玉、茨城 東京の三県からお客さん
きのう焼いたパンはあらかた売れる
県外からのお客さんがないと
やはり、まだ厳しいか
土曜日 体調の悪さはピーク、なんとかパンを焼き上げたが
もう力が残っていない
明日は台風接近だし、作るのは止めて身体を休めよう
雨降りで、土曜日の割りにお客さん少なし
お盆明けから雨が降らなかった日は3日くらいじゃないだろうか
日曜日 台風接近中なのに思いの外お客さんが来てくれた
パンもほぼ売れてくれた
きょうのお客さんはすべて栃木の人だと思う
最近、ライ麦量の多いパンが売れている
95%と空洞パンはこれまでにないくらいの売れ行き
ライ麦量の少ないパンの方が人気がない
胡桃などが入っているパンよりも
プレーンなパンの方が売れるようになってきたかも
自分には良いパンを作っていくことしかできない
そこにお客さんが付いて来てくれるかどうか
今週は少しだけ手応えを感じられた一週間
パンは悪くない
これ以上、レベルUPさせていけるかは未知の世界でわからないが
いまのパンならお客さんが付いてくれてもおかしくない
70年 80年 時間はかかるかもしれないが
ライ麦パンを売るのには日本で最も難関なこの土地で
ライ麦パンが売れるようになる日が来るかもしれない
火曜日、水曜日は体調が悪く
外に出かけられなかった
軽く身体を動かし
映画と読書と昼寝
このところ休みの日でも
あまり睡眠時間が取れていなかったので
疲れが溜まっていたようだ
休み明けのパン作り
身体はまだきついが
パンは最高の出来
涼しくなってきて
小麦酵母の膨らみ具合が
明らかに変わってきた
数日前までは自分が手を貸してやらなければ
力足らずだったのだが
いまでは勝手に力強く駆け回っている
ライ麦95%きのうも12枚売れた
きょうは2枚だけだけど
空洞パンもこのところ良いものができているので
もう少し売れてもいいように思うのだが
もう一線が越えられない
ライ麦30の丸パンと
レーズンの平焼きもこれまでにない美味しさになってきた
ライ麦15%、小麦のパン、押しライ麦もレベルアップ、
ライ麦60% 80%もかなりうまいぞ
なんだ全部のパンがうまくなっているじゃないか
少し休みたいが
元気すぎる酵母を見てしまうと
パンを作りたくなってしまう
うまいパンが出来るだろうという期待もあるのだが
酵母がいつまた調子を崩すかという怖さも常に抱えているので
酵母の調子がいいときには作っときたいんだ
きのう焼いた小麦のパンを試食
旨味がぎっしり詰まっていた
奇跡のパン
涼しくなってきて
小麦酵母の調子が更に上がってきた
このところ
うまいパンが焼けている
食べてもらいたいな
3連休
土曜日、日曜日とお客さんが来てくれたが
月曜日は夕方になって客足がバタッと止まって
沈没
又結構な数のパンが残ったぜ
いつものように20分ちょっと落ち込んで
立ち上がるも
さすがに最近こころの使いすぎで
こころの耐久性が落ちてきたきたのか
疲れてきた
明日から京都へと出かけようかとも考えていたのだが
これだけパンが残っていると
出かけられない
寝る前に
外に出て空を見上げる
もうすぐ満月か
眩しき月の存在感
流れ行く雲
きらめく星座
ああ、戻ってゆく
戻ってゆく
宇宙のリズム
宇宙の息吹
ぼくが宇宙で
宇宙がぼくで
きょうはライ麦95%のパンが15枚くらい売れた
そろそろ爆発的大ヒット始まるかな
ライ麦パン大好きな小学生姉妹が現れた
お母さんとおばあちゃんとやって来て
ライ麦パンを大量に買っていった
ライ麦95%も4枚(自分たちで選んで)
昔からライ麦パンを食べてたのかなあと思って聞いてみたら
ライ麦パンと出会ったのは2年位前だったという
『なまけもののパン屋』というパン屋のライ麦パンだそうだ
宇都宮の近くの方に住んでいるので
なかなか買いにこれないのだが
ちょくちょく買いに来ていたとのこと
失礼しました!
自分が蒔いた種がまたひとつ芽吹いてくれた
伸びろ伸びろ伸びていけ
雲を突き抜け
どこまでも
日中は2日前に焼いたパンを販売
旅行帰りのお客さん、
別荘に来たお客さんなどがやって来て
パンをいっぱい買って行ってくれた
木曜日にパンが残ってくれていなかったら
この人たちにパンが回って行くことがなかったのだから
いい流れではあるのかもしれない
そのときがどんなに苦しくても
そのとき起こったことは
ただの幸福への序曲であるにすぎないてことだってあるんだよな
短い時間で見れば
そういうことがそれ程多く起こるていると
は感じられないかもしれないが
長い目で見てみれば
悪いことが良いことへと連れて行ってくれることは
よくあること
”あのことがあったあら”というやつだ
今夜の夕食空洞パンを使用(きょうは焼かず)
オリーブオイルで青唐辛子、セロリ、レンコン、アスパラを炒める 味付け塩のみ
別に焼いておいた鳥ササミ (オリーブオイル、塩)といっしょに
空洞パンに詰め込んで出来上がり
うまい!
蕎麦焼酎と供に
多くの人と同じ方向へ進んでくのは楽だ
だけど、いつかこころとからだが病んでくる
伸びたいように伸びて行けばいい
自分自身の命の力を使って
仮面なんてかぶらずに
自分の顔で歩くんだ
誰かにほめられるために生きているわけではないのだし
誰かの期待にこたえるために生きているわけでもないのだから
そのまんまの自分でぶつかっていけばいい
叫びたいように叫んで
踊りたいように踊る
好き放題やればいい
抵抗して抵抗して生きればいい
だって
そうじゃなくちゃ
楽しくないもん
人の目とか
世間体とか
バカくせえ
この店のある団地に家が200件以上建っているが
パンを買いに来てくれる人なんてその中の2,3人だから
そんなもんだよ
周りは自分の人生にかかわらない人ばかりなんだから
価値観とか感覚とか何やらまったく違うのだから
周りの目とか気にして自分を抑えるなんてもったいない
教育の育は
人を育てるということじゃない
人は様々な困難に立ち向かいながら
自分の力で育っていくもの
自分自身でものごとをつかみとっていくことなしには
伸びていくことはできない
文化は個性だ
合理化だといって合併、合併やっていたら
文化は消えていく
全部が同じ顔
同じ顔ということは顔がないことと同じ
損得を考えてしまったら
できないこと
それを手間隙かけてやってしまっているのが文化
そのひとにとっては自分が自分自身であることが一番大切
だから誤魔化すことなく自分の持っている力をすべて出し切ることがすべて
いい流れになってきたなと喜んでいると
二日連続でお客さんが来ず
木曜日に焼いたパンが二日で三分の二も残っている
雨とはいえ
これはひどい
売れ残るのはいつものことだが
何百回と体験しても
ガクッと来てしまう
でも、よく毎回毎回
これだけの気持ちの落ち込みから這い上がって
パンを作ってこれたな
苦しさもあるけれど
別のものもあるからだ
こころを支えてくれるもの
これまでになく良いパンが焼けている
良いパンが出来たからといって
売れてくれる土地ではないけれど
自分は自分のパンを焼くしかできないから
庭のなつめが食べごろ
なつめはある程度茶色くなってからじゃないと
食べられないかなと思っていたが
ほんのちょっと茶色かかったくらいの方が
みずみずしくてうまいことがわかった
青いものは熟成していないから
渋いもの
そんな固定観念や本に書かれていること
そんなものは頭から消し去って
世の中とぶつかっていくこと
ものごとを自分自身でつかみ取っていくこと
実感こそが命を感じられる唯一のこと
おいしいジャガイモが手に入った
大田原市の佐久山の農場で採れたものだ
素材はものすごく良いもの採れる場所なのに
何故これだけ味付けの濃い料理がこの土地を支配しているのか
このジャガイモも塩味だけ感激的なうまさなのに
余計なスパイスや過剰な調味量を入れて
素材の味を台無しにしてしまうのがこの土地だ
そうした方が良く売れてしまうのが
この土地の怖いところでもあるし
自分にとっては退屈なところ
子供は
良いものに出会えば
それが良いものだとわかる
良いものを知ってしまえば
良いものとダメなもの(品質が悪いもの)の区別が付くようになってくるが
ダメなものばかり与えられていれば
それがダメなものだとは認識出来ないまま大人になっていくことになる
そうなったら
もう文明社会の餌食だ
テレビに目をやると回転寿司の現状というタイトルで
リポーターがどこかの回転寿司店に潜入して
各テーブルを回っている
ひどかった
ケチャップが大量にかかったウインナー海苔巻き
マヨネーズたっぷりのイカ天海苔巻き
甘甘のたれがたっぷりかかったハンバーグなどなど
こんなの子供に食べさせちゃいけないだろと見ていて恐ろしくなってしまったが
子供ではなくて親が食べていた
ひぇぇ~~~
親たちは
自分自身の食が乱れているという自覚もないもんなあ
これは子供も育ちようがないよな
喜んで食べるからといって
甘甘の菓子やドリンク、濃い味の料理ばかりを与え続けていれば
どうなるか
いま、本当にひどいからね
自分はこの辺のことしかわからないけど
子供だけじゃなく
大人の味覚のおかしさ
味覚が成長していないんだよね
味覚はすべてことの基本であるし
子供の味覚に関しては親の責任だと思うし
これからの未来を生き抜いていく力が育っていくような環境を
整えてやるのが親が唯一子供に対して
出切ることなのではないかなという思いはあるのだが(親でもないのに)
親が自分の味覚のおかしさや
食の乱れを自覚していないのだから
味覚に関してはどうにもならないよね
小学校や中学校での給食を使って
子供の味覚や食に対してのもろもろのこと
何かできるのではないか
もしかしたら、救いはもうそこにしかないのではないか
個人でどうにかしようと思っても
文明の拡大(崩壊)のスピードには追いつかない)
ライ麦60%のパン(プレーン)は
薄くスライスしなくても
おいしく食べられるかもしれない
少し厚めにスライスしたライ麦60%のパンに
チーズをはさんで食べてみたら(焼かずに)
おいしかった
様々な本にライ麦パンは薄くスライスして食べよと書いてあったので
そのまま信じてしまっていたが
自分の焼くライ麦パンはそういうふうに書いてきた人たちが
食べてきたライ麦パンとは
しっとり感が違うのかもしれない
サンドウィッチの本には何でもかんでもバターを塗るように書いてあるが
自分の焼くライ麦パンはバターを塗らなくてもうまいサンドウィッチができる
それもしっとり感のおかげだと思う
自分の中にある芯を曲げてしまえば
生きていることの喜びを感じられなくなるし
生きていく力が沸き起こってこない
子供だからといって
子供だましのものを与えていたら
子供は本当に騙されちゃうんだよ
作り手の思いがこもり、しっかりしたつくりのものは
それを使うひとのこころを育ててくれる
職人さんたちの技と手間隙が集結して作られた漆塗りの椀でもいいし
丁寧に削られ拭き漆で仕上げられた箸でもいい
何かひとつでも、そういうものを子供に与えておけば
そこから何かが芽生え、勝手に子供のこころを育ててくれるだろう
自分の場合は黒檀の箸と何焼きだかはわからなかったが
どっしりとした作りの飯碗を子供の頃から使っていた
物の良さは子供にもわかるし
良いものを使うことの良さも子供は感じてしまうものだ
だから自分はいまでも漆塗りの箸を使っている
プラスチックの箸は選べない
子供の頃にしっかりとした作りの良いものとの出会いは
自分の中に大きな影響をもたらしてくれている
物の深さや浅さ、良さや悪さ
そういうものを感じることができるこころを育ててくれた
自分が目指しているパンにもこういう土台がある
黒檀の箸との出会いがなかったら
いまのようなパンとはまったく違ったパンを作っていたはずだ
きっと文明に溺れまくったパンを作っていたのじゃないだろうか
作り手の思いを感じられ、その思いに共感できたなら
その人が作ったものを大切に使うようになる
物を買う場合、もし可能であるなら
作り手のところに行って直接買うのがいいと思う
そういう場所に連れて行っていれば
子供のこころはすこしずつに育っていくだろう
文明を選ぶ人間になるか
文化を選ぶ人間になるかは
子供の頃の体験が大きく影響している気がする
マクドナルドの食べ物ばかりを食べて育った人が
食べ物屋さんをはじめようと思ったら
病気にでもならない限り
マクドナルドのような食べ物屋さんしかできないだろう
文明の食で溢れている世界、それをこぞって食べるひと、ひと、ひと
文明の食の世界は更に巨大なものとなっていくだろう
文化の食が入り込んでいく余地があるだろうか
本日の夕食用のパンはライ麦95%
青唐辛子、ごぼう、セロリを油を使って蒸炒め 味付け・塩
そこに卵いくつかを落とし、酢、ピーマン、水煮大豆、さばの水煮を
ばら撒いてから蓋をして、待つことしばらく
卵が固まってきたら、火を止め
酢をかけてオーブンで焼いておいたライ麦95%をちぎりいれる
ミョウガもあったので刻んで入れる
よくかき混ぜたら出来上がり
自分は
かなりの怖がりだしだし
気使いだし
それでいて頑固だ
だから起用には生きるということは出来ないが
それでいいと思っている
こんな人間になりたいという思いはない
いまのままの自分で
こころのままに
生きていければいいと思っている
文章を書くのは下手だ
だけど、それでいいと思っている
自分のいまの思いを
吐き出せれば
それでいい
大きい資本や組織にどんどんのみ込まれてしまった町
顔のない町
文明の町化した場所には文化がない
文化がなければ人は育たない
損得勘定で動くのが文明で
損得なしで動いちゃうのが文化だ
例えば食べ物屋さん
売ることだけしか考えないで
必要以上に甘くしたり、濃い味付けにする
これは文明だ
これだと食べた人の味覚は育たない
余計なものを入れないで素材の旨みを引き出してやる調理法
損得とは別の次元で手間隙かけてしっかりと旨みや出汁を引き出してやるのは
文化であって
これだと食べた人の味覚は育つし
こころも育つ
損得だけを考えて作られたものに囲まれていれば
人は育たない
安いからという理由だけで物事を選ぶのではなく
作り手の思いのこもった、
しっかりと手間隙かけられて作られたもの
そういうものの中にいれば
人は自然に育っていく
子供に何かひとつでもいいから
そんなものを与えてやるだけで
子供のこころは育っていくものだ
そして、そんな土台を作ってやれば
その子供たちは
文明ではなく文化を選ぶ人間になっていくだろうし
そのひとたちが
今度は文化というものを次の世代の人たちに伝えていくのだろう
福祉大二年の女子大生が
店を出て行く寸前に
意を決したように振り向いて
「この前の珈琲屋さんはまたきますか」と聞いてきた
自分から積極的に話をするようなタイプ方ではなかったので
店に来る前から
聞こう、聞こうと気合を入れていたのかもしれない
それくらい、珈琲を飲んで何か感じるものがあったのだろう
大学生が珈琲なんて関心ないだろうななんて思っていたので
ちょっと驚いてしまったが
考えてみれば
こんな一癖も二癖もある自分のパンを食べてくれるのだから
食に対する感覚がしっかりと育っているのだろう
大学生を甘く見ていた
福祉大の女学生は結構な人数、このパンを買いに来てくれるが
彼女たちと同年代の地元の女性で自分のパンを買いに来てくれる人は皆無といっていい
福祉大の女学生たちが特別なのか
それとも地元の女性たちが特別なのか
わからないけど
女学生たちは文明の中の珈琲やパンではなくて
文化を選んだということ
全国的に見てみれば
まだ可能性はあるのかもしれない
日曜日に焼いたライ麦60%のパンうま過ぎる
焼いてもうまいが
焼かなくてもうまい
このしっとり感がいい
捨ててしまうのがもったいないので
きょうはハーフサイズ4つ食べた
それでも胸が苦しくならないのは
この店のライ麦パンのすごいところ
きょうは木曜日焼き上げてから4日も経っているのに
うまさがぜんぜん逃げていない
それどころかうまさが増している気がする
すごいパンだと思っているのだが
思っているほど売れてはいない
ここ一ヶ月ライ麦酵母の調子がとても良く
元気いっぱい
それなのでライ麦95%
空洞パン共にいい味に仕上がっている
少しずつこのパンの良さを
わかってもらえるようになっているのを感じるのだが
もう一線がなかなか越えてもらえない
県外の人には人気があるので
自分の感覚がおかしいのではないと思う
偉大なパンだ
ライ麦15%のパン
ここ半年くらいでかなりいい味になってきた
自信を持って薦められるパンなのだが
何故だと考えてしまう程売れない
それでもこれからも自信を持って作っていく
今週になり
急激に気温が下がった
うまく対処できずに
小麦酵母の力弱まるも一日で回復
ライ麦酵母の方は絶好調
今年いちばんの具合のよさ
日曜日に焼いたパン
まだけっこう残っているので
バクバク食べている
どれもいい味をしている
高揚して来る
自分の場合は
おいしいパンを食べているから気分が高まってくるわけではなくて
うまいパンが出来たことに対しての気分の高まり
食べてもらえないで残ってしまったのは残念で悔しいが
がっくりしている気持ちを明るくしてくれるのは
自分のパンとパンを買いに来てくれるお客さんのこころ
きょうも店を開けてよかった
秋は本が読みたくなる
秋は音楽が聞きたくなる
秋は外を歩きたくなる
気温や湿度、空の青さ、虫の声が脳に及ぼす影響
午前中のちょっと遅めにランニング開始
この時間でも、もう熱さを感じない
秋風が心地ち良過ぎる
カラスが狩りをしているところに遭遇した
足を止めて観察
はじめて見た
道端をひょこひょこ歩くカラス姿は
手を後ろで組んで散歩をしているおじいさんのようでユーモラス
カラスが進んでいくと草むらのバッタが次々と飛び去っていく
カラスの進行方向から順々に飛び出していくので
バッタがウェーブを作っているようで
これも楽しい
その飛び出したバッタめがけてカラスがジャンプ
成功率はそれ程高くないが
捕まえるとムシャムシャ食べている
坂の天辺まで行くとバッタもいなくなってしまったので
Uターン
坂道を下ってくるがもうバッタはいない
頭の中がバッタでいっぱいで自分の姿が目に入らないのか
それとも人間なんてなんともおもちゃいないカラスなのか
ひょこひょこひょこひょこ自分の方にだんだん近づいてくる
どこまで近づいてくるんだろうと
こっちもドキドキしてくる
5mまで近づいて来たときに
車が来てしまった
残念
店を終えてのランニング
もう秋の空気の方が濃くなってきた
パン作りは季節の変わり目が難しい
18年目にしてようやく
夏を捕まえたところなのに
もう秋を追いかけなければならない
酵母のことをほんの少しはわかってきたので
今年は早めに捕まえられるのではないかと
思ってはいるのだが
パン作りはそんなに簡単なものではないかな
栃木県のパン屋の数は全国的にみても
かなり多いのだが
食事用のパンを作っているところはほとんどない
だから、ほとんどの栃木県の人にとって
パンはそれだけで食べる物であって
手間隙かけて他の食材と共に美味しく食べるという発想がない
こういう場所で食事用のパンを食べてもらおうとするなら
パン料理を提供する店を併設して
パンの食べ方を伝えていかなければ
難しいのかもしれない
いつかそんな店ができたらなあと考えていたのだが
さすがに大田原市でやろうという思いはなくなった
どこかに住んでみたいという場所が見つかったら
そこで暮らそう
江戸指物師の木村さん
自分が職人に対して持っていたイメージそのままのひと
江戸や明治時代の職人さんも
こんな感じのひとが多かったのではないだろうか
もうこんな職人さんらしい職人さんには出会うことはないだろう
80歳を何歳か過ぎているがいまも
喜びいっぱいにカンナでシュカシュカやっている
木村さんの作ったものもいつか触れてもらえる機会がくるかな
自分の中にある芯さえ折ることなく生きていれば
どんなに苦しい瞬間が訪れようとも
産まれてきて良かったという喜びが
沸き起こってきてくれるので
すぐに苦しみはどこかに飛んでいってしまう
きょうのパンはかなり良い
この一ヶ月のパンは悪くないはずだが
何だこのお客さんの少なさは
この夏は全般的にお客さんの数は多くなかったのだが
先週の日曜日から更にお客さんが減った
このパンでもダメなのかなあ?
小麦の酵母もライ麦の酵母も
ものすごく元気
自分もいろいり掴めてきて
良いパンが作れる状況にあるのだが
パンを作りたくても作れない悔しさ
力を出し切れないやるせなさ
こころはいつまでもってくれるだろうか
漆が塗り重ねられた赤や黒のお椀
ふっくらと丸みのあるボディラインは蒔絵など施されていない方が美しさが際立つ
両手で包み込んだときのしっとりと吸い付くような肌触りと安心感
妖しく光るツヤと色気
漆器の良さもいつか伝えられたら
大田原市の人がおいしいという店には行ってはいけないという格言がある
濃い味付け、癖なく、軟らかいが当たり前
こういう物事を見るときの深みの無さは食べ物だけに限らず
いたるところで感じてしまう
この町で暮らしている中で感じる退屈さはすべて
ここに繋がってきている気がする
こういう町はいずれ、大きいところにどんどん飲み込まれていって
なくなってしまうしかないのだろう
そうなるのを少しでも遅らせようとジタバタするなら
知恵や工夫、鍛錬がぎっしりと詰まっている日本文化の良さを
わかってもらえるような種を蒔き散らしておくことだという考えが
思いが浮かんだので
いまその材料を集めている
パン作りをしているので
興味があるのは職人仕事
日本には素晴らしい仕事をしている職人さんが
たくさんいる
自分が出会った、そんな職人さんの
技や思いの詰まったモノを
見て、触れて、使ってもらえるような空間を作ろうと思う
かなり久しぶりに酒を一日断った
脳に打ち勝った
違うのか?
脳のどこかの部分が脳の別のどこかの部分に打ち勝ったかな?
それとも脳の同じ部分どうしでの戦い仲間割れなのだろうか?
いまの脳の健康具合はどうなんだろう?
自分の一部なのに
人間は自分のことなんてそれ程わかっちゃいない
身体が求める食べ物と脳が求める食べ物
酒や化学調味料、度を過ぎる油や甘み・塩分・辛味なんかは
脳が求める食べ物だろう
たくさん売ろうと思うなら
こっちの方だろう
身体の求めを感じられる人間なんて
いまはもう多くないんじゃないかな
食の乱れ
それからストレス
要因はいろいろあるだろうが
いまは
多くの人が日々
脳が求めるものばかり食べている
きょうは水曜日なのに
なんと茨城県から3組のお客さんがやって来た
そしてもっと驚くことに我が大田原市のお客さんが
4組も来てくれた
そしてもうひとつ驚くことに
ライ麦95%のパンがあと二枚で完売
10枚売れた
うれしかったのでKeola.Beamerの「Only Good Times」を聴いた
不思議なこと
なまけもののパン屋から車で20分くらいのところに
喜連川という地区がある
そこに住むSさん
たまにパンを買いに来てくれるひとで
店に置いてあった椅子にこころ動かされ
同じ椅子を購入したひと
話をしていると
Sさんの口から自分の知っている店の名前が出てきた
鎌倉に行くと必ず寄る『はま善』という地魚料理の店
小さい店だし
この辺に知っている人なんていないだろうと思っていたが
Sさんも鎌倉に行くと必ず寄るとのこと
それからある日
店に入ってきたSさんが
「なんで、ここにあるの?」と何かを指を刺して驚いている
木彫の道化師だった
長野県にある山水館という宿で飾ってあったのを見たことがあるらしい
愛知県蒲郡市で工房を持っている井崎さんが作った道化師だ
井崎正治の塩津村だより
一部の人には知られてはいるが
決して全国区という訳ではないので
この出会いはすごいことだと思う
Sさんはランニングや自転車もやるので
自分とは何かがあっているのだろうね
歳をとってくると
身体が求める食べ物が変わってきた
米は量を食べると苦しくなるようになってきたし
昼は身体が求めてくることがあるが夜はまったく求めてこなくなってきた
鶏肉、豚肉はよく食べるが牛肉は何故か食べるのが苦しくなってきた
ブリはよく食べていたのだが最近油っぽく感じられるようになってきて
食べられなくなってきた
メンチカツは胃にもたれる
自分より歳をとった人でも米や牛肉や脂っぽいものを
平気でバリバリ食べているのを見かけるから
人によって体が必要としている栄養分は違うのだろう
夏、長年にわたりパン酵母を良い状態に保ってやることが出来なかったのは
頻繁に酵母をいじってやれば暑くても
なんとか良い状態に持っていけるのではないかという思い込みが
捨てられなかったことが原因
暑さに対して耐久性がない小麦酵母は
40度を超えるところに置いておけば
短時間で力を弱めてしまう
そのことに気づくまでに18年かかった
酵母を涼しい場所に置いておくことで解決
気がついてみれば
簡単なことだったのだが
そこに行き着くまでには必要な時間だったのだろう
おかげで酵母のことを少しだけわかることができたし
パンを作る上での引き出しも増えた
どんなに当たり前のことであろうとも
人間は段階をしっかり踏むことでしか
見えてはこないものなのだろう
太陽のありがたみも
飲み水のありがたみも
苦しい思いをして
はじめて感じられるもの
ここに来てパンがグングン良くなってきた
うまくいかなかったことを
いっぱい経験したからこそ見えてきたもの
拾い集めてきた欠片が
繋がり始めた
パンのことがわかってくるほどに
手間隙をかけて面倒を見てやらなければ
良いパンが出来ないということがわかってくる
パン作りの年数を重ねるほどに
手間が増えるし
パンについていてやる時間も長くなる
休みの日でも出かけられない日が多くなってきて
泊まりの旅行もここ数年行くことができないでいた
しかし、酵母と毎日向き合うことができたおかげで
酵母のことをいくらかわかることができた
力が弱まってしまった酵母を
短い時間で回復させられるようになってきたので
これからは泊まりの旅行にも出かけられると思う
自分が世界一座り心地がいいであろうと思っている椅子がある
お客さんにゆったりとした時間を楽しんでもらいたく購入した椅子だ
いま店には置いていないが、ここ最近お客さん座ってもらう機会が何度かあった
座り心地をとことん追求した椅子で
毎日座っていると姿勢もよくなる
この椅子に出会うまで座り心地のいい椅子がどんなものなのか
わかっていなかった
この椅子に出会う前に購入した椅子がいま店に置いてある
座り心地がいい椅子だなあと思って購入した椅子なのだが
この椅子に出会ってしまってからは
座り心地がよくない椅子となってしまい
いまでは寝椅子となってしまった
でも寝椅子となってしまった椅子も
自分が世界一だと思っている椅子をまだ知らないお客さんにとっては
とても座り心地がいい椅子らしく
評価するお客さんが多い
きょうも世界一の椅子に座ってもらった
お客さんへの珈琲サービスに来てくれた
昨年の焙煎技術選手権で日本王座に輝いた竹林氏が
連れて来てくれた女性二人
この椅子を作った人と竹林氏には共通するところがあって
それはお客さん第一にモノを作っていることだ
効率を考えれば座る人の身体のサイズに合わせて作るよりも
全部同じ大きさに作ってしまった方がよい訳で
だから普段自分の身体に合った椅子に座っている人というのは少数だと思う
姿勢の悪い人や腰痛持ちの人が多いのはこんなことも要因のひとつなのではないだろうか
(でもこの椅子に出会ってしまったことは幸福なのか不幸なのか外で座る椅子、
食べ物屋さんや乗り物、映画館すごい疲れを感じてしまう)
竹林氏の珈琲も効率とは無縁のものだ
知っている人は少ないだろうがコーヒー豆はかなり汚れていて
お湯で洗うと濁った水が出現する
そのことを知らない珈琲屋さんも少なくないかもしれないが
知っているとしても豆を洗うという手間をかけている焙煎屋さんは限りなく少数だろう
珈琲の雑味は人間のからだに有害なもの多いらしく
竹林氏はその雑味を取り除くために
豆を洗う他にもうひと手間ひと工夫しているのだが
その珈琲を飲んで
そのすごさを感じられる人と感じられない人はやはりいる
世界一の椅子も同じで
良さを感じられない人はやはりいる
大量生産のものが溢れている世の中で
それは仕方がないことなのかもしれない竹林氏の珈琲の
良さを感じ取れたふたりは
椅子の良さも感じ取ったようで
しきりに感心していた
この椅子を作る人は木の状態(乾燥具合など)を見極めながら
作業を進めていくから
作り上げるのに時間はかかるが
製品になってから不具合が生じにくい長く使うことができる家具ができる
同じ家具を作る人の中には
木の乾燥具合や椅子のサイズなどには無頓着という方も少なくない
両者の違いは良いモノというものと
出会っているかということと(家具と限らず、別ジャンルのものも)
そしてその良いモノと出会ったときにそれが良いものだと感じられる力を
持っているかどうかかな?
椅子を購入する消費者だけではなく
椅子を作っている人も座り心地がどんなものか
わかっている人は多くないだろう
珈琲も購入する消費者だけでなく
焙煎したり淹れたりと売る側の人も
やはり身体に負担のかからない珈琲がどんなものかわかっている人は
多くないだろう
そして、これを書いている自分は
人が読んで理解できる文章とはどんなものなのか
まったくわかっていないみたいだ
きょうは素敵なお客さんばかりだったので
お客さんがたくさん来た気になっていたのだが
実際はそうでもなかったのかな
けっこうパンが残っている
きょう焼いたパンをいくつか試食
何だ。このうまさは
こころがザワザワ
感動興奮
この勢いで
突き進みたいが
きのう焼いたパンが残っていたので
きょう焼いたパンはほとんど店に並べられず
明日は焼けないかな
何だかこんなことばかりやっている
いつかは
この状況から抜け出すことができるのだろうか
でも、ここに来てパンがどんどん良くなっているし
お客さんもなんとか希望の明かりを見出せるくらいは来てくれている
行けそうで行けない
あとちょっと
あとちょっと流れがちょっと変わってくれれば
きょうみたいなパンなら
流れを
こちらに向かわせることができるのじゃないだろうか
期待
『本番~』の叫びと共にやってくる緊張感
そして
『ヨーイ スタート!』は魔法の言葉
掛かった瞬間
僕は僕であって僕でなくなる
大林組の人達それぞれの
映画への思いと熱さ
それぞれがそれぞれの仕事を
しっかりとこなしながら
それぞれの思いはひとつの方向へ
間違いなく
新作は素晴らしいものになるだろう
夢見ていれば
夢は叶うと言われているが
それはそこに努力や行動が伴ってくるからだ
夢を見られていれば
楽しいし
がんばれる
もちろん夢を見ていても
叶わないものだってある
それでも夢に向かっていくことはできるし
夢に近づくことはできる
そこに往生際の悪さが加われば
更に夢へと近づくこと出来るだろう
8月13日でなんだかんだと
18周年
はじめてお盆に店を休んだ
このまま3年5年と店を続けていくのを思うと
こころが疲れた疲れたと声を上げる
これからも店を続けていくには
こころに何かドスンというものが必要だった
ホップ、ステップが欲しかった
3度目の尾道、20年ぶりの尾道は
変わってもいたし
変わってもいなかった
大好きな大林宣彦監督が映画の中で見せてくれた風景は
まだしっかりと残っている
10代の頃から何十回と観た『さびしんぼう』
いつか大林監督の映画に出てみたいと
夢見ていた
俳優でもないのに
ここ二週間で更にパンがレベルUPしてきた
これまでどうにもならなかった夏のパン作り
その夏に
店を始めて18年のなかで
いちばんいいパンが焼けている
すごくうれしい
なんとかやっていけるかなあという小さな炎がはじめて灯った
パンが売れてくれればだけど
新四号線の異様と思えた光景も
全国チェーン店の恐ろしいと思えてしまう味付けの夕飯も
これがいまの日本なんだ
今現在の民俗だ
道中で見た超大型店の数の多さ
全国チェーン店同士の競争
行き着く先に見えてくるものは
破滅の二文字しかないが
これが人間としてこの地球上に誕生したものの運命なのだろう
もっともっともっともっとという思いを
人間から取り除くことは不可能なことなのだから
こうした方がいいのにという思いはあるが
それは自分の勝手な思い
自分の都合でものごとを見ているだけなのかもしれない
人がどう生きようと
その人の勝手だ
正しい答えなんて
やぱりないのだ
千葉の行き帰りの道中
目に付いたのが
超大型店の数の多さ
そこらじゅうに建っている
品数が多いということで
お客さんはやってくるだろうが
超大型店がこれからも
どんどん増えていけば
どうなるのだろう
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に連れて行ってもらう
広すぎる
展示物もすごい量なので
疲れるし消化できない
解説を読むのが苦手な自分には厳しい場所だったが
興味があるものや貴重なものはいっぱいあった
もっとしっかりと向き合えれば
かなり楽しく感じられるはずだ
帰りはなかなか利根川を渡ることができなく
苦労したが
初めて新4号線を体感することができた
どの車もおもいきり飛ばしていて
完全に高速道路化している
初心者マークをつけた車が100kmを超えるスピードで走っていたり
危険な割り込み運転を繰り返す車の多さ
異常な光景
夕めしを食べていくこうということになったのだが
連れて行ってくれたひとが選んだのが『松屋』
うわぁ 嫌だなあと思ったのだが
どんなものなのか見てみるのもありかなと思い直して
行って食べてみた
想像していた以上にひどかった
一口食べた瞬間
後悔
何でここまで味付けを濃くするのか
あまりの塩辛さに
味噌汁を飲み込んだが
こっちも負けてないくらいに
塩辛い
逃げ場なし
この完食はきつかった
食べたものが
自分の力やエネルギーになったという感じが
まったくないんだよな
連れて行ってくれた人が言うには
吉野家とすきや、松屋の中で
味が良いのは松屋だと言っていたが
いいのこの味で
こんな感じで
世界は回っているの
子供に食べさせていいのか、これを
連れて行ってくれたKさんが本人から聞いた話
味の民芸といううどん屋さんの女将さん曰く
「この辺りでは(栃木)本部の指導よりも
味付けを濃い目にしないとお客さんが来ない」
いいのか
飲食店を
そんな思いでやっていてと
絶望的な気分になってきたが
実際
地元には
そういう思いから
味付けを濃くしたり
やわらかくしてしまったりしている料理人は多いのかもしれない
それから自身が濃い味に慣れてしまっているという料理人も多いだろう
食の世界はこれから先
どんなことになってしまうのだろう
地元学校の給食の味付けはどんなかんじなのだろうか
長年小学校、中学校をやっている先生たちの味覚は
成長を止めていないだろうか
狂ってはないだろうか
揚げパンとかまだ出ているのだろうか
今朝は午前8時にランニング開始したが
もうすでに日差しが強かった
裏の坂道に日陰を見つけたので
そこで坂道ダッシュをやることにした
坂道ダッシュは
走るだけで身体のかなりの部分の筋肉を鍛えられる
平坦でのダッシュがきつく感じられるのと
前に進んでくれないのは
どこかの筋力が落ちたからかなのか
力が有り余っていたので
夜も軽くランニング
足裏の痛みがかなり強くなってきた
しばらくランニングは休んだ方がいいかもしれない
暑いとお客さんは来ないが
いまの自分の気持ちとしては
夏の暑さに対処できるように
いまはどんどんパンを作って力をつけておきたい
それから夏なのにいいパンが焼け出してきたので
このパンを食べてもらいたい
だから、この暑さは嫌なのだが
夏はまだ過ぎて欲しくないのだ
きのう焼いたライ麦15%と押しライ麦のパンが
素晴らしくおいしかった
夏じゃない季節でも出せないような味
焼きががった時点では
それ程手応えがあるわけではなかったのだが
食べてみて驚いた
きょうはきのうとは
また違った作り方でやってみたのだが
きょうは窯入れ前の生地が
かなり良い感じに膨らんでくれた
窯入れ前の感じでは
きのうよりも手応えありなのだが
パンは食べてみないとわからない
きょうのパンはぜんぜん駄目だろうと思って食べてみると
感動的なうまさだったり
きょうのは良く出来たぞと思いながら食べてみると
ぜんぜんおいしくなかったり
いい感じになってきたが
今週はお客さんがかなり少ない
いま作る度に力が付いてくるという感じになっているので
明日も作りたいところだが
これだけ残っていると
さすがに無理かな
モヤモヤだぜ
続けている人のところには
ツキがめぐって来る
止めてしまえば
ツキはめぐって来ようがない
状態が悪い酵母で
いかにして
良いパンを作るという作業は
良い状態の酵母でパンを作ったときに
更に良いパンを作るということにも
繋がってくる
きのうの大田原市は
観測史上最高の気温だったそうだ
そのせいなのかはわからないが
今朝酵母を見たら
きのうの元気はどこへ行ってしまったのというくらい
へたっている
それでも過去最高の状態だったきのうに比べたら
かなり悪いというだけで
去年のような絶望的な悪さにはなっていない
パンを作っていく中で何とかすこし修正できそう
それで
出来たパンはというと最高にうまかった
60円の丸パンがたまらなく、うまかったのだが
きのう焼いたパンが残っていたので
店に並べられなかった
うまく循環して欲しいところなのだが
しかたがない
しんぼう
しんぼう
パンは相変わらずそんなに売れないが
土台作りの方は着実に進んでいる
夏なのに
うまいパンが出来ている
きのうなんて
18年パンを作り続けた中では
夏の酵母としてはいちばん元気な姿を見せてくれた
夏のパン作りは自分の中でいちばんの課題だったので
道が見えてきたことは
大きな励みになる
今朝は出遅れ
9時からランニング開始
汗が流れ落ちていくのが気持ち良く感じるが
時折雲間から現れる太陽で
体力と気持ちが消耗していく
走っている最中は苦しい苦しいという気持ちの方が強くなってしまうが
そのもっともっと奥深いところには
それ以上の喜びが潜んでいるはずだ
家に着いてびしょびしょになった着ているものを
脱ぎ捨てたときの
開放感
これはこの苦しみを体感したひとにしか
知らないだろう
いま、悲しいという思いでいるということは
楽しいという思いを経験をしたということ
いま、さびしいという思いでいるということは
楽しいという経験をしたということ
いまはいまの苦しみしか見えないかもしれないけれど
生きてきた中で
苦しいことばかりではなかったということ
またこの苦しみがあるからこそ
人生が楽しいと思えることを忘れてはいけないと思う
食生活があまりにも乱れているときは
身体がどんな栄養を欲しているのか
身体が発しているその声を聞き取れなくなっている
明日も元気に営業予定です
風鈴パン屋
良い音色が響いています
涼みに来て下さい
一ヶ月経たないうちに
ウエストが10cmなくなっていた
食べる量は変わらず
ただライ麦比率の高いパンを多く食べるようになったかな
恐るべしなまけもののパン屋のライ麦パン
もう何度もやっているので
慎重になっていたのだが
かなり久しぶりに来たお客さん
かなり不自然なお腹の膨らみよう
これは100%おめでただろうと確信したのだが
違った
いろいろ聞いてみると
はじめから太りやすい体質なんてものはなくて
太りやすい生活を送っている人がほとんどなのではないかと思えてくる
パンは相変わらず売れないが
自分としては絶好調
どんな状況であれ
自分の思いをおもいきり生きることは自分にだって出来る
パン作りにおいても
身体つくりにおいても
生きていること全てにおいて
充実度100パーセント
思い通りに行かなくても
思いに向かってぶつかっていくことはできる
後悔って
結果に対して起こるものではなく
思いに向かっておもいきりぶつかっていけたかどうかじゃないか
きょう作った押しライ麦のパンが
最高にうまかった
これまでに自分が手に入れてきたものが
全部詰まっている
全てを出し切った
これが
いまの自分だ
23日 月曜日に販売します
毎年毎年夏になると挑み続け
挑むたびに壁に跳ね返された
停電になったとき
自分の無力さを感じた
パンが作れないのだ
残ったのは機械に頼らなくても
パンが作れるようになりたいという思い
冷蔵庫も製氷機もミキサーも使うのをやめた
春には春のパンを
夏には夏のパンを
秋には秋のパンを
冬には冬のパンを作ればいい
低温発酵なんてものが流行っているが
興味はなかった
自分の中では
それは機械が作り出したパンなのだ
夏が来た
自然の温度でパンが作りたかった
何度作っても
暑さで酵母が弱ってしまって
どうにもならなかった
夏が来る度それを繰り返した
力が付いてくることで見えてくるものがある
特別に暑い夏が始まって3週間目
あることを試してみて
自分の中で結論が出た
その日で挑むのをやめた
次の日の朝いつもの習慣通り
酵母の様子を見てみると
力強く膨らんでいる
壁が破れた
無理だったんだ
もう挑むのは終わりだと考えながらも
別の方法を試している自分
それでもその往生際の悪い挑みが
本当に最後の挑みになっていたはずだ
前日に冷温庫を送ってくれるよう頼んでおいたのだ
冷温庫に酵母を入れて終わり
酵母の仕組み
暑いときの対処方法
知ることなく
ただ機械任せにパンを作っていただろう
何年も何年も挑み続けたもの
本当に最後の最後に
壁の向こうにあるものを見せてくれた
何なんだろう
これは
機械を使うときに
起こって来る変化がどういうことなのかを知った上で使うのと
知らないで使うのでは大きな違いだ
やって来た冷温庫は休みの日に
しっかりと使わせてもらおう
休みの日まで酵母に付っきりでは
さすがに心がもたないし
どこにも出かけられない
夏は冷温庫かなにか機械を使わなければ
小麦酵母を最上の状態に持っていくのは無理だと
きのう自分の中で結論を出したところなのだが
出来てしまった
最上の状態の小麦酵母
この発見は自分にとってとても大きいこと
これでどれだけ苦しんだか
この発見が更に自分を上の階へと運び込んでくれるだろう
いまが人生でいちばんサンドバックを叩いている
ジャブというボクシングではいちばん基本のパンチがある
ボクシングを始めて26年
ようやくそのパンチの打ち方がつかめかけてきた
これはかなりうれしいこと
小麦酵母が奇跡的に?
なかなかいい感じに育ってくれた
きょうはライ麦酵母のパンをやめて
小麦酵母のパンを作ることに集中する
各工程で生地が最適になるように
手助けし見守っていたら
いつもより一時間三十分遅く焼きあがったが
なかなかのパンが焼きあがった
きょうはたまたまうまくいっただけで
この暑さは酵母にとっては良いことではないので
少しでも良い環境を作っていかなければならない
2種類の酵母は
外に置くことにした
さすがに40度を超えるところには置いてられない
ライ麦の酵母の方は暑さに対しての耐久性があるのだが
小麦酵母の方は駄目だ
外でも厳しいものがあるので
冷温庫を送ってもらうことにした
空洞パンの新しい食べ方を見つけた
オリーブオイルでニンニク、青唐辛子、しめじ、ちぎった空洞パンを
炒めて出来上がり
味付け塩
運動して汗を流して
水風呂に入り
にんにく三昧
もちろんライ麦パンも食べて
それから昼寝をして
水風呂に入り
又運動をして汗を流し
水風呂に入り
たっぷりの野菜とライ麦パン
夜になったら
不思議と疲労回復
夏の身体がライ麦パンを求めているのか
この時期にライ麦パンを食べると
他の季節よりも
体中にエネルギーがみなぎってくるのを感じる
ライ麦パンには
夏の身体に必要な
なんらかの栄養が入っているのだろうね
今夜はご飯を作る時間がほとんどないので
混ぜ合わせ料理
焼いた豚肉、焼いたライ麦95%のパン、大豆の水煮
誰かのお手製キムチ、オリーブオイル
うまい!
布団に横になれる時間は4時間半
このところの暑さで
残りの一時間は寝ることができない
毎日コクリコクリしながらのパン作り
夏のパン屋ってこんなに暑かったっけ
このところの寝不足と重なって
早くも夏バテ?
窯の電源を消してから
もうしばらく立っているはずなのに
室温が40度からなかなか下がらない
明日はいつもなら定休日なのだが
粉が悲劇的に溜まってしまったので
この暑さと湿度で悪くなってしまう前に
使ってしまわなければならない
祝日ということもあり
パンを焼こうと思っていたのだが
明日の準備に
なかなか身体とこころが作業場に向かわない
はたして明日はパンを開けられるだろうか
人間、年齢なんてそれ程意味がない
身体の若さと
こころの若さ
からだは更に絞れてきた
軽い運動とライ麦パンで
簡単にからだは絞れてくる
ライ麦パン料理で体質改善
今年の夏は30年ぶりに
あなたもハイレグ水着に挑戦だ!
夜になったらだいぶ涼しくなった
酵母をいじってからランニング
昼間のTVでストレッチ特集をやっているのを見ながら
いっしょにやっていたせいか
身体が軽い
ストレッチで筋力もつけられるし
心肺機能も向上する
真剣取り組めば
ストレッチだけでも
充分な運動になるのじゃないだろうか
知らなかった
きょうはパンが作れなかったので
店を開ける前にサンドバックを叩いた
二週間前から長めに叩いているのだが
いくらかスタミナがついてきた気がする
今日は休みなしで25分
いい汗がかけた
人生は攻めてこそ
面白くなってくる
暑いからこそ
積極的に身体を動かしていい汗をかこう
暑いからこそ
そうめんなんかじゃなく
栄養満点の料理とライ麦パン食べよう
また暑くなってきたが
ライ麦酵母は絶好調
小麦酵母も休みの間付きっ切りで面倒見ていたので
先週よりもいい感じになってくれた
室温が40度近くなってくると
小麦酵母の調子はおかしくなってくる
これは技術的なことで解決できる問題なのか
それとも粉の性質が変わってしまうのか
昨年までは酵母の調子が悪くなると
どうすることもできなかった
自分の手には負えなかったのだが
いまは酵母の調子がちょっと悪くても
時間と手間をかければ
良いパンに仕上がるようになってきた
パンを作るのには条件が悪いこの季節に
しっかりとパンと向き合うことで
パンのことをもっと理解して
更なるレベルUPを図りたい
運動量UPしてから
まだ2週間も経っていないが
腰周りの肉がすっかり取れた
ご飯はいつも通り食べているし
運動量UPといっても
10年前に比べて三分の一もやっていない
それでも手のひら2つ分くらいの肉が取れてしまうのは
日頃自分が作ったライ麦パンを食べているからだと思う
いつの間にか7月だ
パン作りの腕はだいぶ上がってきて
力はついてきたが
それに伴ってお客さんが付いてきた
ということは相変わらずない
今年はそのときに、そのときで
自分の持っている力は全て出し切れたと思う
うまいパンが出来たときもあるし
そうでないときもあったが
気分としては清々しい
思い切りぶつかっていけたなら
結果なんてどうなろうと
仕方がないこと
なるようにしかならないということ
今週は小麦酵母の調子が
いまひとつだったが
平焼きのレーズンパンはこれまでで最上の出来
どんなに悪い状態や状況でも
何かをどうかすれば
どうにかなる可能性もあることがわかった
諦めないこと
曽我蕭白の描いた実物の絵をはじめて観ることが出来た
この人の描く水墨画の筆捌きの素晴らしさ
立体を頭の中で作り出せる能力と
それをそのまま描き出せる手先の感覚
河鍋暁斎やピカソと共通する能力を持っているのを感じた
蕭白の絵を三重かどこかのお寺で観ることが出来るようなので
今度行ってみよう
その町に住む人たちが
育たなければ
町は面白くなっていかない
どんなに素晴らしい料理を出す食堂がその町にできたとしても
誰もその価値をわからないまま
ハンバーガーショップや牛丼チェーン店ばかりが賑わう町になってしまう
町を育てるのなら
そこに住む人が育つことだ
市や学校じゃなくたって
そうなるように種を蒔くことはできる
自分がやっているような店だって
それはできる
そんなに多くのひとに種を種を蒔くことはできないし
拾ってくれた人の種が全て発芽する訳ではないけれど
そういう部分が芯となってあるから
何度も何度も立ち上がって
曲げることなくまっすぐと歩くことができるのかもしれない
夕飯は玉ねぎ、キャベツ、サヤインゲンを炒めたもの(味付け塩,酢)に
酢をかけて両面焼いたライ麦95%のパンとさばの水煮を絡ませたもの
このパンは本当にうまいと思う
一日に12枚しか焼けないが
まだこのパンが売り切れることはほとんどない
それでも最近、それ程ライ麦パンなんて食べてこなかった人たちのなかに
このパンのおいしさを感じてくれたひとが何人か出てきた
何度か来たことがある人たちだが
それまで買っていったものの傾向から
このパンは食べないだろうなと思っていた人たちばかりなので
驚いたし、うれしかった
炒め物に入れたり、スープに入れたりしたらおいしかったという言葉も
うれしかったし、手応えを感じることができた
運動量を増やしたら
少しずつ身体が絞れてきた
自分としては体型なんてすぐに変えられると思っているのだが
運動してもなかなか脂肪が取れないという話も聞くので
体質的に変えられない人もいるのかもしれない
あれだけ元気だった小麦酵母が
休み明けに弱っている
暑さにうまく対処できなかったようだ
季節の変わり目はやはり難しい
調整調整しながら感覚をつかんでいくしかない
小麦酵母のパンの作り方を改善していたところ
型焼きのパンの生地の力がものすごく強くなってしまった
最終発酵ではものすごい勢いで膨らんでいき
いつもの15分も前にいつもの窯入時と同じ大きさになってしまった
大きさが大きくなってもまだ力は強い
窯に入れても空洞ができるだろう
7,8分待ってから窯に入れたが
生地の上の方に空洞ができた
味は悪くない
なかなかうまい
どうすればいいのか
もう少し最終発酵の時間を長く取ればいいのか
それともいつもの大きさになった段階で窯に入れてしまっていいのか
それとも生地の力を強めない方がいいのか
パン作りは
そういうパンになった要因が
いくつも考えられてしまうから
大変だ
夕方涼しくなってから
ランニングスタート
きのう久しぶりに
上半身と下半身の筋力UPトレーニング
それぞれ一セットしかやっていないのだが
きょうは身体に力が入らない
きょうも筋力UPトレーニング
本当は少し身体を休ませてやった方が効果はあるのだろうが
いまは勢いで行っちゃった方が良い気がして
上半身の筋トレ 二セット
下半身の筋トレ 一セット
それにしても体力が落ちた
間違いなくいまが人生でいちばん体力がないときだろう
産まれて半年や一歳くらいの方が2,3倍体力があったのではないだろうか
あの当時
息がもたないなんてことあった記憶がないもんな
良いパンが作れるようになってきたが
きっと、あと何年か経てば
これが勘違いだったと気がつくだろう
パンつくりの世界に入り込んでしまった以上
追求が終わることはない
あと何十回も何百回もの
うまくいかない経験することでしか
見えてこないもの
きょうもライ麦30%以下のパンの(小麦酵母)味はvery goodだった
作りを変えたことが良い方に出ている
残念ながらきょう作ったパンの98%のパンは売れずに残っているが
自分として手応えありだ
もちろん売れるとか売れないとかの手応えではない
うっかりミスとライ麦酵母との兼ね合いがなければ
毎年苦しんでいた夏でも良いパンは作れる
18年間うまくいかなかったが
そのうまくいかなかったことを積み重ねることで
見えてきたこと
自分は器用でもないし頭の回転も速い方ではないから
この18年は必要な18年だった
自分だけの喜びだけでしかないかもしれないが
それでいいんじゃないのかな
人間なんて
たいしたことやっちゃいない
ノーベル賞取ろうが
なんだろうが
そんなことは
人間の勝手
他の生命にとっちゃあ
どうでも良いことだ
足がだるかったので
3分くらい軽くマッサージをしてから
ランニング開始
はじめは足が重たかったが
すぐにだるさが取れた
からだが動かなくなってきているのは
歳をとったせいばかりでなく
からだに老廃物がたまっているのも一因なのかもしれない
ご飯を作る時間がほとんど取れないので
いつも作るものは10分~15分くらいで出来ちゃうもの
きょうの夕飯は
炒めた玉ねぎ、焼いた豚肉、水煮大豆、卸した山芋
塩 酢を混ぜ合わせたもの
ライ麦30%のパンはまた別の作り方を試してみた
少しずつ形が見えてきた
違う作り方をすれば
違う結果が出てくる
いくつかの違う結果が集まれば
見えてくるものがある
毎日同じことをやっていたら
見えてこないもの
順調に出来ていたとしても
それはたまたま順調に行っているだけであるかもしれないし
実際にはわかっていないなんてこともある
いまを越えたいなら
何かしら
これまでとは違う行動が必要なのだと思う
初めてこの店のパンを食べるというお客さんには
ライ麦95%のパンと空洞パンの二つを薦めている
だが買ってくれるのは10人中2人くらい
料理と食べるならこの二つのパンがいちばん食べやすいし
様々な料理とも合わせやすいと思う
初めて来たお客さんの多くが選ぶのが
なぜかライ麦80%のパン
だが、この店の中でいちばん癖があるパンが
このライ麦80%のパンなのだ
この味がたまらないというお客さんも多いのだが
ライ麦パンをあまり食べたことがないというお客さんは
出来れば別のパンから
入って欲しい
自分のパンはチーズや料理といっしょに食べることを前提に
作っているパンだ
パンだけで食べるのが好きだというひとがいるが
そのほとんどが
料理といっしょにパンを食べたことがないひとのようだ
騙されたと思って
一度でいいから試して欲しい
その方がパンの味も引き立てるし
料理の味も引き立てる
パンだけで食べるよりも
5億倍うまいことは保証する
パンだけで食べうという人には
このパンの本当のすごさが
まだわかっていない
昼はセロリとキャベツのサラダに
お酢をかけてから
ホットサンドメーカーで両面焼いたライ麦95%のパンを
ちぎり入れて食べた
このパンもそろそろ爆発的ヒットの予感が
未来の明かりとは
いまのワクワク感、ドキドキ感なのではないか
いまの楽しみ方を知っているということが
自分の未来を明るく照らしてくれるのだ
いまの楽しみ方を知っていれば
未来だって楽しいはず
必要なのは
未知の世界に飛び込んでいく勇気
ぶっ壊れてもいいやという覚悟
夕食はサヤエンドウとブロッコリーのサラダを
トーストした空洞パンに詰め込んで食べた
自分には永遠にわからないことだが
三ツ星レストランでも
これだけうまい料理は食べられないかもしれない
このパンは爆発的なヒット商品になるはずだから
そろそろ
その予兆が現れてもいい頃なんだけどな
きょうはライ麦30%のパン
おもいきって
新しい方法で作ってみた
うまく出来ない確率もかなり高かったのだが
未知の領域に飛び込んでいく魅力に吸い寄せられてしまった
未来に明かりが見い出せないというのは
ものごとを周りのせいにしているだけのことなのかもしれない
未来の明かりは自分で灯していけばいいんだ
望むのは結果ではなくて
いまの自分の思いを出し切ること
いまの自分で思い切りぶつかっていくこと
やりたいと思ったことは
やっておこうと思う
うまくいくかどうかは
別にして
やってみることは誰にだって出来るんだ
本当に欲しいものは
結果でも成功でもない
いまという時の充実感
こころが望んでいることをやっている幸福感
そして未知の世界
お客さんと接することが出来て
自分のパンを食べてもらえる
本当はそれだけで充分なのだ
結果にとらわれすぎて
自分を抑えたくはない
試したいことがあった
ちょっとやってみた
こういうことであるなら
こうすればこうなるはず
やってみたら
こうならなかった
それならば
こうすればいいのかと
やってみたら
まあまあうまくはいった
それで
パン作りが
ますますわからなくなった
いままでの作り方でもパンにはなるし
試した方法でもパンになる
一時発酵にかける時間が四、五十分違うというのに
どっちが最善なのか
パン作りは自分が考えているよりも
ずっと融通が利くものかもしれない
毎日パンを作れない中で
酵母を安定させておくことはとても難しいことだ
毎日おもいきりパンを作りたいという思いはあるのだが
毎日パンを作れないおかげで
試行錯誤しながら酵母を扱っていて
鍛えられているということもあるから
いまは、しっかりと根を張る時期なのだろう
条件の悪いところに身を置くほど
ひとは成長できる
順調に毎日パンを作っていたなら
見えなかったであろうことを
つかみ取ることができた
酵母の状態をおかしくさせてしまったこと数限りなく
そのときはガックリとくるのだが
おかしくさせてしまうことがあったから
酵母のことを少しずつ
わかることが出来た
まあ、しかしパンのことをわかってくればくるほど
パンの難しさを思い知る
復活したライ麦酵母
若々しさが取れて
だいぶ落ち着いてきた
パンを作るにはこのくらいの方がいいだろう
トーストした押しライ麦のパンで
ブリーチーズとアスパラのサンドウィッチ
こんなシンプルなものでも
うまさは格別
きのう焼いた小麦のパンが
旨みたっぷり
一枚食べたら止まらなくなった
ライ麦酵母を駄目にしてしまってからの
すっきりとしない流れが
ようやく変化してきて
きょうはスカッと良いパンが焼けたのだが
お客さんが流れてこなかった
朝から雨だと
なかなかここまで出て来てくれない
明日もパンを作りたい気分なのだが
いっぱい残っているし
売れねえだろうな
このところ
なかなか気持ちが乗れない
作りたいときに作れない
行きたいときに行けない
モヤモヤ感
今朝は4時まで小麦酵母のパンを焼いていた
ちょっと布団に入ってから
6時30分に起きてライ麦酵母のパンを作り始める
酵母の状態はどうだろうか
きょうは焼けるだろうか
活性化終了したときの酵母の力がすごかった
酵母の発酵速度も
パンの発酵速度も
速すぎる
異常だ
焼けたパンの香りを嗅いでみる
いつもの香りとはあきらかに違う
しかし悪くない香りだ
味の方はどうなのだろう
食べるのが
楽しみでもあり
怖くもある
パン作りにおいて
これが最適だと思い込んでしまっている部分
本当に最適なのだろうか
その部分を変えられないことで
超えられないということもあるかもしれない
酵母の常態が悪いことに気づき
途中でパン作りをやめていた
このままでは材料が無駄になるので
使えるところは使っておこうと
閉店後パンを作り始めた
焼きあがったのが朝の4時
パン作りは時間がかかりすぎるぜ
使える粉とその粉で出来る種類は限られてくるので
押しライ麦がいつもの3倍の18本
ライ麦30の丸パンと平焼きがそれぞれいつもの2倍
はたして売れるのだろうか
今度はライ麦酵母を
うっかりミスで
弱めてしまった
というよりも駄目にしてしまったのか
おそらく酵母の活性化時に
酵母を入れ忘れて粉と水だけで捏ねていたのではないか
三日間そのことに気がつかなかった
訳あって酵母をいつもと違う場所に保管していたので
入れるの忘れないようにしなければと何時間か前に思ったのだが
忘れた
自分は身体で覚えるタイプ
パン作りもからだが憶えたように動いているだけ
頭で考えて動くということが出来ない
頭を使うのは感じることだけ
だから、いつもとちょっと違うことをやったり
いつもとちょっと違う状況になると
何かしら忘れたり間違えたりしてしまう
ライ麦が多めのパンを買ってくれるひとが増えて来ていただけに
今回は痛恨のミス
経験からしてライ麦酵母を使えるようにするには
一週間はかかる
痛手ではあるが
ここをどう乗り切るかが
人間として生きているものの醍醐味でもある
小麦酵母の力を借りてみた
ちょっと閃いたのだが
試してみる価値はありそうだ
一週間はかかるとみていたものが
一日で復活してしまった
しかも過去18年でいちばん力強い酵母となって
他にもいろいろ試したことがあるので
実際に小麦酵母のおかげかどうかはわからないが
短い時間で酵母の力を
取り戻すことが出来るということがわかったので
希望が持てた
でもいまの自分には理解不可能な出来事
微生物や発酵のこと
まだまだ何にもわかっていない
島根県に移住することになっている日本焙煎普及協会の
竹本夫妻がやってきた
まだ島根に引越しも済ませていないのに
奈良県にも住まいを作ることにしたらしい(奈良市の町家)
間違いなく計画的に物事を進めているわけではないはずなのに
良い形が出来上がってきているからすごい
目の前のチャンスをものにして
自分の思いを形にしていける人というのは
目の前に興味があることが転がってきたら
後先考えずに跳びつけられる人
勇気があるのか
神経が図太いだけなのか
この二人にはその資質があるみたいだ
東京、島根、奈良と焙煎の拠点と住まいを一気に作ってしまった
自分のパンもそうだが
そう多くの人に支持されるようなものではないものを扱う場合
拠点は多くあった方が絶対いいと思う
二人がこういうことを深く考えて行動したわけでは
間違いなくないだろうが
飛ぶことができる人のところに
運はめぐってくるのだろう
夜中の酵母活性化時
うっかりミスでライ麦酵母に小麦と水を加え捏ねてしまった
とりあえず修正を試みて
朝の状態を見てみることに
いつもより少し早めに起きて様子を見てみると
微妙な状態
見た感じもさわった感じも
よろしくない
そこからががんばった
引き出しを全部開けはなって
修正を試みた結果
いつも以上に力強いパン生地になってくれた
パン屋を始めてから18年くらい経つが
その間うまく作れなかったことは数限りなく
しかし、そのうまくいかなかったことで
わかることができたことが
しっかりと自分の力になっていることを感じられた
うまくいかない多くの経験が
自分に多くの引き出しを与えてくれる
うまくいかないことは
悪いことではなく
経験しなければならない通過点なんだと思う
縁あって京狩野の4代目狩野永敬の絵が手元にやってくることになった
京都の実相院に永敬の襖絵があるそうなので
夏に行って来よう
永敬が俺を呼んでいるのだ
清水の三年坂美術館で印籠の企画展もやるようなので
良いタイミングだろう
探せば
他にも観たい絵がいろいろあるかもしれない
今朝は4時15分に目が覚めた
外はすでに明るくなっている
ゴミ出しをしてしまってから
もう一度眠ろうと外に出ると
ひんやりと心地の良い空気
走りたくなってきて
そのままランニングに出た
ダッシュも入れたかったが
ズボンが緩々なので
ゆっくりと100分走った
無人販売の準備などして
もう一度布団の中へ
きょうは久しぶりに家でゆっくり過ごすことにする
買っておいた『琳派』画集全5巻を眺め
お客さんが来たら店に行ってパンの説明や会計
夕方になって涼しくなってきたので
もう一度走りに行ったら
風呂に入ろう
たまには、こんな休日もいいものだ
「やめた方がいいよ、やめたほうがいいよ」と言う人の声を
「うるせえ、うるせえ」とこころの声で押し返す
人生はやってしまった方がいいんだ
どんどん
どんどん
やってしまった方がいいんだ
先の心配をしてやらないでいれば
先の人生もつまらないものでしかない
何が正しく
何が正しくないかなんて
誰にもわからない
自分のこころに正直に
やりたいと思うなら
やってしまうことだ
やったことでの結果はどうであれ
いまの
そのままの自分を出し切れさえすれば
後悔することはないだろう
なまけもののパン屋のお客さんは
素敵な人が多い
店の特徴を挙げろといわれたら
いちばんの特徴はこのことだろう
絶対これだけは他のパン屋に負けていないと
自信を持って言える
これだけ癖揃いのパンを好んで買いにくるのだから
みんなそれなりの人たちだ
ライ麦95%のパンに味噌が
合うのではないかという思いがふと浮かんで
やってみた
パンにお酢を軽くかけ
片面に味噌+味醂を塗り
ホットサンド用のフライパンで両面焦げ目がつくくらい焼いて出来上がり
予想通り
これをどんなものと合わせれば良いかはまだわからない
料理と合わせるなら料理の方に味噌を使った方がよいのかもしれない
パンと料理に味付けしてしまうと
くどくなってしまうかもしれない
日本の美術にのめりこみ始めて一年
何代目何々
何代目何々と絵の世界でも
名前を受け継ぐ慣習があるようだ
しかし同じ名前でもよく観ると
それぞれ個性がある
線ひとつ見ても
それぞれ違う
感覚的なものだから
先代とそっくりそのままという訳にはいかないのだろう
まるっきりコピーのように伝統を受け継いでいくということは
不可能だし
それでいいんだと思う
教えられる部分というものもある範囲ではあるだろうが
育っていくには
自分で見つけ
自分なりのものを掴み取っていかなければならない
そこに個性が生まれてくるし
その個性こそが面白いのだ
このところ良い流れになってきたなあと思っていたところで
きょうはお客さん5人で
売り上げ3500円
雨だからといって
ここまでひどいと
逆に落ち込めない
朝五時から夜九時まで働いて
売り上げ3500円
さて自給はいくらでしょう?
もちろんマイナスだ
材料費にもなっていないのだから
しかもきょうは問屋さんに材料代8万円払ったところ
いま現在、自分だけがなんで不幸なんだと思っているひとに
すこしは元気を与えられたかな
働いた分だけお金が入ってくるわけではないのが
個人で仕事をやる場合の厳しいところ
でも厳しい面だけじゃなくて
そんなことをふっ飛ばしてくれるような
喜びをもらえるのが
個人で仕事をするということの
何事にも代えられない良い部分
ひとりでパン屋をやったところで
作れる数はたかが知れている
お金は入ってこなくても
素敵な出会いやお客さんの笑顔が見られるのは
個人でやっているからこそのもの
お客さんに助けてもらっていることを
こころから感じられ感謝できるのは
大きな会社の中で働いていたのでは
難しいことだろう
この町が退屈なのは
良いものが育っていかない環境にあるからだろう
良いものがわからなくなっているから
手間隙と思いがこもった良いものが現れても
すぐに消えていくことになる
そして現れてくるのは
子供だましのようなものばかり
それに大人もだまされている
悪循環
深みのある味の良さが
少しずつわかってもらえて来ている
口に入れた瞬間にすべての味がわかってしまうような
濃い味付けの食べ物や
やたらと甘いだけの食べ物
この地域ではずっとそんなものばかりが食べられてきた
その舌はコンビニや大型チェン店にとってみれば
格好の餌食だ
町にはそんな店が溢れ
顔のない町になってしまった
これは食べ物だけではとどまらなく
わかりやすいもの好みは
文化だって消滅させていく
町はどんどん退屈になっていく
地域おこしとか流行っているが
魅力ある町に育てたいなら
まずは食べる物の意識改革からじゃないだろうか
今晩も帰りが11時過ぎ
10分で夕飯を作る
玉ねぎ、しめじ、卸し人参、にら、卵を炒めてから
酢と鯖缶で味付け
酢をかけてから両面焼いたライ麦95%をちぎり入れ完了
うまい
ライ麦95%
やはり偉大だ
このパンを食べてくれる人も増えてきた
知っている人だけが得をする
食べている人だけが得をする
なまけもののパン屋のライ麦パン
風俗画の面白さを教えてもらったのが
これ洛中洛外図屏風(舟木本) - e国宝
(ズーム機能がついているのでご覧になってください)
※この絵の中に焼き魚を売っている人がいます
見つけられるかな?
ルール、1
ゲームの参加者は
見つけられるまで眠ることが出来ません
見つける前に眠ってしまったら
焼き魚の呪いがかけられるでしょう
この文章を読んだ時点で
ゲームスタートです
読んだ方は自動的にゲームに参加です
自分の意思で抜けることは出来ません
見つけた時点でゲーム終了です
スタート!
屏風の中に描かれた人の数
なんと2000人以上
国立博物館に飾られたこの屏風を
最初は肉眼で眺めていたのだが
人々の姿がぼやけてしか見えなかったので
消えてしまったのかなあと思いながら
単眼鏡で覗いてみて驚いた
絵が細かすぎて見えなかったのだ
ひとりひとり着物の柄までしっかりと描かれている
単眼鏡で覗いていると
京都の町を高台から望遠鏡でのぞき見ているようで楽しい
面白すぎて絵の前からなかなか離れられない
当時、武士や町の人々が着ていた着物
京都の町の様子が絵によって
残されている
なにより何百年も前に作られたこの屏風自体がが
歴史だ
若い女性のお客さんが少し増えてきた
20代30代前半の独身女性も
ちょっと何かがずれれば
こういうパンを食べてくれるようにはなるんじゃないか
とりあえずは美味しく食べる工夫をしてもらえるようにもっていくこと
少しずつ流れが向いてきた気がする
パンもときたま酸味が強く出るときもあるが
うまいパンもかなりの頻度で焼けている
気がすると思い込むことは生きていくうえでは
とても大事
気がすると思い込み自分を盛り上げていくことなしには
17年もパン屋をやっていくことは出来なかっただろう
パンのレベルを上げてこれたのも
気がするという思い込みのおかげ
あと何十年かすれば世界一うまいパンを焼ける気がする
だまされたと思って
あと50年
この店のパンを食べ続けてみてください
ランニングから帰ると23時を過ぎていたので
簡単な食事を作って食べた
わかめと新玉ねぎと秋刀魚の水煮缶に
酢をかけ回し
ラム麦80%のパンをちぎり入れた
ライ麦パンに酢と玉ねぎが合うことを
再確認
やはりライ麦パンは料理といっしょに食べてもらわなければ
本当の素晴らしさはわかってもらえないだろう
身体が錆付いてきているので
トレーニングを少し強めにやってみる
足が上がらないし
息がもたない
スピードというものがまったくない
ダッシュをやっても身体がバラバラに分解してしまいそうだ
苦しい
怖い
でも繰り返す
エイ、ヤァーと一歩を踏み出す瞬間が好き
うまく出来なかったら嫌だなあ
苦しい思いをしたら嫌だなあ
傷つきたくないなあ
将来お金に困ったら嫌だなあ
などなど
こうなって欲しくないなあという不安を振り切って
うまく出来なくてもいいや
苦しんでもいいや
傷ついてもいいや
お金もいいやと
踏出した瞬間の快楽
苦しみも怖さも
自分から飛び込んでいけば
飛び込んだ瞬間にそれは喜びへと変わる
生きている中で結果なんてものは
たいして重要なことじゃない
こころが本当に望んでいるものを
やれるかどうか
勇気を出して跳ぶこと
ずっと
それが自分にとっての人生の課題だった
だいぶ跳べるようになってきたが
これはもう
永遠の課題だろう
無人販売にもかかわらず
きょうもお買い上げありがとうございました
天気が良かったので自転車で大子町まで走り
山の中を歩いてきましたが
何度も行っている山なのにまさかの迷子
それ程深い山ではないので
迷子の達人の自分にとってはなんていうことはなかったのですが
こんな迷いようのない山で迷子になるとは
来るところまで来てしまったのだろうか
『ほのお』のおじちゃんが店に来て
歴史の個人講義をしてくれた(やりだした)
このひとの知識と記憶力にはいつも驚かされる
自分の脳とは発達している場所が違うのだろう
歴史だけじゃなく、歌舞伎や文楽の台詞もパッとでてくるし
落語や日本の美術もよく観ている
そういえば自分が子供の頃に使っていた拭き漆仕立てのお箸は
このおじゃんの店で売られたものだそうだ
文楽や落語の世界にまだ名人という人たちが多くいた時代
美術や工芸でも素晴らしいものに触れる機会はいっぱいあっただろう
そういう優れた種をいっぱい拾ったのだから
素晴らしいものを感じ取る力は備わっているのだろう
拭き漆仕立てのお箸なんて当時この町のほかの店に
売ってなんかいなかった
このおじちゃんが蒔いたお箸という種
しっかりと僕の中で芽生えた
自分もこんな素敵な花を咲かす種を栃木の子供たちに蒔けるようになるだろうか
また更に本が増えてしまった
興味があるときにする勉強って面白いのだ
学校の勉強がつまらなかったのは
興味がないものを勉強していたからだ
興味があるなら
その機会を逃しては駄目だ
何々が終わったら
時間が取れるようになってからとか
そう考えた時点で
もう機会は逃している
いま、絵を観るのが楽しくて仕方がない
起きているうちの80%は絵のことを考えている
大昔に描かれた日本の絵
図録や美術関係の本が一気に増えた
絵が描かれたころの空気を感じたい
いまのせわしく、ギスギスした、画一的な世の中で生活していたのでは
絶対に描けない線
興味があったらどんどん入り込んでいく
それでいいと思う
絵と向き合っているときは楽しくて仕方がない
明るい未来なんか見えなくても
いまを楽しもうと思いさえすれば
楽しむことは出来る
自分にだって出来るのだから
きっと誰にだって出来る
未来だとか過去だとかは考えるだけ無駄であって
いまを楽しむこと
それがすべてであり
いまを生きること
それがすべてである
孤独であるということは
自由であるということ
自由であるということは
孤独であるということ
やったことは
すべて自分に返って来る
すべてが自分の責任
ひとり山ででんぐり返しをしながらコロコロするのも
自由というものだが
山で滑落し
誰知られることなく死んでいくことがあるのも
自由というもの
いま、木と漆のものに取り付かれたようになっているのは
子供の頃から拭き漆で仕上げられた木のお箸を使っていたことが
確実に影響している
木というものの魅力・時間をかけられて丁寧に作られたものの良さ
子供にもわかるのだ
いや子供だからこそ感じられたのかもしれない
木と漆を追い求めていくと
日本の文化に突き当たることになる
日本の食、生活空間、日本の美術、工芸と興味もどんどん広がっていく
子供だからこんなもんでいいんだよじゃなくて
子供だからこそ誤魔化しのない、しっかりとした体験を
させておいた方がいいのではないだろうか
近代化の波に完全に
飲み込まれてしまった現在の田舎に住んでいると
素晴らしいものに出会う機会はとても少ないだろうが
子供の頃に素晴らしいものに出会えれば
そこから開いていける
自分を広げてくれたものは
子供の頃に観たお芝居と
子供の頃にアメ横で買ってもらった
Wranglerのジーンズ(当時栃木では売っていなかった)
それから拭き漆で仕上げられた木のお箸
素晴らしいものって
美しい
子供の頃に素晴らしいものに出会うと
美的センスも育ってくるのじゃないだろうか
そして
美しいものを求めるようになってくる
しっかりと手間隙かけられたものに
腕を磨き上げるのに費やした時間に
目がいくようになるだろう
きょうは天気が良かったので
絵を観てきました
まずは東京国立博物館
『名作誕生』
3回目の来館
八王子の東京冨士美術館 ホームに向かった
河鍋親子の展覧会
暁斎描く線が素晴らしかった
気持ちよさそうにスッパッと走らせた力強い筆跡
(娘の方はとても優しい線で描いている)
即興で描いた絵が何枚かあった
このひとは天才だと思った
柴田是真との競作もあった
是真は暁斎を人間として認めてなく
関係を持とうとしなかったといわれているが
本当はこのひとの才能にクソッという思いがあったのではないだろうか
同時代を生きた二人の天才
この時代の絵師たちを取り巻く空気はどんなものだったのだろう
最近東京に出るときは鈍行を使うようになったが
帰りは酵母をいじる時間があるので新幹線
時間が遅くなったので那須塩原の駅からはバスで帰るつもりで
酒をたくさん飲んでしまったら
バスが出るのが30分後
仕方なく走ったが
走るにはちょうどいい加減だったようで
脳のリミッターはずれ
身体の方もしっかりと動く状態
いつもよりも速く走れた
酵母をいじるのにも間に合ったので
明日は寝坊しなければ店を開ける予定です
便秘気味の方にはとても喜んでいただいている
なまけもののパン
便秘の方にお薦めの食べ方は
ライ麦95%のパンを根菜たっぷりの料理に
ちぎり入れて食べてみてください
デザートにヨーグルト400gを食べれば
最強です
2~3週間続ければあなたも必ず腸美人
東京の板橋区立美術館の所蔵品を見ると
その本気度がわかる
文化の大切さを
素晴らしい文化がひとを創っていくことを
素晴らしい文化によって創られた人たちが
楽しい町を創っていってくれることを
板橋区を引っ張っていこうとしているひとたちが
よく理解している
素晴らしいものを素晴らしいと感じられるようになるには
素晴らしいものに触れなければならない
素晴らしいものに出会う機会がなければ
素晴らしいものがどんなものなのかということがわからない
この町に生まれ育って
自分の生き方に影響を与えてくれるような
素晴らしいものに出会ったことはなかった
素晴らしいものを素晴らしいと感じられる力がなくなってしまえば
精神や魂が大型店やチェーン店、大量生産、効率化の色に染まってしまうだろう
自分が生まれ育った町もそんな色にほとんど染まって来てしまった
予報が雨だったのだが
パンは作った
思っていたより
お客さんが来てくれた
きょうも素敵な一日だった
最近、地元大田原市の人にも
ほんとにわずかずつだが
自分のパンを
食べてもらえているような気がする
この町で手っ取り早く
売れるようにするなら
癖のないわかりやすい味でいて
深みのない軽いものを作ればいい
自分は自分が作りたいパンをただ作っているだけで
売れて金が入ってくるからといって
いまのこの町で売れやすいものを作るつもりはまったくない
結果的にそれが
この町にとって、ほんのちょっとは良いことになっているのではないかと
自分では思っている
高級外国車フェラーリ、プレゼントの抽選結果は
発送をもってかえさせていただきます
発送方法 メール便
送料 受取人負担
明日なまけもののパンを50万円以上お買い上げの方に
高級外国車フェラーリ一枚をプレゼントです
50万円以上お買い上げの方が複数名いた場合には抽選になりますので
ご了承ください
今年に入って
休みの日は美術館ばかり行っている
平安時代や江戸時代に描かれたものと対峙できるって
よく考えるとすごいことだと思う
江戸時代に描かれた絵というのは
その時代の空気のなかで生活している人にしか描けない絵ではないだろうか
気のせいかもしれないが
昔描かれた絵と対峙していると
描かれた当時の空気を少しだけ感じられる気がする
昔はどんなに生活が厳しかろうと
誰もがこころに余裕を持って生きていたのではないだろうか
浅草寺でこれまで寺に奉納された数々の絵馬を
公開していると知り
豪雨の予報だが朝から東京へ向かう
3月に入ってから
毎週休みは栃木を脱出しているのではないだろうか
店のない日
産まれ故郷であるこの町は
いまの自分にとっては退屈なのだ
ワクワクと胸が躍らない
絵馬はどれもでかかった
奉納される方も大変だろう
歌川国芳、鈴木其一、柴田是真などなど
迫力のある絵がズラーッと並んでいる
素晴らしいものに出会わなければ
素晴らしいものというのがどんなものなのかわからない
自分の中にある素晴らしいものの基準を上げておかなければ
パンのレベルを上げていくことは出来ない
素晴らしいものを見て
素晴らしいと感じられる自分を作っておきたい
来週も東京行きか?
国立博物館に展示される彦根屏風
何かわからないがとても惹かれる絵だ
風俗図を眺めて当時のことを読み解いていくのも
面白い
歴史好きなら
こういう実物の風俗図と触れ合うのもありなんじゃないだろうか
最近になって復元されたお城や
作者の想像がいっぱい詰まった歴史小説にはない
リアルがそこにある
ゴールデンウィーク最終日
朝一番で階段から滑り落ちる
何か良いことが起こる前触れだろう
きょうも楽しんでいこう!と
こころの中でつぶやいた瞬間に
つるつるのスリッパが滑って大転倒
頭を打っていてもおかしくない転び方
右の後ろ肩を強打それからむち打ち
何とかパンを作ったが
最終日でよかった
天気が良かったので
店を無人販売にして
自転車で出かけた
日本がいちばん美しくなる時期
体感しておかないと後悔という罰が当たる
茨城県大子町の菖蒲園に行ったがまだ開花しておらず
このところ暖かかったから
種類によっては開いているかもと考えていたのだが
まだ一ヶ月は先だろう
周辺の家々でボタンやツツジを植えているので
代わりにそっちを楽しんだ
大子町は日本の美しさが全部詰め込まれてる
そんな場所だと思う
烏山に移動して山上げ会館へ
有坂隆二カラスコレクションを観るのが目的で
山上げ祭りには興味がなかったのだが
入場料を払うと何だ何だという感じに案内され観せられた紹介映像を観たら
考えが改まった
実際に観る価値があるかもしれない
有坂カラスコレクションは漆芸から陶芸、絵画、浮世絵,,、金工と
大きいものから小さいものまで幅広い
三回に分けての展示らしい
どれだけ集めたんだ
それぞれの作品の説明文が
ぜんぜん一般の人向けではなくて
収集家目線で書かれているのが有坂さんらしい
烏山に行ったらもちろん東力士へ
選んだのは山廃純米と純米大吟醸原酒の2本
これだけうまい酒が栃木県にあるという奇跡
家に帰って早速飲んだ
この歳になって酒が強くなってきた気がする
大丈夫だろうか
きょうは平日だったが
9連休のひともいるだろうかと
休日返上でパンを作った
そこまでお客さんも来ないだろうし
昨日残ったパンだけでも足りそうな量はあったのだが
せっかく来てもらうのなら
種類があった方が喜んでもらえるだろうと
作ってみたが
予想をだいぶ下回るお客さんの少なさ
自分が何かをするときの動機は
ひとに楽しんでもらいたいということと
自分が楽しみたいという二つの思いしかないようで
何かをするのに立派な理由なんて持ったことがない
立派そうな理由をつけるのは全部やった後からだ
そんな二つの思いだけで店をやっているので
お金なんかは貯まらないが
もっともっと欲しいもの、こころが求めているものが
手に入っているのじゃないだろうか
きょうも素敵なお客さんたちに出会えた
喜んでもらえたかな
いま、どんな状況に置かれていようとも
瞬間瞬間に
生きている喜びを感じながら
過去のことも将来のことなんかも頭に浮かんでこないくらいに
いまというそのときを
大切に楽しんで集中して生きる
過去なんて、瞬間瞬間に切り捨てていけばいいんだ
そうして瞬間瞬間に新しい自分を創り出していく
大切なのは
過去の嫌な思い出なんかじゃなくて
いまこの瞬間の出会い
相変わらず人の顔が憶えられない
先週来たお客さんなのに
もう忘れている
最近はマスクをしてくる人が多いので
もともとひとの認識能力が低い自分には
誰が誰だかわからない
一度顔を憶えた人でも
しばらくすると忘れてしまうのは
脳のどこかの部分がうまく機能していないのだろうか
きょうは素敵なお客さんと
いっぱい出会えた
この世に産まれてきたからこそ出会えた喜び
生きているからこそ出会えた喜び
苦しいときには
苦しみにしか思いがいかなくなってしまって
ちょっと前に起こった喜びのことも忘れてしまうが
花の美しさに触れたとき
心地の良い風にほうを撫でられたとき
うまいトマトをかじったとき
生きている間は
無数の喜びに日々出会っているんだ
この世に生まれてきたからこそ出会える喜び
生きているからこそ出会える喜び
これから先
どれだけ苦しいことがやってこようとも
産まれてこれたことに感謝して
生きていけばいい
たった一つの喜びだけだって
産まれてこなかったら感じられなかったこと
そのひとつの喜びがあれば
こころ満ちて一生を過ごせ終えることができる気もする
足りない足りないと思っていれば
いつだって
ため息ばかり
苦しい思いにさせられるのも人間ならば
その苦しさから救ってくれるのも人間
生きることは
その繰り返し
そのサイクルの中で
気づいたり、飛ぶことができたり、許せたり、成長があったり
だから苦しい思いから救ってくれた人との出会いも縁ならば
苦しい思いにさせられた人とも縁なのだ
四月
僕の住む町には海が出現する
この時期は風がビュービューと町の中を駆け抜けていく
風がキラキラと波を揺らす
向こうでは緑色に輝いた海が
楽しそうに
大きく波打って踊っている
こころの中に波の音が聞こえてくる
麦ばたけの波おと 60
麦ばたけの波おと 80
なまけもののパン屋にて絶賛発売中
美術品の中で木がどのように描かれているかを観るのが好きで
今回も木ばかり眺めていた
木を描く線にクラクラしてしまうのだ
ズバッと一筆で描かれた線に
今回はたくさんの木と出会えて
クラクラしてしまうような線にも
たくさん出会えた
今週も東京国立博物館で開催中の「名作誕生」
観覧者は多くいるのだが主催がテレビ朝日で
NHKでの放送がないためか大混雑というほどでもなく
ひとつの作品をじっくりと観られる
前回はパッと見て惹きつけられたものだけをじっくりと観たのだが
今回は全ての作品を時間をかけて眺めてきた
前回興味がわかなかった作品も
しっかりと向き合ってみると
素晴らしいところがいっぱい見つかった
12のテーマで構成されているので
幅広く日本美術を堪能できた
国宝・重要文化財を含む130作品(前期後期合わせて)
素晴らしい作品がいっぱい
4時間かけて2周した
楽しすぎる
こころいっぱい
もう入らない
エネルギーが残っていれば
いつまでも会場に残っていたかった
気持ちいい朝
自転車に乗るかランニングをするか迷ったが
自転車で新緑を楽しんでから
『ふれあいの丘』でランニングをして
また自転車でぶらぶらしてから帰ってきた
身体を動かすにはいい季節だ
そして運動後のパンはうまいのだ
数日前に焼いたライ麦60%と80%のパンを試食
うますぎる
パンが売れないときは
ガクンと来る
このパン駄目なのかなあと
気持ちが沈んでいくのだが
自分が作ったパンを食べると
瞬間に
自信を取り戻す
今回の展覧会『名作誕生』で自分がいちばん惹き付けられたのがこれ
普賢菩薩像 - e国宝
仏画は苦手で美術館などに展示されていても素通りしていたのだが
この絵には見入ってしまった
何に惹かれているのかわからないのだが
ずっと観ていたくなる
おそらくこの絵は美術の教科書か何かで見たことがあるのだと思うが
まったく印象に残らなかった
やはり現物からでしか感じられない力のようなものってあるのだろう
今回、どんなものなのだろうとイヤホンガイドを借りてみたのだが
これは邪魔くさい
知識や情報を出来るだけ入れないでまっさらな心と目で
向き合った方が純粋な響きがある
へたに知識があると
知識を追いかけるだけになってしまって
感じることが出来なくなる
東京国立博物館特別展『名作誕生』
朝一番で行って来た
平日だからか思っていたほどの混雑もなく
ゆっくり観ることが出来た
日本美術に興味がある方にはお薦め
普賢菩薩や光琳の八橋蒔絵螺鈿硯箱
それから長谷川等伯の作品などは前半にしか展示されないものもあるので
国立博物館のHPで確認を
特別展以外の展示も面白く
一日中楽しめる
東京博物館で尾形光琳の八橋蒔絵螺鈿硯箱を観てから
根津美術館で光琳の燕子花図屏風観る
根津美術館庭園でもそろそろカキツバタが見頃になってくるだろう
きょうは昼寝をしてから
夜にサンドバックとランニング
足が軽い
大子町から帰ってきてから
お風呂でマッサージをしたからだろうか
ここ何年もランニング中は足が重いのは
血の流れが悪かったせいなのかもしれない
病気にも繋がってくるので
気をつけよう
今週も大子町で山歩き
自転車も先週乗ったことでからだが慣れてきた
片道45Km新緑を楽しみながら気持ちよく走れた
来週ぐらいになれば田んぼに水も入り
一年でいちばん美しい時期であり
一年でいちばん自転車が楽しい時期
山はきのうの雨のおかげか木々が生き生きしている
先週よりも新緑がまぶしく感じられる
今週は滝の方からではなく
月居山登山口から登ったが
こちらの方が楽かな
眺めもこちらの方が楽しめる
きょうは男体山頂上まではいかず
第二展望台のちょっと先にあるもみじ谷でお昼を食べて帰ってくる
往復で2時間も歩かないが充分満足
行きも帰りも歩くのは同じ道なのだが
行きと帰りでは見える風景が違ってくるから
山歩きは往復だからといって
飽きることはない
山歩きが楽しいのは木々の世界に埋もれられる喜びもあるが
もうひとつは手を使いからだを支えながら歩ける喜び
大昔は手と足でからだを支えながら生きていたのだろう
眠っていた野性がざわざわと騒ぎ出す
楽しい時間を過ごすことができた
明日は東京
欲張って.
三箇所回ってくる予定
暖かくなってきて酵母を発行機を使わず自然発酵させられるのはうれしい
それでも夜8時30分までには帰ってきて酵母をいじってやらねばならいので
東京で夜までゆっくりという訳にはいかない
久しぶりにライ麦80%のパンを食べてみる
最近ライ麦パンを焼いて食べることが多かったが
焼かずに食べれば
また違ったおいしさに出会える
チーズと生ハムというシンプルな食べ方だが
うれしくなるおいしさ
人間の舌は
濃い味にも慣れるし
薄い味にも慣れるもの
外食が多くなると
知らず知らずのうちに
濃い味に慣れてしまったりもするので
外ではあまり食べなくなった
自分が作るパンは料理と共に食べるパンなので
加える塩の量を減らしても大丈夫なのではないかと思いいたって
少しずつ塩の量を減らしていっている
一気に減らしてしまうと舌がついてこれなくなるので
徐々に減らしていって
お客さんの舌を慣らしていこうと思っている
塩の量を減らした方が
もしかしたら
粉の味、発酵によって発生する風味がより
感じられるようになるのではないかなと思っている
今週は日曜日にかなりパンを残すことになってしまった
最近ではいちばん多かったのだが
年度初めや春休み明けなどもあったのか
月曜日はほとんど減らすことが出来なかった
火曜日も販売したのだがかなり残った
きょうは朝止めたと思っていた発行機の電源が切れてなくて
酵母が33度の高温の中長時間放置
これでは使えないので予備の酵母を活性化させ始める
明日には間に合わないので
明日のパン作りはなし
日曜日のパンを捨ててしまうのももったいないので
販売します(水曜日)
明日作ったとしても
これだけパンが残っていると
気持ちがついていかなかっただろうから
電源消し忘れは
流れとしてはよかったのかな
誰が淹れてもおいしく飲める魔法の珈琲粉を頂いた
アドバイスされた通りに淹れてみると
普段珈琲など淹れない自分にもおいしい珈琲が淹れられた
普段外で珈琲を飲むという習慣がないので
違いがあるのか外に出たときに
珈琲を頼んでみた
淹れ方なのか焙煎の仕方なのか
飲み終えた後にいつまでも口の中に
嫌な感じが残っているので
ビールで口直し
本当においしい珈琲に出会わなければ
おいしい珈琲がどんなものなのかわからない
少し前まで座り心地のいい椅子というものは
どんなものなのか
わからなかった
いやわかっていなかった
いままで座り心地がいいなあと思っていた椅子が
ある椅子に出会ってからは
あまり座っていたくないなあという椅子になってしまった
物の基準って素晴らしいものに出会えるかどうかで
天と地くらいの差があったりするものだ
茨城県大子町に5ヶ月ぶりに自転車に乗って行ってきた
目的は山歩き予定は袋田の滝から男体山の往復
出だしは急な上りが続くので普段山歩きをしてない身には
かなり堪える
休憩なしでもみじ谷へ(勝手にそう呼んでいる)
下りていくと一面に小さな白い花
主(もみじの巨木)はしっかりと新緑をつけていた
木のブランコ(自然のもの)に揺られながら上の方へ目を向けると
立ち並ぶもみじの新緑がまぶしい
下の方からは水の流れる音
頂上まで行かなくてもいいやと
主に腰掛ながらサンドウィッチの昼飯にする
至福のとき、至福のとき
しかし若者はやはり先を目指すのだ
先を目指す一歩は
人間の生きる原動力でもあるのだが
人類滅亡への一歩にもなりえるのだ
原子爆弾よりも
もっと威力もあるものを
より便利に
より楽に
より稼いで
地球はどんどん壊れていく
コンビニや大型スーパーなどが街に溢れているのも
人類滅亡へのはじまりなのかもしれない
何が言いたいかというと
パンはスーパーで間に合わせるのではなくて
パン屋で買おうということ
できるならライ麦パンを
そしてそこまでいくのなら
ひとりでやっている店でということ
午前8時に山に入って
袋だの滝に戻ったのは午後1時30分
5時間ちょっとは歩いただろうか
けっこうハードだった
先週は体調がずっとよくなかった
電車の旅が続いたので疲れが出たのか
自分はからだと神経が丈夫には出来ていない
電車や車の長い移動だったり
食事の乱れ
寝不足
団体行動など
ちょっとしたことで
からだと神経が参ってしまい
ぐったりとなってしまう
日曜日はあまりに疲れたので
午後9時頃すこしだけ眠っておこうと
布団に入ると朝の5時まで目が覚めなかった
いつもの4時間30分の睡眠でも
一二度目が覚めてしまう自分にとっては
とても珍しいこと
自分がいつ死ぬかなんて誰にもわからない
余命1年と宣告されたひと
そのことを悲痛な顔で聞いたその友達
人生なんて何が起こるかわからない
悲痛な顔して聞いていた友達が
先に死んでしまうことだってある
余命1年と宣告されたひとだって
それは一年で死ぬ可能性もあるし
その前に死んでしまうことだってある
はたまた30年以上生きてしまうことだってあるんだ
若いとか、歳をとっているとか
健康だからとか、病気だからだとか
そんなことは関係なく
人は誰でも死と隣り合わせに生きている
そして、その死に向かって生きている
歳をとっていようが
若かろうが
健康であろうが
病気だろうが
やることはひとつだ
いまという時間を目一杯生きること
先週は強引に4日半作った
何とか帳尻があった
パンは悪くない
このまま流れをつかめればいいが
そう簡単にはいかないかな
ピカソの絵を見たくなり
箱根の彫刻の森美術館へ
ひとの目
ひとの評価なんて
気にせずに
うまく描こうなんて気負いもない
それでいて
手先の感覚
頭の中の感覚は天才的だから
ピカソの絵はおもしろい
何時間観ていても飽きることがない
いま生きることに悩み苦しんでいるひとは
ピカソの絵に触れてみよう
きっと『生きるぞ~』という力がこころの底から湧き上がってくる
心のままに生きていいんだ,、そして
それがいちばんおもしろいというこに気づかされる
いい絵というのはそれと対峙したときに
そのひとの心に何かが触れてくるものなのだと思う
国宝だろうが巨匠というひとが描いたものだろうが
心に触れてくるものがないのなら
それはその人にとってはただの絵なのだ
青春18切符5回分使い切った
18切符でなければ行かないだろうところに
行けるのが18切符のいいところ
世界が広がる
熱海なんて18切符でなければ
絶対行かないところ
夏は店を休んでもう少し遠出をしてみようかな
苦しいこともたくさんあるけど
産まれてきたからこそ
得られた喜びもたくさんある
そんな喜びを感じるために
明日もパンを焼き
走るのだ
生きていてよかったと思えるきょうという日に
感謝
うまくいかないことを繰り返す程に
引き出しは増えてくる
パン生地をいじればいじる程
パン作りの引き出しは増えてくる
学校も会社も親も
うまくいかないだろうからと
うまくいかない機会を取り上げてしまうのではなくて
うまくいかなかろうがなんだろうが
何でもどんどんやらせるべきなんだ
危険なことも
危険な目にあってこそ
その危険を回避する引き出しが増えていくんだから
どんどん遊ばせるべきだし
危険を取り上げるんじゃなくて
危険な目にあったときには
どう対処するかを教えておくことも
大事なことだと思う
さあ、月曜日
どこに出かけようか
決められないままに家を出る
駅から遠いところに住んでいる自分の旅の始まりは
駅までのランニングで始まる
西那須野駅までは5km
新幹線を使う場合は10km先の那須塩原の駅まで
それも一分遅れただけで
一時間待つことになってしまうことになりかねないので
走るのも必死だ
旅に出てゆっくりしようなんて思いは
初っ端から弾け飛んでしまう
夏なんて全身汗まみれで
着ている服もビチョビチョだ
電車旅のお供は本と酒
きょうの本は京極夏彦
旅の本は物語と決めている
行き先を電車に揺られ本を読みつつ考える
久しぶりに逗子の駅で降りてみようかと思ったが
うまい具合に逗子方面に行く電車とかち合わないので
終点の上野駅まで行ってしまえ
せっかくだから国立博物館へ寄っていこう
桜の時期だから月曜日でも開いているだろう
ちょっと眺めて出るつもりだったのだが
門を出るのに三時間もかかってしまった
上野駅に着くと三十秒差で逗子行きの電車は行ってしまった
エスカレーターを叩いて悔しがったが
逗子駅の電車は十分おきに出ていやがった
東鎌倉に寄ってから何年かぶりの逗子へ
ここは好きで昔よく通った
夜通し歩いたことも何度かある
ある日夕焼けを観に行こうと思い立って
前に道に迷って偶然出くわした
高台にある公園に向かったのが
歩けど歩けど公園にはたどり着かない
いつの間にか真っ暗になってしまい
もうどこを歩いているやらわからない
道を尋ねようにも
ひとが歩いていない
そもそも家もない
結局夜通しさまよい歩いて
朝日を拝んで帰ってきた
そういうことなどいろいろあり
ここは思い出深い場所
街を抜け逗子海岸に出て
そこから海岸線沿いを歩いて
一色海岸へ
途中ひとがいない場所があれば
服を脱いで泳ごうかなと考えもあったのだが
春休み中なのでどこ行ってもひとがいる
一色海岸まで来ると駅から離れていることもあり
ひとは少なかったが
御用邸の裏なので護衛場がある
さすがに警官の前で全裸では泳げない
太ももまで浸かり海を感じた
少しランニングをしてから酒を買い込み駅へ
帰りはグリーン車
呑み残しの瓶を持って走るのは重くてキツイかなあと
思いながらも買ってしまった720mlの純米酒
東京を出る前に空いてしまった
やはり旅はこころを開放してくれる
帰りの晩酌は旅の楽しみの中の一つ(メインイベント?)
新幹線ではちと短いが
鈍行電車の旅ならより楽しめる
天気が良いのでパン作りをやめて
自転車に乗り込み福島方面へ
上り坂が適度にあり
楽しいひと時
苦しみを省いてしまったら
面白味もなくなる
帰りは風に乗って走ってきた
無人販売にしておいたパンは
結構な数残っていたが
4時を過ぎるとお客さんがわんさかやって来る
ここ半年でいちばんの数だろうか
暖かくなってきていい感じになってきたが
もうちょいだ
もうちょいで5日間焼ける
パンはいい感じで焼けているので
この流れをつかんでしまおう
このパンならいけるんじゃないか
酵母が最高潮に元気
今週初めの電車の旅
早朝に出かけて夜中に帰宅
24時間以上酵母をほったからしにしてしまったので
酵母の力が弱まっている恐れがある
夜中、朝、昼、夜、夜中と酵母をいじってやった
そのおかげなのか
酵母が元気いっぱい
しかし、ここまで元気があっていいのかどうかはまだわからない
昨年から一泊以上の旅をしていないのは
酵母の力を弱めたくないなあという思いが強くあったため
だから、この一年ちょっと酵母をいじらない日はほぼなかった
知らず知らずのうちに
酵母のことをかなりわかることが出来ていた
やはり、パン作りは
作って作って
手の感覚で学んでいかなければならないものなのだろう
熱海の町はこぎれいになり過ぎてしまって
面白味がなくなってしまったところもある気がする
その中でポツリポツリ残る昭和の面影に出会うとうれしくなる
こぎれいになった温泉宿A
こぎれいになった温泉宿B
こぎれいになった温泉宿C
昭和のままの姿を残す温泉宿D
ABCこぞってこぎれいな建物にしたが
ABCどこも似たり寄ったりで
宿から顔が消えてしまった
DはABCが顔を無くしてしまった分
逆に顔がはっきりと現れた
宿の顔は建物だけではなくて
そこで働く人たちも顔であるから
その辺はどうなったのかはわからないから
完全に顔が消えてしまったのかどうかは
わからないが
ちょっと前に
国の補助金で市や村が
PRビデオを作ることが流行った(大手広告代理店が仕組んだのかな?)
どこかの市か村の作った面白おかしいビデオが話題になり
それならうちもと
全国の市と村がこぞって面白おかしいビデオを作った
制作会社もみんなが同じところに頼んで作ったビデオは
結局顔の無いビデオになってしまった
何百もの市や村が同じようなビデオを作っているのだから
そうなるだろうな
店に来た人が日本や外国の文化に
興味をもつきっかけになるような場所を作りたいと考えているの
本や世界中の音楽のCD、漆器、木の家具だいぶ集まったので
これから少しずつ形にしていこうと思う
図書館と美術館と食べ物屋と音楽屋が混ざり合った空間
今週も電車の旅
今回はグリーン車を使う
西那須野駅から午前6時8分の電車に乗り込む
朝飯はライ麦60%のパンとチーズと生ハムとワイン
きょうの行き先は熱海
行ってみたいなあと思っていたMOA美術館だが
行こうと思いついたのが一週間遅かった
梅の季節だけ公開される光琳の梅図屏風の展示は
先週まで
栃木ではいま梅真っ盛りなのだが
熱海はすでに梅は終わり桜が咲いていやがる
来年まだ命がのこっていたら見に来よう
いまの展示は北斎と広重の冨嶽36景と東海道53次
馬頭町の広重美術館で観たときはこころにぶつかってくるものがあったのだが
今回はひとが多すぎてこころが絵に向かわない
そんなところに89枚は多すぎた
途中で飽きてきたが
下の階に素晴らしい印籠が展示されていたので
いっきにテンションが上がった
単眼鏡を持っていっておいてよかった
印籠は楽しめたのだが美術館を出ても
物足りなさが残ったので
電車から見えた『人間国宝美術館』へ行ってみることにして湯河原へ
期待もしていなかったし、美術館の名前も嫌だなあと思いいながら
入ってみると黒田辰秋の棗や平田郷陽の人形などあり
けっこう楽しめた
人間国宝の作品だけではなかっったのもよかったし
個人の趣味感いっぱいなのもよかった
帰りの電車まで時間があるし昼飯も食べ損なったので
熱海に戻って何か食べて
海を見てから温泉に入ろうかなあと駅に向かう途中
果物の無人販売
みかん、キュウイ、金柑すべて200円
帰りの電車で食べようとみかんを購入
数えてみたら11個も入っている
食べるところを探して熱海の町をブラブラしていると
食事をするところではないが面白そうなところがけっこう見つかった
それから女の人が格好良く働いている姿が目立った
じっくり歩いてみると熱海も楽しいかもしれない
初川沿いに魚屋さんがあったのでのぞいてみると
作業場ではおじさん二人が黙々と魚をさばいている
その包丁捌きを見て
この店はぜったい美味いと確信
食べるところは見つからなかったので
この店(村越魚店)で刺身を買って電車で食べることにした
食べ物も確保したので少し前に見かけた
ちょっと惹かれた温泉旅館に戻って
湯に浸かることにした
ここも当たり
今回は鼻が利く
わざと古そうに見えるよう作ろうとしても
まず出せない年月が作り上げた建物
お湯もよかった
ちょっとしょっぱい湯はぬるめだが
からだはポカポカ温ってくる
肌もすべすべ
昭和の熱海が生きている温泉宿 - 熱海温泉 福島屋旅館 HP
数軒となりにある豆腐屋さんにも寄りたかったが
温泉を出ると閉まっていた
海に出て波おとを楽しんでから駅へ
午後6時56分発なんと黒磯行き
グリーン車で刺身を食べ、酒を飲み、本を読み眠って
ゆったりと帰ってこれた
0時30分家に到着
24時間以上ほったらかしにしてしまった
酵母は大丈夫だろうか
青春18切符あと2日分
どうしようかな
ライ麦95%のパンをオーブンで焼いてから
酢の物と和えて食べてみた
これはいける
これはかなり美味いので試してみてください
夕食もライ麦95%のパン
卸蓮根、卸生姜、しらす、塩、卵を混ぜてフライパンで
両面焼いたものに七味唐辛子をかけたものに
ちぎったパンを絡ませながら食べた
ライ麦95%うま過ぎる
少しずつこのパンのうまさがわかってもらえるようになってきた
自分としては自分の作るパンの中では
このパンがいちばん食べやすいパンじゃないかなあと思っている
どんなにどうしようとも
どうにもならないときってある
そのことに囚われていても
悲しくなるだけだ
どんなに苦しかろうと
結局
自分に出来ることは
自分をおもいきり生きるということだけだ
いまというこの瞬間を
おもいきり生きるだけだ
結果なんてものは
サイコロを振るのと同じ様なものだと
思っていればよいのだろう
人生は流れだ
いまうまくいかずに最悪で最低な気分でも
うまくことが運ばなかったからこそ
素晴らしいことに出会えたり
視点を変えることが出来たり
いままで自分に起きたことのすべてが
自分をつくっていく
ただそれだけのこと
いま起こっていることが
次の流れを作っていって
前の影響が
いまを作っている
だから
いいとか
悪いとかは
その瞬間には判断できるものではなくて
長い目で見れば
死ぬ瞬間までわからないのだろう
子供のすごさを親がわかっていないことも多い
子供の可能性を親が潰してしまっていることも多い
「この子しっかりした味覚を持っているな」と見ていて感じる子がいても
その子のお母さんの味覚が狂っていることもあるのか
それに加えて子供も自分(母さん)が嫌いなものは食べられないだろうと
思っているのか
柔らかいパンやレーズンのパン、
ライ麦量の少ないパンしか買っていかなかったりするケースがよくある
もったいないなあと思う
子供って親が考えている以上の力を持っているし
よく観察もしないで自分の基準で子供を計ってしまえば
子供の可能性を潰してしまうことにもなりかねない
自分がこうやりたいという思いがあるなら
誰がなんと言おうがやり通すべきだ
先生や親は自分の考えを押し付けるべきではない
子供は子供でしっかり考えているし
自分の思いを曲げて生きていくことになれば
必ず後悔する
うまくいくとかいかないとか
そんなものは一時的な視点でしかなく
うまくいったりいかなかったり
その繰り返しが人生であって
人生全体において成功とか失敗なんてものはないんだ
もし人生の最後に何か悔やむことがあるとすれば
それは「やらなかった何か」だけじゃないだろうか
お昼は作っている時間が無いので
いつも簡単なもの
きょうはトマト缶に卸し生姜と卸し人参、
お酢と水少々を混ぜただけの冷たいスープに
焼いたライ麦95%のパンをちぎり入れてたもの
うまいので2枚食べてしまった
これからの季節にお薦めの食べ方だ
ラム麦95%のパンは
温めるモチモチ感が増すから不思議だ
少し強めに焼いても皮の部分がカリカリしておいしいよ
子供だから出来ないだろう
子供だからわからないだろうというのは大人の勝手な思い込み
人間のこころがいちばんやわらかいのは子供のとき
人間の脳みそがいちばんやわらかいのは子供のとき
人間のからだがいちばんやわらかいのは子供のとき
子供だからこそ誤魔化しのない世界を見せることが必要だし
子供だからこそ最高に素晴らしいことに出会わせることが必要だし
子供だからこそ最高に素晴らしい体験をさせることが必要だ
ひとは産まれたときから
もうすでにひとりの立派な人間なんだ
ひとが町を作り
町がひとを作る
ひとが育てば町も育ち
町が育てばひとも育つ
ひとが町を殺し
町がひとを殺す
成熟していない町で暮らしていれば
精神が崩れていく
苦しくないもの、手間のかからないもの、
わかりやすいもの、浅いもの、
疲れないもの、心地良いもの、危険がないもの
どんどんどんどん容易なものに流れていってしまう
自分の頭で考えることも出来なくなって
テレビの情報や国の意向に流されていくだけになってしまう
成熟していない町
顔のない町は
スーパーやコンビニなど外からの大きいものに
のみ込まれていくだけじゃなく
国にだってのみ込まれていくことになるだろう
国の思うがままに動かされて
いいように使われる
国が補助金を出す新しい制度を作って
それに地方が飛び乗って
補助金使っていろいろやって
そんなことの繰り返しで
地方の町はどんどん顔のない町になっていく
補助金使ってやることは
どの地方もみんないっしょだし
浅い考えで
新しいものを作るということは
町を壊すことでもある
おまけに補助金の流れる先も決まっているのだから
国の思うがまま
成熟していない町は
国にとってはコントロールしやすい
扱いやすい町だ
国の思うがままに
どうにでも動かせる
成熟した町というのは
町を作る大人たちが成熟していなければ成り立たない
子供時代にしっかりと遊んだ経験や
自然と対峙した経験がなければ
成熟した大人にはなれないのではないだおうかと
きのう横須賀の町を走ってみて思った
だから
危険なものや危険なことは排除してしまおうという、いまの社会では
成熟した人間はなかなか生まれてこない
食べ物でも子供は
味付けが薄いものや硬いものは食べないだろうと決めつけて
デパートのお子様ランチみたいなものばかり食べさせていたり
飲食店が癖のあるものは売れないからといって
やっぱりお子様ランチみたいなものばかり売っていたら
食に関しても成熟できない
大人がお子様ランチを食べているような町になってしまう
町が成熟していかない限り
大型スーパー、コンビニ、ファミレス、進学塾などなど
外からの大きいところにどんどん
のみ込まれていって
顔のない町になるしかなくなってくるだろう
そんな町に住んでいても
たいくつだろうな
成熟した人を育てるには
土壌がなければ
なかなか難しいと思う
そういう土壌が
自分の町にあるかといえば
全然ない
食だけをみても
そうだ
野菜など良い素材はあるのに
食べ物屋さんに行けば
甘ったるい
濃い味付けと大味のものばかり
おそらく家庭料理も
そんな感じの家が多いのではないだろうか
太りぎみの子供が目立つのも
そのせいではないだろうか
こういう食べ物を食べていれば
コンビニの弁当や揚げ物、ファーストフードのハンバーガーなんかが
平気で食べられるようになるし
病気だって多くなるだろう
住民の食の意識を変えられるのは
飲食店の人たちじゃないだろうか
これまで土壌を作ろうとするひとたちは現れてこなかった
もしくはいたとしても消えてしまった
地元の人間でもいいし
移住してきたひとでもいい
住民の食の意識を変えられるような店を作るひとが
現れてこないだろうか
だれかが
土壌を作っていかなければ
大田原市は無くなってしまうだろう
きょうは電車で東京に向かう
きのう泊まってこれたら楽だったのだが
酵母をいじらなければならなかったので
一度戻ってきた
近代美術館工芸館で明治時代の工芸品を眺めてきてから
笹尾さんの展示会を覘いたら時間切れ
きょうは早い時間に酵母をいじらなければならないので
お昼には電車にのった
まだ青春18切符3日分も残っているよ
どうしようかな
電車はもう飽きた
どうせ移動するなら
自分のからだを使って移動したい
何年かぶりに
青春18切符を買った
今回の行き先は
横須賀
午前5時38分の電車に乗って
何度か乗り換えながら
着いたのが午前10時
乗り物に弱い自分にはかなり堪えたが
空の広さが疲れを吹き飛ばし
こころも開放してくれた
最高のランニング日和
海風が気持ち良い
この町は遊び場がたくさんある
海はもちろん
バスケットやテニスの壁打ち、スノーボード、
マウンテンバイク遊びが出来る場所(おそらく無料)があるし
子供が遊べる公園もたくさんある
観音崎公園にはアスレチックがあるし
とても長い滑り台もある
この滑り台すべるところがローラーになっていて
お尻の下に敷物を敷いて滑るというもの
かなりのスピードが出る上
カーブもあるのでかなりのスリル
公園からどんどん遊具が撤去される中
こういうものを置いてしまうのだから
横須賀市は成熟した町なのだろう
昼飯は鎌倉に出て『はま善』で刺身御膳
数時間前に地引網で取れたという魚が
8種類くらい盛られていたあろうか
サービスだったのかもしれないが
これだけの種類の魚が盛られた刺身御膳は他にないだろう
そして、その魚がとにかくうまい
地元で食べているものは
何なんだ
地元で魚を食べるのは
もう止めにしよう
この店はもう10年以上前に
夜の鎌倉の町をブラブラしていたときに
見つけた店
店構えを見て
ここは絶対うまいだろうと入ってから
こっちに来るときは
必ず伺っている店
ここは魚だけではなく
ご飯がうまい
炊き方なのだろうか?
いつか夜にまたうかがえたら良いなあ
食後は店主に教わった散歩コースを
教わった通りに歩けばよかったのだが
ハイキングコースに行ってしまったら
迷子になった
迷子になどなりようにないコースなのだが
それでも迷子になってしまうのだから
これはまた才能なのだろう
結局また走ることに
でもおかげでからだの錆が取れた
だんだんきついトレーニングに気持ちが向かえなくなっているので
走りなれたコースでは気落ちを持っていけない
体力はかなり落ちている
毎日同じようなコースを走るのは
もう苦行でしかない
走りなれていない場所を走っていると
こころがワクワクしてきて
いくらでも走れる気がしてくる
怪我や病気で体力が落ちたときには
環境を変えてやることもアリなのだろう
今週は4日半パンが焼けた
最終日も目いっぱい作ろうと思っていたのだが
何年かぶりに飲んだウィスキーで脳が異常を発し
理解不能な行動でライ麦酵母がよくわからない状態になってしまい断念
幸い残っていた酵母で使用不能になるのをふさげたのでよかった
最終日は半分だけだったが
5日間焼けたのはホームページが消滅したとき以来だから
かなり久しぶりだ
このまま良い流れになっていってくれるかなあ
今週はいつもの東京の人たちを始め
遠くからたくさんの人が来てくれた
まだまだ遠くからのお客さんに頼らなければならないのが現状だが
パンも良くなってきたので
このパンを使って地元の人にも食べてもらえるよう持っていきたい
日曜日に焼いたパンが何とか4日間かけて
ほぼ無くなってくれた
無人販売時に来てくれた方々
ありがとうございました
先週はなんとか4日間パンが焼けた
休み明けの水曜日
パン値上げ初日
値上げを歓迎してくれたわけではないだろうが
久々に平日
お客さんが多く来てくれた
こんなのはいつ以来だろう
記憶にないぞ
今週はもしかして5日間パンが焼けるかな
いつ以来だろう
これも記憶にないぞ
ここに来て少しずつお客さんが増えてきているのかな
暖かくなってきたこともあるだろうが
美味しく食べる工夫をして
パンを食べてくれるひとが増えてくれたのかもしれない
もちろんパンがうまくなってきたことも
最近考えが改まってきた
無理な人には無理なパンなのかもしれないが
栃木にもこういうパンを好きになってくれる人は
いると思うよ
それ程暗くはない
長くパン屋をやってきた店主は
自分のパンはパンをそのまま
それだけで食べてしまうというお客さん向きではないことがわかってきた
そういうお客さんはほぼ付いてくれなかった
それならばと中途半端なことはやめて
料理と食べたらおいしいパンをいっぱい作り始めた
お客さんが減ることはわかっていたが
目先目先ではなくて
時間がかかっても
パンを美味しく食べる工夫をしてくれる人たちを増やしていくことが
これからも長くパン屋をやっていくことに繋がっていくと考えたんだ
新しいパンを作り上げていくのには
だいぶ手間取ったみたいだが
最近ではなかなか調子良く
うまいパンが焼けているようだ
良い波が来たときに
しっかりとその波を捕まえられるように
準備はしている
パンを作るときは
目いっぱいの量を焼いているのもそのひとつだ
もちろんパンは残ってしまうので
次の日に早めに店を開けて残ったパンを売るようにしたら
早い時間しかこれない人がいたりして
早い時間の方がお客さんが多く来てくれることがわかった
せっかくだからこの流れを止めないようにと
いまは、なるべく次の日にパンが残るようにしているのだが
残っているところに更に作ってしまたが
お客さんが来なくて沈してしまうことも多々ある
でもこれも波を捕まえるためには必要な気がするし
良い波を呼び寄せるのは
良い流れに持っていくのは
自分なのではないのだろうかという気もする
自分の行為次第で
風向きはどうとでも変わっていくのではないだろうか
うまい文章とはこういうものというのが
あるのかもしれないが
そんなものは最初から無視して
形式なんてものにこだわらないで
自分の表現したいことを
表現したいように表現する
とにかくいまの自分で
ありのままの自分で
そのままドカーンとぶつかっていく
大林宣彦監督の映画はこんな感じ
歌いたいなら
歌えばいい
踊りたいなら
踊ればいい
何も気にせず
そのまんまの自分で
大変お待たせしました
やるやるといって
長らくお待たせしてご迷惑をかけていた
パンの値上げ
来週辺りから
いよいよ
スタートです
まずは全品10円UPからいってみましょう!
なんだかワクワクしてきたぞ
何か変化させるときって
高揚感があるね
値上げって楽しいかも
大林宣彦監督の最新作『花筐』を観た
凄すぎた
前二作品も強烈だったが
『花筐』は
別次元にいっていた
何だこれはと
この映画の全てを理解しようとすれば
頭がパンクするだろう
きのう見たピカソの描いた絵の世界が映画になった感じだ
そうか
もしかしたら映画や小説や絵といった誰かが表現したものは
理解するものじゃなくて
感じるものなのかな
映画の教科書に書かれている
こうしなければならない
こういうことは絶対してはいけないというようなことを
平気でぶっ壊している
いま自分の中にあるものを
そのまま表現している
打算や評価、形式なんてことにとらわれていないし
うまいとか下手だとか
そんなところを超えたところで
映画を撮っている
そんなふうに生きられるようになったら
絶対面白い
自分もこの映画を超えるようなパンを作っていきたいし
うまいとか下手だとか
損得
評価なんて関係なしに
いまの自分をそのままぶつけて生きていきたい
自分の住んでいる町にある食堂の味の濃さは
売れるためにとか
お客さんに合わせてとか
そういうのではなくて
作っている本人が
濃い味の中で育ってきたからだということが
最近わかってきた
そういう人が作るものの方が人気があるのが
現状だ
その現状をどう壊していくか
自分が今から陸上を始めて
東京オリンピックで金メダルを取るよりも
難しいことだと思うが
困難だからこそ
楽しいし
生きる力が沸いてくる
一癖二癖あるものといわれているものの方が
本当はまともなものなのだと思う
味付けの濃い料理の方が本当は一癖二癖だろう
惣菜パンや菓子パンの方が一癖二癖と違うだろうか
いま呼ばれている一癖二癖あるものを作るひとや売る人が
この町に増えてきたら
この町は面白く変わって行くと思う
でもそういう人たちが現れる土壌がこの町にはない
もし現れたとしてもやっていける土壌がない
だから僕はライ麦パンを作り続ける
いまのこの世界で
生きる喜びを感じていきたいと思うなら
自分で自分を作っていくしかないのだろう
これだけ矛盾に満ち溢れている世界
自分に正直に生きようと思えば
苦しいし悲しいし寂しい
それでも
その苦しさ
その悲しさ
その寂しさに
自ら飛び込み
乗り越えていこうと決意したとき
それは喜びに変わり
なにクソーと生きる力が沸き起こってくる
環境が悪いと文句を言ったところで
どうにもならない
そこを超えたところに
きっと最高の喜びが待っている
結果とか名誉とか
そんなものを超えたもの
とにかく
いまやりたいと思うことを
命を懸けてやる
ぶっ壊れてもいいやって気持ちにならなければ
後悔のない人生なんて送れない
自分に正直に生きることなんて出来やしない
見返りを求めたり
打算的になったり
自分を良く見せようとしたり
生き延びることを考えたり
苦しむことから逃げようとしたり
世に必要な人間になろうと考えたり
人生うまくいかせようとか
成功させようなんてことを考えていたり
他人の目を気にして生きていたら
もう人生
後悔の連続だ
固いパンが売れないから
ふわふわのパンを作る
ライ麦パンが売れないから
小麦のパンを作る
お菓子みたいなパンを作る
この町では売れないから
通信販売中心でやる
それで
売れたとしても
そこに喜びはない
粉の味、微生物の力を最大限に引き出すなんてことは
人間に出来やしない
そんなことが出来るというのは人間の驕りでしかない
自分にできることは
自分が出来る限りの力を引き出すこと
店の取材を受けたりするが
パンを食べずに記事を書く人たちも多い
その記事を読んでパンを買いに来る人々
それでいいのかなあと思う
売れりゃいいんだと
甘ったるい食べ物や
粗悪な材料を使った
子供だましのものを作っているところはいっぱいあるが
ものって使う人、食べる人に何らかの影響を与えてしまうもの
子供だからこんなもんでいいやじゃなくて
子供だからこそしっかりとした体験をさせておくべきだと思う
子供の方が感じる力は強いのだから
自分は売れるとか売れないとかじゃなくて
粉の味、微生物の力を出来る限り活かしたパンを作っていきたい
そういうパンは作るのも難しいしが
誤魔化しのないパンを食べてもらいたいし
自分もそういうパンを作りたいと心がそう言っている
観たかった映画が茨城でやっている!
距離にして60㌔
行ける、間に合いそうだ
予定(確定申告の帳簿付け、買い物など)をすべてほっぽって
自転車に飛び乗った2月は外に出たくなる季節
ポカポカの空気がこころをウキウキさせる
この時期に確定申告があるのは本当に邪魔くさい
昨年始まったばかりの小さな映画館
こんな映画館が住んでいる町にあったらうれしい
館主が選んだ一癖、二癖もある映画が観られる映画館
こういう映画館がやっていけなくなるようでは
その町の未来に明かりはない
大型の衣料品店、ファミリーレストラン、コンビニなんかの大きなものに
飲み込まれてしまうだろう
顔のない町
町を作るのは人だ
人を育てることが町を作るということ
国からの補助金をもらって大きな施設や道路を作ることが
町を作ることではない
それが逆に町を壊すことにもなりかねない
人を育てるのは
こういう映画館でやっている一癖二癖ある映画だ
デパートのお子様ランチみたいなものでは
ひとはいつまでも育たない
デパートのお子様ランチの味に慣れてしまえば
お子様ランチ人間になってしまうだろう
一癖二癖あるものが町に増えれば
町も育っていく
もっとも、そういうものに慣れてしまったら
その場所も悪いところではないのだろうから
その場所が良いか悪いかは
人それぞれなのだろうが
前日焼いたパンの割引をやめて臨んだ初日
たくさんのお客さんが来てくれた
きょうはお客さんに支えられてきたことを実感した一日
いままで送料無料で送ってくれていた材料
今年から送料がかかるようになった
問屋から送られてきた説明文がよく理解できず
思い違いをしていることがわかった
なんだかすごい金額の送料がかかる
3万円以上の注文で900円の送料がかかり
粉一袋につき300円の送料
きょう届いた材料にかかった送料は900円+(300円×6)+消費税
ということで近くパン全品値上げをします (おそらく全品10円UP)
それから翌日の値下げもなしになるかもしれません
昨年からパンのディスカウントショップ状態になっていて
利益が出ません
開店からはじめての値上げです
それでも他のパン屋に比べれば
とてつもなく安い値段だと思います
月曜日に作ったけんちん汁が
食べているうちに
美味しく感じられるようになってきた
うまく作れるようになったら
どんな味になるのだろう
本を見ただけでは
出汁もしっかりとれないし
そえぞれの食材の炒め加減もわからない
しっかり作れるようになれば
今回作ったけんちん汁より500億倍は美味しいものになるだろう
やりたいと思うなら
どんどんやっていく
結果も損得も見栄も
な~んにも考えないで
ただ突き進む
きょうはすごい良いパンが焼けたと思う
ここに来てパンの味が一段階上がったような気がする
このパンなら通用するだろうか
このパンなら届くだろうか
このパンでも駄目なのだろうか
このパンでも届かないのだろうか
この町にも
自分の焼いたパンを食べてくれる人はいるし
わずかだがいい方に向かってはいると思う
パンもかなりレベルが上がってきた
通販を再開しようかとも考えたが
そうなると通販と店売りの両立はできないので
店で買ってくれていたお客さんにはパンを買ってもらえなくなる
通販をやっていた頃は
売り上げの6割、7割は通販で得ていたから
買ってくれる人は外の方が確実にいるだろうが
お客さんと接することが出来ないパン屋なんて楽しいだろうか
力が沸いてくるだろうか
大田原市という人口もそう多くな町に
セブンイレブンが15つもあるという恐ろしさ
こういう町でライ麦パンを食べてもらうには
どうすればいいか
難しいことだが
この町の人たちがライ麦パンを
食べ始めたら
おもしろいよね
日曜日に作った小麦のパン焼くとバリバリ
ライ麦15%のパン焼くとパリパリ
両方とも
粉と塩と水だけで作ったのに
これだけ食感が違うのは面白い
そして味の方が最高に良かった
このパンが食べてもらえないで
残ってしまうのは
悲しすぎるぜ
絶対もっと食べてもらえるようにする
人生初のけんちん汁作り
煮干、昆布、干ししいたけから出汁をとって
本を見ながら作ってみたが
簡単ではない
何度も何度も作って
欠片を見つけながら
うまいけんちん汁にしていくしかなさそうだ
パン作りと同じ
きょうのけんちん汁は100点満点で3点くらい
人生初で包丁を研いだ
これもけんちん汁といっしょで
経験が必要
「難しそうだ」と思いがあって
やるのを避けていたが
やってみると
なんかいけそうだ
習得するには時間がかかるだろうが
研いでいる時間はなんだか楽しい
やはりパンは一癖も二癖もあるものが面白い
これだけ癖のあるパンばかり売ってる店はそうないと思う
食べ慣れてくると抜け出せなくなる
こういう美味しさを楽しめるひとはまだまだ多くはないが
こういう癖のある食べ物の美味しさを知ってしまったら
人生が変わる
楽しいことにいっぱい出会えるようになるだろう
食べ物だけじゃなくて
映画や小説、音楽なんかも
スーッとこころを素通りしてしてしまうものが多いが
一癖も二癖もあるものは
楽しいし
こころに残る
癖のあるものの本当の面白さを
知ろうと思ったら
そういうものに普段から触れていなければ駄目なようだ
自分が作ったパンの一癖二癖を素晴らしいと
こころから思えたのは
つい先週だ
十六,七年もかかった
パンのレベルが上がったからかな?
朝食べたパンがあまりにも美味しくて
パンを作りたいという思いを抑えきれなくなった
いつもより何時間も遅く
パン作り開始
きょう並べるのには間に合わないだろうが
明日の朝には販売できる
生きたい
溜め込むことなんて
もう必要ない
自分を搾り出して
搾り出して
ペラペラになるまで
搾り出して
終わりになりたい
店の中に入ると置いてあるのは
ライ麦パンばかりだが
実は小麦のパンのうまさもかなりのものだ
余計な材料が入っていないので
バターや砂糖のいっぱい入ったパンに慣れてしまっているひとには
このパンの良さがわかってもらえないが
逆にこの店の小麦のパンを食べているひとが
他の店のパンを食べたらバターの風味や砂糖や蜂蜜の甘さが
ものすごく邪魔なものに感じてしまうと思う
このところパン作りの方が調子が良くて
うまいパンを連発している
暖かくなって
お客さんも少し増えてきてくれた
といっても全体数はまだまだ少ないので
パンが残るときはとにかく大量に残る
きょうは昼間良い感じにお客さんが来てくれていたので
きのういっぱい残っていたパンがどんどん無くなってくれていった
久しぶりに良い流れになってきたぞと感じていたら
本営業が始まったとたん
流れが止まった
きょう焼いたパンはほとんどそのまま残ってしまった
年に何回か出せるか出せないかというくらいの
素晴らしい味のパンが焼けていただけに
店番しながら
「食べてくれ~」とずっとこころのなかで叫んでいたが
祈り通じず
明日はパンどうしようかな
自分としては
パンが作りたくてしかたがない
もっとパンにのめり込める生活であって欲しい
本当にちょっとずつ、ちょっとずつだが
こういうシンプルなライ麦パンのよさを
わかってくれる人が
増えてきているのは感じられているので
しばらくは
辛抱だ
自分にいまできることは
パンをもっと良いものに作り上げていくこと
今回は病気に気持ちが負けてしまった
最近は日常のなかでも
攻めていけていないことが多い
残りわずかの人生
安定を求めるんじゃなくて
どんどんどんどん
やって
やって
やってで行かなきゃ
きっと後悔する
ようやく軽めの運動が出来るようになってきた
落ちた体力を戻すときというのがいちばん苦しい
とにかく身体が動かないし
呼吸が苦しい
元に戻ることなんてありえないんじゃないかという絶望感は
怪我や病気などで
体力が落ちるたびに感じてしまう
果たして
今回は戻すことが出来るだろうか
自分の焼いたパンを一番食べてくれていた人は
80代の男性なのだが
最近病気が見つかって
今度手術をするらしい
もう15年近く毎週のようにパンを買いに来てくれていた
元気になって
またパンを買いに来て欲しい
こころの支えになってくれた人
月曜日、火曜日の無人販売
パンはほぼ無くなってくれた
自分を元気にしてくれるのは
自分のパンを食べてくれる人達しかない
パン作りは自分にとって
それだけ大きいものになっている
感謝
きょうのライ麦30レーズンは上品な味に仕上がった
いままで品があるものなんては作れなかったが
最近そういうパンが出来てしまうときがある
自分自身が人間として成長しているのかもしれない
本当に良い物には品がある
品を出すのは技術じゃない
作り手の生き方が品となって出てくるんじゃないだろうか
それからきょうの空洞パンは豊かな味わい
手間隙かけて作るからこそ出せる
極上の味
まだまだこういう味を頻繁には出せないが
これだけの味が体験できるところは
探してもそうないと思うので
この店に通っても損はない
10回買いにくれば
一回くらいは極上パンに出会えると思うよ
前の日のパンよりも良いパンを出せるよう
調整しながら日々パンを作っている
毎日作っていても感じること気づくことは
毎日のようにある
きょうは酸味が出すぎたな
きょうは焼き込みが弱かったな
きょうは水が多すぎたな
こういうことが
自分に力をつけさせてくれ
自分とパンを進化させてくれる
だから大切なのは
誤魔化したり
隠したり
逃げたりせずに
今現在の自分をそのまま
出していくこと
出来ない自分も
わかっていない自分も
そうすれば
自然と乗り越えるべきものが目の前に現れてくる
作り手がどんな思いを込めてモノを作ろうが
それは作り手の勝手な思い
それを買って使う人、食べる人には
関係ないこと
使う人、買う人がどう感じようが
何にも感じなかろうが
それは自由
多くの人が日記を公開していて
それを誰でも簡単に見られる時代
日記を書いている人のほとんどは
うまくいかなかったや間違ったことは書かないで
うまくいっているぜ~
順調だぜ~と
そんな感じのことしか書いていないので
何だかうまくいってないなと感じているときに
そういう日記を読んでしまうと
落ち込みが更に深くなることはよくあること
でもそういうときは
自分が自分自身に素直に生きているという
とても素晴らしく
とても誇らしいことをやっていることを
忘れてしまっているときだったり
自分の中にはすべてがあって
足りないものなんて何もないということを
忘れてしまているとき
だからこれから
このことを毎日呪文のように称えながら生きていこうと思う
きっとそれだけのことで世界がガラッと変わってくるだろう
うまくいかないことや間違うことは
悪いことではないし駄目なことでもないと思う
そういうところをみんなが隠すことなく平気で見せ生きられる社会になれば
もっと生きやすく楽しい世界になっていくのではないだろうか
気持ちが落ち込んでいくときというのは
だいたい身体を動かしていないとき
いろいろ考えてしまって
不幸な自分をつくり出してしまう
落ち込み始めたときは
掃除でも庭いじりでもして
身体を動かし始めれば
不思議とすぐに納まってしまう
こころを病む人が多くなってきたことと
便利で快適な社会になってきたこととは
おそらく関係があるのだろう
一度思い込んでしまったものや習慣は
そう簡単に変えることは出来ないもの
ライ麦パンは料理といっしょに食べるとうまいと
いくら口で言ったところで
なかなか料理といっしょに食べてはもらえない
実際に料理といっしょに食べてもらって
おいしさを体験してもらうのが
一番なんだろう
とりあえず
いまのところチーズをのせて提供するくらいしか出来ないが
余裕があるときにお客さんに配って食べてもらおう
ライ麦パンは焼かずに食べた方がおいしいと
ずっといい続けてきたのだが
ライ麦パンは焼いてもおいしいということがわかってしまった
しかもカリカリに焼いても
ある朝、食べようとしたパンがギンギンに冷えていた
寒い日だったので
この冷たいのを口に入れるのは嫌だなあと思って
チェダーチーズをのせてオーブンに放り込んだ
少し暖めるつもりだったのが
放り込んでおいたことを忘れていて
気がついたときは
カリカリなっていた (ライ麦80%のパン)
しかし食べてみると驚く程の美味しさ
一度思い込んでしまったものを
自分自身で覆すことは難しいということがわかった
10数年かかったよ
でも、きっと覆すことが出来ないものの方が多いだ
ライ麦パンの可能性が
自分の中で更に広がった
そして、そのパンを食べて 自分の作ったパンはかなりうまいぞということを
改めて理解した
(自分が持つ力の可能性もけっこう大きいんじゃないのと確信)18.1.21
そして、もうひとつ
わかったことは
パン屋の言うことは簡単に信じるなということ
当たり前のことなんて
何にもなくて
奇跡のようなことが
日々
僕の前で起こっている
生きていること
自分の作ったパンを食べてくれるひとが
ひとりでもいるということ
僕の中には
全てがあって
足りないものなんて
何もないんだ
何かちょっとしたことがあると
不幸な人間になってしまう
でも
じっくり思い起こしてみると
素晴らしい人生送っているよな
毎日素敵なことがいっぱい起こっている
たくさんの人たちが
自分を支えてくれている
何かうまくいかないことがあると
そういうことは
すべてわすれてしまって
世界一不幸な人間になってしまう
パンを作れたこと
素敵なお客さんたちとの時間
うまい酒が飲めたこと
お風呂に入って気持ちよくなれたこと
おいしい空気がすえたこと
いい汗を流せたこと
素晴らしい音楽が聴けたこと
きょう一日だけで
素敵なことがいっぱいあった
生きていれば
嫌なこともあったりするけど
素敵なことは
もっと
もっといっぱいある
いつまでパン屋を続けられるかわからない
わからないけど
自分に出来ることは
その日一日をおもいきり生きるだけだ
生きていること
産まれてきたこと
感謝
僕の中には
幸福の果実が
たくさんあり
もう充分足りているんだ
街中は大型チェーン店の見本市
顔がない町
もう街中には足が向かない
文化のないところでも満足で来ちゃう人の方が
いまの社会で生きていくには幸福なのかもしれないと考えてしまったことがある
マクドナルドのハンバーガーの味に満足で来ちゃうなら
満足で来ちゃう範囲がどこまでも広がっているもんね
でも、いまも探せばまだどこかに文化が見つけられる時代
その文化のに触れることができて
その文化の良さを感じられたとき
自分が考えてしまったその思いが
間違いだったことに気がついた
美がない町は
これからも
どんどん外からの大きなものや効率に
のみ込まれていくことになるのだろう
そして、その町はその町でなくなっていくんだ
美や文化に触れられなければ
ひとのこころは育っていかないし
こころに美も宿らない
物を感じる目もなくなるから
効率効率経済経済で作られたもののなかでも平気で生きていけるようになる
文化じゃなくて文明の世界だ
そういう中で育った人が
その町を作っていくのだから
悪循環にしかならないだろう
久しぶりに夕焼けを眺めに行った
パンを作ることにおいては
自然のリズムに自分を合わせることが出きるようになってきたが
日常生活においてはまだまだ駄目だ
これからの人生
こころゆっくり生きたいと思い
午前中はランニング途中に川に行って遊んでみた
川はいじる必要があるのかというくらいガチャガチャになっていて
美しさなんてどこにもなかったが
水の流れや鳥たちを眺めていると
こころが和んだ
この町に何十年と暮らしていて
美しさにこころ震えさせられたものが
二つだけある
夜空の星と夕焼けだ
最近はそのどちらとも
ゆっくりと眺める時間も無いくらい
こころせかせか生きていたと思う
パン作りをするにあたって
待つという行為はなかなか難しい
営業開始時間がどんどん迫ってくるなかで
自然のリズムを
どうにか人間の都合のよいように持っていこうと焦ってしまう
しかし、何かしたところで
どうにもなるものではない
かえってパン生地の状態は悪くなるばかり
待つしかないんだ
それがわかるようになるのに十数年かかった
季節の変わり目は
パンを作る上で
とても難しいときだ
前の日の通りは
通用しなくなる
きょうのパンは
こうなってしまったから
明日はこうしてみようか
そんなことをして
日々調整しながら
季節に追いついていく
毎年その繰り返し
パン作りで大切なことは
微生物や酵素たちの活動をいかに邪魔をしないで進めていくかということ
そうすれば彼らがおいしいパンをつくり出してくれる
といっても微生物や酵素たちは
おいしいパンをつくり出すために生きている訳ではない
ただ生きようとして生きているだけなのだ
だから人間が少しばかり手を加えて
パンが出来上るように導いてやらねばならない
気持ちよく動き回っている彼らの機嫌を損ねないように
どのタイミングで手を加えてやればいいか
その見極めがとても難しい
そのタイミングひとつで
パンの味はガラッと変わってくる
パン作りは
知識で見てしまうんじゃなくて
感じること
想像すること
パン作りも
知識だけで見てしまえば
他は何も見えなくなる
そこに発展はない
ものごとを知識で見てしまうと
それだけで終わってしまって
感じるということが出来なくなってしまう
パン作りはもちろん
旅先で出会う建築物や美術品なども
こころを打たれたり
こころに何か迫ってくるのは
自分が何かを感じている状態なのだと思う
ものごとを知識で見てしまえば
知識を追うだけで終わってしまうから
感動なんて起こらない
小麦酵母が目覚めてくれた
なんとか、きょうの仕込みに間に合った
酵母の具合が悪いときは
とにかく
待つこと
人間の都合など通じない
自然のリズムに自分を合わせられるかどうか
ようやくそれができるようになってきた
今年はきょうからパンの販売
ライ麦酵母の方は準備万端で捏ねられるのを待っていたが
小麦酵母の方がまだ目覚めていなくて
種類少なめでの出発
小麦酵母は昨年の正月休みも力を弱めてしまっていて
その原因は突き止めることが出来ていたので
今年は気をつけていたのだが
休み中の作業場の室温が
自分の想像以上に冷えてしまっていたようだ
それでも今年は毎日いじってやっていたので
すぐ力を取り戻してくれそうだ
やはり自然の力は自分が考えつくところをはるかに超えている
パン作りは頭で考えるだけではつかめない
頭で考えたらとにかく
ぶつかっていくこと
ぶつかってぶつかって
自然に教えてもらうしかないのだ
損することやうまくいかないことも覚悟の上で
とにかくぶつかっていく
その覚悟なしでは
大切なことは何も
つかむことができないだろう
ライ麦パンをこれだけ安く売っている店は
探しても
あんまりないはずだ
その理由は簡単で
ライ麦は高いからだ
小麦に比べて
1.5~2倍の価格がする
ライ麦パンを
これだけ安く売っているのは
バカか気違いだけだろう
世の中が便利になっていくほど
人のこころはせわしくなっている気がする
新幹線の旅
新幹線がなかった頃の旅
電車や汽車がなかった頃の旅
東京大阪日帰りの旅だって可能になったが
せわしい せわしい
新幹線がなかった頃は
電車の中で
旅館の中で
ゆっくりせざるえなかった
人間がやっていた仕事を機械が代わってやってくれるようになって
時間はできた
それならばと
あれもこれも
あれこもれもと大忙し
会社でも
仕事を広げよう
仕事を広げようと大忙し
そろそろパンを焼き始めようかという気持ちにはなってきているのだが
酵母の状態はどうだろう
営業開始日は酵母の調子次第
昼飯は炒めた長ネギと目玉焼きにいわしの水煮缶をぶちかけたものに
空洞パンをちぎり入れて食べた
空洞パンは味がしみこみやすいので
中に具を詰め込むだけでなく
スープや炒め物や煮物の中にちぎり入れて食べてもとてもおいしい
ライ麦パンは料理といっしょに食べると本当においしい
自分の下手な料理でも
飲食店で食べる以上の満足感を得られることが多いので
最近は外でごはんを食べることがめっきり減った
青森の山の寿司は
残念ながら営業を終了してしまった
青森に足が向かなくなったのは
このことが原因だ
山の寿司の店主成田さんの息子さんのバンド
テレビアニメの主題歌を担当したことがあるので
知っている人がいるかな
マニ ラバ「幸せ」 - YouTube
マニ ラバ「負けるんじゃねぇ」 - YouTube
マニ ラバ「青森駅」 - YouTube
マニ ラバ「上野駅」 - YouTube
近くの福祉大の2年生女性
自転車にはまって
授業の合間を見つけては
自転車に乗っているらしい
上り坂が好きとのことなので
青森県への旅を勧めてみた
何年か前にはじめていった青森県
素敵な場所だったので
その次の年
そのまた次の年も
出かけていった
そのときの日記がまだ残っていたので
UPしてみる
一回目の青森
青森に行った
本当は月曜日の朝に出かけるつもりでいたのだが
数日前に手に入れた25000:1の地図を眺めていたら
はやる気持ちを抑えることが出来なかった
日曜の夜
鞄に荷物を詰め込み
自転車に油をたっぷり注入し
宝の地図を握り締め
店を閉めて飛び出した
日常をちょっと離れて
気分一新帰ってこよう
電車が八戸駅に着いたのは23:00
はじめての青森だ
まずは真っ暗の中をホテル探しから始まった
ホテルがある繁華街は八戸駅周辺じゃなく
本八戸駅周辺らしい
駅前でコンビニのお兄ちゃんと
タクシーのおじさんが本八戸駅までの道を
ものすごく丁寧に教えてくれたのだが
さっぱりわからなかった
一時間自転車でさまよってようやく見つけた
コンビニのお兄ちゃんとタクシーのおじさんが揃って
「わかりづらいよ わかりづらいよ」と言うので
ややこしいところにあるのだろうと
ややこしい道を選んで進んだのだけど
大きな道を進んでいけばよかったようだ
2日目は5:00にホテルを出て陸奥湊駅前市場へ
ここはおそらく八戸でいちばん活気のある場所だろう
おばちゃんたちが朝から元気だ
青森に行くと決めてからは頭の中が海産物でいっぱいになっていたので
刺身を大量に買い込んだ
市場内には買ったものを食べられる場所があり
そこでご飯や味噌汁を買って朝から豪勢な食事だ
魚の味が普段栃木のスーパーで買って食べているものとは
明らかに違う
でもさすがに買いすぎた
どさっと盛られた刺身が5皿
最後はお茶といっしょに飲み込まなければ喉を通っていかなかった
ものにはなんでも適量 適度というものがある
それを越えればおいしいものもおいしくなくなったり
楽しいことも楽しくなくなったり
うまい具合にバランスが取れていたものが
バランスを取れなくなったりということが起こってくる
欲張り過ぎればろくなことがない
それにしてもこれだけ食べて1400円とは
イカ200円 タコ200円 サンマ200円
ヒラメ300円 エンガワ300円
ご飯100円 味噌汁100円
飯を食ったら八戸駅から電車に乗って蟹田駅へ
そこから自転車で津軽半島を回って弘前まで走る予定
輪行は今回が初めで
自転車の分解 組み立て 袋への詰め込み 電車での置き場所
不安なことはたくさんあったが
今回の旅で何度もそれらをやる機会があったので
だいぶスムーズに出来るようになった
大切なことは経験することだ
不安がって何もやらなければ
何も動いていかない
蟹田10:30発
スタートするとすぐに海が見えてきた
向こうに見えるのは下北半島か
国道280をずっと進めばいいので方向音痴のぼくにも迷わない
漁師のおじちゃんおばちゃんが網の修理や談笑をしている
おじさんがひとり堤防に座って海を見ている
道は広いし行きかう車もほとんどない
気温20度
気持ちがいい
ここは自転車天国だ
しかし「あと10周くらいしてもいいなあ」と余裕こいてるのも
ここまでだった
龍飛崎の手前から上り坂がはじまり
坂はどこまでも続いている
額から汗が滴り落ちる
力を搾り出してペダルをこぐ
底力というか
最後の踏ん張り
ボクシングをやっていても思うのだが
何をやるにもこれがいちばん大事なのではないだろうか
気持ちが負けてしまったらその時点で終わりだ
「やるぞ~」と決意した時点で怖さは喜びに変わり
エネルギーが沸き起こってくる
ようやくたどり着いた
標高478m眺瞰台展望台
喘いだ先には絶景が待っていた
360度の大パノラマ
八甲田山 権現崎、竜飛岬 北海道 日本海 陸奥湾
水筒の水を飲み干してしまっていたので
持って行ったレーズン入りのパン
(ライ麦40パーセント噛みごたえのある平焼きパン)を取り出して
食べたらからだを目一杯使った後ということもあったのかもしれないが
最高に美味かった
峠へと来れば後は下るだけだ
くねくねのきついカーブにバスも苦労している
バスを追い越さないように何度か止まりながら下った
小泊の道の駅でひとり車でドライブをしている弘前のお兄ちゃんから
話しかけられた
行く先々でぼくが自転車をこいでいる姿を見かけたので気になっていたそうだ
ぼくも立ち止まる先々でこのお兄ちゃんがイカ焼きを食べたり
アイスクリームを食べたりしている姿を見かけていた
小泊から弘前までが思っていた以上に距離があった
25000:1の地図ではすぐ隣の距離でも
実際にはその25000倍した距離
近くに思えていたものがぜんぜん近くないことがわかったときの
精神的ダメージはかなり大きい
自転車の旅には25000:1の地図は向かない
しかし遠くても
ひとり旅だ
のんびりいけばいい
どこまで行くかも 進む早さも 行く場所も自分で決められる
人生について考えることも出来る
そしてやったことのすべてが自分に返ってくる
こころ細さはあるけれど
気を使うことも せかせかすることもなく
こころのままに行動できるのがひとり旅
ひとりで何かをやる
ふたりで何かをやる
大勢で何かをやる
ひとりだからできること
ふたりだから出来ること
大勢だから出来ること
ひとりではできないこと
ふたりではできないこと
大勢では出来ないこと
ひとりだからこそ得られるもの
ふたりだからこそ得られるもの
大勢だからこそ得られるもの
岩木山のシルエットが見えてくる
美しくそして堂々とした姿
人々がこの山を御神体と崇めてきたのもわかる
21:00弘前着
3日目 弘前市内から岩木山へ
岩木山からもう一度弘前に戻って十和田湖へ
弘前初7:30
気温20度
数週間前まで40度を越えるなかで連日パンを焼いていたので
半分の気温の世界にいるのが不思議に思えてしまう
今年はとにかく暑かった
夜になっても熱がからだから抜けていかない
夏は強いつもりでいたけれど
梅雨の時期から眠れなくなり
毎日がフラフラだった
9月に入ってからも
気温が下がらず
朝の5:30でもすでに作業場は30度を越えている
温度だけなら何とかなったのだけど
ジメジメの重たい空気が
からだそしてこころにのしかかってくる
さすがにこれ以上続くとやばそうだなと思っていたら
熱中症
ダメージが大きくてなかなか抜けきらなかったのだが
この旅でなんとか回復できそうだ
弘前から岩木山までは約20KM
弘前も八戸も街なかは交通量が多くごみごみしていたが
ちょっと離れれば空気の味がまったく違う
岩木山を上り始めると道路の両側にりんご園が続く
赤いりんごが枝もたわわに実っている
それぞれの農園が道端に無人販売所を設置している
りんご4個100円 洋ナシ2個100円 野菜1袋100円
りんごや洋ナシをかじりながら自転車をこいでいると
今度はとうもろこし屋が並んでいる
獄温泉で足湯に使っていると
そこを管理しているネイチャーセンターのおじさんがやってきた
青森で生まれ青森で育ったそのひとは
「青森はいいところだよ」と言って笑った
自分が生まれ育った場所をそんなふうに言えるひとはそういないだろう
どうしても他と比較してしまって
自分のところに無いものは
良く見えてしまう
そういえば道の駅で話しかけてきた兄ちゃんも
青森は面白いところがいっぱいあるよと言っていた
とうもろこしを食べてみた
ものすごい甘さ
「獄きみ」といって朝夕の寒暖の差と火山灰による水はけの良さが
その甘さを作り出すそうだ
本当に甘くて
3本目になってくるとさすがにその甘さがきつくなってくる
「獄きみアイスクリーム」もとうもろこしの味が広がっておいしかった
上あごと舌で押さえ込むとコーンスターチを手で握ったときのように
グニュッとなる
弘前を過ぎてしばらくすると雨が降ってくる
そしてまた上り坂が始まった
上っても上っても坂が続く
「天国にでも連れて行ってくれるのか」と罵りながら上っていく
雨具の中は蒸し風呂状態だし視界も利かない
初めての山は
どこまで行けばてっぺんなのかわからない分
精神的にかなりきつい
永遠に続くのかと思えた上り坂もやっとこ終わり
1011m御鼻部山展望台に到着
そこから奥入瀬の入り口までの10数kmは下り坂だ
ブナのトンネルのなかを
風を切って走る
最高に気持ちがいい
苦労した分
喜びも大きい
十和田湖を一周してホテル到着16:30
温泉に入ってひと眠り
本を読んでまた温泉に入り
夜はゆったりくつろぐことが出来た
4日目は十和田湖を半周して奥入瀬渓流 八甲田山を抜けて
青森市三内丸山遺跡へ
ホテルから奥入瀬まではまた十和田湖を半周しなければならない
十和田湖一周約50kmだからけっこう大変だ
ブナの林の中を少し散歩をし
温泉に入ってから
坂道をぐいぐい上って鼻部山展望台を目指す 十和田湖発7:30
距離的には逆周りで行った方が近いし上りも少ないのだが
坂道をがんばって上ってしまえば後は奥入瀬まで下っていけるから
景色の良いこっちの道を選んでみた
からだがだいぶ上り坂に慣れたのか
温泉に入って疲れが取れたのか
きょうは上りがかなり楽に感じられる
太陽が出ているのできのうとは景色が違って見える
鼻部山展望台から下ってからも
14kmの下りが続く奥入瀬渓流
道路のすぐ脇を川が流れているので自転車でも十分楽しむことが出来る
途中途中に滝が流れ落ちていて飽きることがない
紅葉の季節はきっとひとだらけだろう
渓流を眺めながら気持ち良く坂道を下っていると
後ろでカラカラッと何かが転がる音がした
何か落としたかなと後ろを振り向いた瞬間
ハンドルが持っていかれた
立て直すことが出来ないまま
國母もビックリ3mある垂直の崖を
自転車に乗ったまま回転しながら
落ちていく
落ちながら
これまでに大きな怪我をしたことはなかったのだけど
今回ばかりはやばいなと思った
落ちた瞬間はあっという間だった気もするし
一瞬時間が止まった気もする
気がついたら水の中に落ちていた
頭の上からごぼごぼと水が落ちてくる
渦に巻き込まれたかと思って
必死になって自転車を陸に持ち上げ
自分も這い上がった
からだを手で触ってみたが
血が出ているところもなくたんこぶひとつと眼鏡をなくしただけで
なんとか無事のようだ
それでも寒さと恐怖でからだが震えてくる
落ちたのが水の上だったから良かったようだ
岩や石の上に落ちたらどうなっていたか
落ちた場所は道路の反対側の滝から流れ落ちる水を通し入れているところで
胸くらいまでの深さがある水の溜まり場だった
頭から落ちてきていたのはその水だった
直径は2mくらい
その周りは石ころが転がっている砂地
ひとの命なんて1cmや2cmの差でどうなるかわからない
着替えをするとだいぶ落ち着いてきた
鞄に雨よけのカバーをつけたままにしておいたので助かった
生きていれば一瞬先に何が起こるかわからない
どんなに気をつけていても
起こることは起こってしまう
それを乗り越えていくことが人生だし
そこに 生きていく醍醐味がある
奥入瀬渓流を抜け
しばらく山道を登っていくと
蔦温泉がある
昔ながらの温泉宿だ
誰もいない湯船で冷えたからだを温めた
からだが温まってきたら
生きていたことの喜びがじわじわと沸き起こってきた
ぼくにはまだまだやることがある
雨に濡れ
川に落ち
温泉に入ってと
水に入る度に
真っ黒だった靴の汚れも落ちて
真っ白になっていったが
こころもいっしょに浄化されていった気がする
もうカッコウつけることも
抑えることもしないで
泥だらけになろうが
水浸しになろうが
思ったままに生きていこう
失うものがあるとしても
身ひとつさえあればそれでいい
かなり上の方まで上ってきた
きょうは強風だ
上の方に行くにしたがって風は強くなる
飛ばされそうになりながら
踏ん張ってペダルをこぐ
八甲田山の上の方は少しだけ紅葉が始まっていた
標高1040m笠松峠ここからは青森市街近くまで20km近く下りが続く
途中千人風呂で有名な酸ヶ湯温泉に寄って入浴
ぼくのなかではいままでいった温泉の中でベスト1
お湯がいいし、この空間がいい
最高に気持ちいい気分になった後は
これまた気持ちの良い下り坂が待っている
14:30 三内丸山遺跡に到着
縄文土器や土偶ペンダントや矢じりの数々が並んでいる
便利で安心で安定した世界に生きていては得られない
喜びや力強さを感じる
便利で安心で安全で安定していることが本当に良いことなのかと思ってしまう
便利なものが揃っており容易に出来てしまう
危険を感じることなく容易に欲しいものが手に入ってしまう
そこに属してさえいればほぼ確実に収入があり生きていくことが出来てしまう
困難な思い怖い思いをしてをして手に入れるからこそ
相手に対して尊敬の念を持つことが出来て感謝する気持ちが生まれてくる
きっとその感謝の気持ちを忘れたらときひとはおかしな方向に向かってしまう
17:00青森駅到着
もう一泊する予定だったが行きたい思っていたところは
ぜんぶ回ってしまったし眼鏡を無くしたので
栃木に帰ることにした
青森期待以上に良いところだった
またいつか行くかもしれない
今回はよくこいだ
自分で作り出してしまっている限界という存在を
頭の中から完全に取り去ってしまうことは出来なかったが
やっている瞬間だけは限界を消すことが出来ていたと思う
2回目の青森
夏の旅のこと
日曜日
青森へ出発
店を終えて自転車で那須塩原駅に向かう
休みに備えての準備で忙しい一日だった
出発直前にお客さんが来てしまい
電車に間に合うか不安があったが
駅に着いてみるとまだだいぶ余裕があった
17:35那須塩原駅を出発
24:00ちょっと前に青森到着
東京からは新幹線一本で行けることになったのだが
栃木からだと一、二度乗換えをしなければならない
しかも「はやぶさ」が登場してからは
はやぶさ通過待ちなんてことも出てきた
これが資本主義というものだ
月曜日
目を覚ますと雨の音が聞こえる
お約束の雨
年に二回くらいしか旅に出ることはできないのだが
旅に出るとかならず雨や風にぶつかる
それも半端ものでない雨風
天気予報を見てみると
大雨注意報が出ている
降水確率午後午前ともに100%
まだ小降りだったので
宿近くの古川市場に朝飯を食べに行く
ここは観光客を引き寄せるのに成功して大変賑わっている市場
観光資源の豊富さでは青森は日本で最上位だろう
やる気さえあればいくらでもひとが呼べる
古川市場は少量から買えるのでひとりにはうれしい
のっけ丼なるものもやっているのだが
魚の味をしっかり味わいたいのでご飯なしでお皿に盛ってもらう
カンパチ イクラ ウニ 活けアワビ 煮アワビ サザエ シャコ
白魚 ホタテ もずく
極楽、極楽
あとは酒さえあれば文句なし
市場を歩いていると
売るのがうまいひと
うまくないひとというのがいる
若いひとの方が売るのはうまい
だけど買った後は味気なさが残る
おばちゃんたちは売るのは下手だけが
おまけをしてくれたり
笑顔をお見せてくれたり
買った後に喜びを残してくれる
宿に戻って自転車を組み立て出発しようとしたのだが
外はものすごい雨
しばらく躊躇していたが
治まりそうもないのでおもいきって飛び出した
雨粒がメガネに当たって視界がほとんど利かない
きょうは鯵ヶ沢で魚と焼きイカを食べて
日本海を下れるところまで下ってやろうという予定
青森は場所の行き先を示す標識がしっかり立っているし
郊外に出ると道路が少なくなるので
方向音痴の自分でも道に迷うことなく旅が出来る
壁に衝突し後輪が外れるアクシデントに見舞われながらもなんとか
13:00近くに鯵の沢に到着
『地魚屋 たきわ』で焼き魚を食べる
本当はきょう食堂の方は休みのようだったようだった
この時期土日くらいしか鯵ヶ沢に観光客が来ることはないのだろう
それに雨も降っているし
人口の少ない場所で飲食店をやっているひとたちの苦労
自転車で回っていると言ったら
女将さんが「ご苦労さん」と言って
途中で食べるようにすり身の揚げ物を渡してくれた
ひとり旅をしていると
ひとのちょっとした温かみが
こころに沁みる
ひとに接するとき打算的になってはいけない
商売でもそう
そのまんま
人間として
普通にぶつかっていけばいいだ
こころとこころのぶつかり合い
焼きイカ街道でおっちゃんから焼きイカを二つ買う
青森のひとはむすっとしていて
第一印象は良くないのだけが
話してみると温かいひとが多い
躊躇していて出だしが遅れたので
出発前に考えていたよりかなり進みが遅い
十二湖入り口に着いたときはもう薄暗くなっていた
沸壷の池と青池は見ておきたかったので急いで回ってこようと
自転車を走らせたが
上り坂でやがる
ヒィヒィ言いながら何とか上りきって
自転車を飛び降り
ブナの原生林の中を猛ダッシュ
沸壷の池 青池
自分の中にいままであった世界にはない世界
リゾート白神に乗って秋田市まで移動
昼間なら美しい海岸線が眺められただろうが
もう何も見えない
行きたかった居酒屋に向かったけどもう暖簾が下りていた
がっくり
別の居酒屋で地酒と共に真イカの刺身 〆鯖 ぶりカマの塩焼きを食べる
美味しかったので
これでよし
火曜
きょうは秋田市から田沢湖を通って宿泊予定地の乳頭温泉 鶴の湯まで行く予定
また雨だ
きのうに続き本日も大雨注意報が出されている
きのう大雨の中で自転車をこいだことで
もう怖いことなしにはなったが
やはり雨の中での自転車乗りは疲れる
覚悟はしていたけど上り坂が続く
距離的にはたいした距離ではないのだが
平坦な道、上りの道、下りの道
それからそのときの体調や気分によってもだが
5キロの道のりが長く感じたり短く感じたり
同じ5キロでもぜんぜん違うもの
予定していたより2時間半も遅れて鶴の湯に到着
最後2kmの道が凄かった
ここまで知られていたら秘湯も何もないだろうが
本当にに山の中
期待感が膨らんでいく
鶴の湯到着
早速風呂に入って温まる
大人気の広い露天風呂では会話は生まれないのだが
小さな内風呂では知らないひと同士会話が始まる
会話が始まるような距離というものがあるのだろう
夕食がとてもうまかったので
酒もうまく感じる
芋汁はどれくらい前からこの旅館にあったのだろう
できた頃から味は変わらないのだろうか
それとも進化し続けているのだろうか
部屋は何もなくてシンプルなのだがとても落ち着く
木と畳の部屋
ぼくはやはり日本人だ
広さもちょうどいい
洋式の部屋は広い方が落ち着くが
和式の部屋は狭い方が落ち着く気がする
こんな部屋で暮らしていたら
欲もそれほど出ないだろうし
悪いことも思い浮かばないんじゃないだろうか
水曜
夜明け前に露天風呂に入りに行く
月曜日が満月だったので
天気がよければきょうもほぼ満月だったのだろうが
月は見られなかった
しかし夜明けと共に空か輝いでいく
乳白色の湯がとても美しかった
2時間近くお風呂に浸かって
この風景を頭とこころに焼く付け
朝飯を食べて出発
きょうはもう一度新幹線で青森まで戻り
宿泊地黒石の青荷温泉へ
きのう必死になって上ってきた坂道を一気に下る
上りがあるなら必ず下りもあるのだ
空気を切ってずんずん進む
12:00ちょっと前に青森駅に到着
駅近くの市場でちょっと買い物してから
卸売り市場に移動
市場内の『山の寿司』へ
3千円のコースをお願いしたら
大間の大トロと霜降り 八甲田のマツタケ ウニ ワラサなどなど
かっぱ巻きなど出てこないのがいい
東京で食べたら一万円だしてもこれだけのものは食べられないだろう
もちろん5万10万出したところで鮮度が違う
さっとつまんでさっと店を出て山をちょっと歩こうと思っていたけのだが
大将の話が止まらない
山歩きは諦めて大将の話に耳を傾けることにした
せかせかしていてはおもしろいことがあっても逃してしまう
おかげで良い時間が過ごせた
ひとりできた客を大切にしない店や宿があるけれど
ひとりのお客さんほど大切にした方がいいのではないか
ふたり以上で来たひとは喜びがあっても
その場で喜び合って終わってしまうが
ひとりの場合はうれしいことがあっても喜びを分かち合うひとがいないから
旅を終えてから他のひとに喜びを伝え広めてくれる
八甲田をヒィヒィ言いながらこぎ上がるともう16:00を過ぎていた
黒石まではずっと下りだから
すぐ着くだろうと余裕しゃくしゃくでいたのだが
寝耳に水
最後の6KMから急な上り坂がはじまった
もうちょっとで到着だとホッとしたところで
いつ終わるともわからない上り坂
このショックわかるだるか
暗闇の中を目を凝らしながら進み
ようやく本日の宿 青荷温泉に到着
夕食の時間が18:00からだったらしく
宿のひとはなかなかやってこない客を心配していたようだ
夕食は小さなテーブルに知らないもの同士が
向き合って座って食べるようになっている
ひとりで来たひとは
ひとりで来たひとたちのかたまりの中で食べるよう配慮されている
自然と知らないひと同士会話が生まれて
食事もおいしくなってくる
ひとはみなさびしさで繋がっているんだ
この宿には電気がないので
ランプの明かりのなかで過ごすことになる
風呂も部屋も真っ暗だ
木曜
きょうは奥入瀬渓流を歩き八甲田をこぎ上り
今夜もう一泊する青荷温泉に帰る予定
はたして18:00までに帰ってこれるだろうか
まあ帰って来れなくてもいいや
おもいっきり楽しんでこよう
青荷温泉を脱出して国道102を進む
なんだか見覚えがあるなあと思ったら
ここは昨年大雨の中を泣きそうになりながら走った道だ
延々と続く上り坂
去年は泣きそうになったが
今年は天気が良かったので
苦しさも半減
周りの景色を楽しみながら上ることができた
左手に渓流右手にブナの林を眺めながら
グイグイと進んでいく
今回の旅で自転車のギアがあと二段も軽くなるんだということがわかったことと
頭が前輪を越えるくらい前傾姿勢になって立ちこぎをすれば
腰が痛まないことがわかったので上り坂も昨年ほど苦でなくなった
御鼻部峠から奥入瀬渓流入り口までは長い下りが続く
長い下りは長いブレーキングと緊張感で想像以上に疲れてくる
昨年3Mの崖から奥入瀬渓流に自転車ごと落ちてしまったのも
この坂を下り降りて
気力と集中力を切らせてしまったことにも原因があたのではないだろうか
きょうは渓流をじっくり見たいという思いはもちろんあったのだが
昨年の事故現場をもう一度見ておきたかった
道路の向こう側の水を塩ビ管を通して流し込んでいる場所で
直径3Mくらいの水溜りになっている
奥入瀬渓流の脇の道路を下っているときに
何かが落ちたような物音に振り向いた瞬間
ハンドルを持っていかれ
3M近くある崖から落下
落ちる瞬間は今回ばかりはもうダメだろうと思ったが
気がついたら水の中
頭を出そうとすると水が勢いよくぶつかってくる
流れに巻き込まれてしまったと思って
慌てて自転車をつかみ岸に上がってよくみると
頭にに当たっていたのは
塩ビ管から落ちてきていた水だったという漫画みたいな
そして恐ろしい体験だったのだが
後になって思うとその出来事が旅を深いものにしてくれていた
ゆっくりと下っていったののだが今回は残念ながら
見つけることができなかった
八甲田を少し上がり蔦温泉に到着
まずは腹ごしらえ
きのこの煮込みを食べながらビールを飲み
カレーライスを頼む
いい味だ
また青森に来ることがあったらここに泊まろう
若い女性従業員の対応も気持ちが良い
蔦温泉の周りを囲むようにある
ブナ林を散策
蔦沼が期待していた以上に美しかった
散策を終えて温泉で身体を温めリラックス
この温泉は昨年奥入瀬に落ちたときに
寒さと崖を落ちた恐怖でぶるぶる震えながら
入った温泉
だからこの温泉とその後に入った
もうすこしこし上ったところにある酸ヶ湯温泉はぼくにとっては生涯ベスト1の温泉なのだ
脱衣所で会った地元のおじちゃんもここがいちばん好きな温泉だと言っていた
温泉にお入って疲れも抜けた
快調に坂道を上る
初日に膝と足の付け根を痛め
今回の旅は続けられるのだろうかと不安に思っていたのだが
温泉に入ったら翌日には痛みなんてどこかに吹っ飛んでいた
今回の旅で温泉の力というものを始めて知った
昨年見逃してしまった睡蓮沼に到着
ここは良かった
どうやらぼくは湿原が好きらしい
国道394を通って青荷温泉に向かう途中に城ヶ倉大橋というのがある
ここからの眺めはちょっと恐怖だ
高いところは大の苦手なので
こんなもの作って落ちたらどうするんだよと吠えながら
なるべく中央線に寄って通り抜ける
きょうは夕食の30分前に宿に到着
風呂で一息ついて食堂に向かう
そういえばきのうほど暗さを感じない
慣れるものなんだ
便利さに慣れてしまうと
そこから抜け出すのは大変だが
やる気になりさえすれば抜け出すことはできるんじゃないだろうか
立ち止まることができるんじゃないだろうか
便利さなんてある程度取っ払ってしまった方が
豊かな人生を送れる気がする
きょうの夕食でも新たな出会いがあった
とても良い顔をしている奈良県から来ていたひと
ぜったい面白いひとに違いないと思ったけどその通りだった
渓流釣りが一にも二にも大好きで
仕事でどこかに出かけるときでも
釣りの道具は必ず持っていくそうだ
食事の後にSさんに誘われて
喫茶店でコーヒーをご馳走になっていたら
そこで談笑していた方たちとも自然と輪ができた
昔の日本はきっとこんな感じだったのだろう
いままでは旅に出ても
ビジネスホテルにしか泊まらなかったことがなかったので
こんな出会いは当然なかった
温泉宿はそういう世界がまだ残っている希少な場所
大切にしていかなければならない
だいぶ長く話し合っていたので
もう23:00頃にはなっているだろうと
壁にかかっている時計を見たら
まだ21:00だった
ここでは時間がゆっくりと進む
いまの社会では
電気(明かり)があるから
夜が夜でなくなっていて
みんな遅くまで仕事に追われているが
ここでは明かりがないから
夜はしっかり夜だ
ちゃんと
そこに夜がある
暗い中ではそうできることも少ないので
せかせか生きることもない
時間はゆっくり流れていく
そしてここでは
ひととひととの触れ合いがある
明治生まれのひとが書いたエッセーを読んでいると
あの時代はとても厳しい時代だったはずなのに
人々のこころには余裕があった
楽しんで生きていた
豊かに生きていた
人間として生きていた
便利な世の中に向かっているのに
時間が無い 時間が無いと
走り回っているのはどういう訳だ
こころの余裕もなくなって
いつもイライラして生きているのはどういう訳だ
金曜
きょうは歩く
酸ヶ湯から八甲田大岳そしてまた酸ヶ湯に
8km~9Kmのコース
8~9KMなんて平坦ならゆっくり走っても1時間かからない
たいして時間もかからずに帰ってこれるだろうと考えていたが
山道の1Kmがこんなに長いものとは
即製で作ったリュックのひもが肩に食い込んでくる
腹が減った
眠い
連日の自転車こぎで足が重たい
頂上付近はものすごい風
途中で引き返そうかなと何度も思ったけが
そんなことしてしまったら
きっとまた来年登りに来なければならなくなるから
気力を振り絞って歩いた
酸ヶ湯に着くと速攻で食堂に向かって
ビールをグビグビやりながらそばを食べた
しみじみうまい
今夜は酸ヶ湯に宿泊
チェックイン前に
旅館前にある湧き水を飲みに行くと
下山を始めてすぐに逆方向から登ってきて一言二言交わした女性とばったり
地元の方とのこと
青森のひとはみんな自然に寄り添って生きている
山できのこや山菜を採り
川で岩魚や山女を釣り
山を歩いたり
スキーをしたり
温泉に入ったり
自然のすばらしさ 価値をを知っているから
自然を大切にする
だからこれだけの自然が残っているし
人間も自然に
育てられているのではないだろうか
それから青森には美しいひとが多い
顔が整っているとかきれいだとかいうんじゃなくて
きりっとした
いい顔をしている
酸ヶ湯はやっぱりいいお湯だった
土曜日
雨が降りそうだけが
午前中は何とかもってくれそうだ
八甲田山をグルリと回って田代平湿原に向かう
途中ススキで覆いつくされた美しい場所があった
青森はなんて豊かなところなんだろう
木があり
水があり
温泉があり
うまい食べ物がある
宝がそこらじゅうに落ちている
花の盛りが過ぎているためか
時間が早いからなのか
田代平湿原にはひとが誰もいない
田代平湿原を独り占めだ
軽くランニングをしながら見て歩くと
入り口付近に龍神池という沼があり
その水の青色にはびっくり
どうしたら
こんな色が出来るのだろう
別の池には温帯性睡蓮という直径3cmくらいのかわいらしい睡蓮が咲いていた
今回は気づくことや感じることがとても多い旅となった
そのまんま生きていけばいいんだ
感じるままに
変わることは変わるし
変わらないものは変わらない
変えるべきものは変えればいいし
変えるべきでないものは変えなければいい
自由でありたいなら
他のひとも自由だということを忘れてはいけない
押し付けてはいけないんだ
他のエネルギーになんて頼ることなく
自分自身から沸き起こるエネルギーを使って生きていこう
原子炉になんて負けないくらい
輝きを放ってやるんだ
駅前で寿司を食べて
市場で塩ウニを買って新幹線に乗り込む
酵母は生きているだろうか
17:35那須塩原駅に到着
3回目の青森
夏の旅行 一日目 その1
前日に突然思いついて旅行に出かけることになった
行き先は盛岡
店に置くベンチや椅子を探しに
それが済んだら青森にも行くかどうか当日の朝まで迷った
青森に行くなら自転車を持っていくべきだろうけど
なにしろ突然の思いつきなので
準備がまったくできていない
雨具もないし自転車のチューブもない
迷いに迷ったけど
出かける一時間前に青森行きを決めた
いままでの経験で行くかどうか迷っているときは
行って間違いない
夏の旅行 1日目 その2
青森に行くことは決めたが
今回は自転車を持っていくのを止めた
準備ができていないという理由もあるけれど
祝日の出発なので電車が混雑していそうだし
山を歩きたいなという思いもあったからだ
家から最寄の駅までは歩いていくつもりだったのが
ちょうどバスがやってきた
幸先良し
夏の旅行 1日目 その3
盛岡の家具屋さんはすぐに見つかった
ここの家具を知ったのは東京に住んでいた頃だったか
店を始めてからだったか
東京の表参道で偶然入ったお店にここの家具が置いてあって
その木で作られた美しい家具に一目惚れ
その店にはそれからちょくちょく通っていたが
数年前店主のSさんが亡くなり無くなってしまった
自分より10歳くらいは年上だと思っていた店主が
自分と同じ歳だったことを知り
驚いたのと同時に時間の大切さを思った
いつかこの家具を使おうと思いながら
10数年
ようやくそのときが来た
表参道のお店で買うことは叶わなかったが
運命の家具との久しぶりのご対面
向こうもぼくを待っていてくれた
栓の木のベンチと栗の木のテーブル
一目で気に入った
盛岡の店のひとたちも温かいひとたちで
Sさんと重なった
この家具に魅せられるひとたちがそういうひとたちなのだろうか
それともこの家具といっしょにいるからそうなるのだろうか
夏の旅行 1日目 その4
青森に移動して
新青森駅から市街地まで5Kmの距離を歩くが
暑い
青森のくせして暑い
古川市場で遅い昼食(ホタテとイか刺し)をとり
街中をぶらぶらしてからホテルにチェックイン
シャワーで汗を流して
今回の青森行きでいちばん楽しみにしていた『山の寿司』へ
祝日だから休みかもと不安に思いながら
5Kmの道のりを歩いて青森の卸売り市場へ
「関係者以外立ち入り禁止」の門をくぐって店の方を見ると明かりがついてる
3000円のおまかせを頼むと
「きょうは最後のお客さんだから最上級のおもてなしをしちゃいますよ」と店主
本当に最上級のおもてなしで
次から次へとお寿司が出てくる
それといっしょにしゃべりも次から次へと飛び出してくるのだけど
それもまたおもてなしだ
会話は旅人への最高のもてなしなのだ
3000円のおまかせはお寿司8貫のはずなのだが
赤貝
エンガワ
イカ
ホタテ
真鯛
大間の霜降り
大間のカマ
ヒラメ
アワビ
こはだ
甘エビ
特級イクラ
ウニ
玉子
筋子の手巻き寿司
大間マグロの手巻き寿司などなど
いったい何個食べたのだろう
わんこそば食べているみたいだった
寿司屋でおまかせコースを頼んで
お腹いっぱいで苦しくなったのははじめてだ
しかもこんなにうまい寿司を食べたのは
産まれてはじめて
青森だからといって
どこで食べてもうまいというわけではない
これでビール2杯を飲んで4200円
さすがにそれでは悪いのでお釣りは置いてきた
大満足 もうこのまま栃木に帰ってもいいやと思った
お寿司が食べたくなったらまた来よう
行く前はお寿司を食べたら居酒屋にいこうとも考えていたのだが
(帰りに走っているうちにお腹にすこし余裕が出てきた)
もうこころが満足してしまっているので
これ以上食べてもなんの喜びもないだろうからやめた
青森に行ったなら
奥入瀬に行かなくとも
白神山地に行かなくとも
この寿司屋だけには行くべきだ
夏の旅2日目
朝は古川市場に行って
うにわさび漬け 子持ちヤリイカ ホヤの塩辛を白いご飯で食べる
酒が飲みたい
その後バスで蔦温泉へ行き周辺の沼めぐり
いちばん行きたかったのは赤沼
水深があたなら透明度は湖沼のなかでは日本一ではないかといわれているところ
しばらく前に
ある写真集で赤沼の写真を目にして
ここは行きたいぞ!と思ったのだ
道に迷い迷い
ヤブをかき分けかき分けやってきたので
赤沼との初のご対面には達成感と感動があった
このすばらしい景色の中に人間がだれひとりいない
このすばらしい景色を独り占めだ
朝 市場で買ったウニでうに丼を作り
この風景を楽しみながら
(お箸がなかったので)手づかみで食べた
なんだか鞄に酒も入っていたので酒も飲んだ
帰りは来た道を引き返す自信がなかったので
蔦トンネルの手前に抜ける道を選んだ
満足も満足大満足
もう一泊して奥入瀬渓流も歩いてこようかと考えてもいたのだが
もうこれ以上こころの器には何も入りそうもないので
これで今回の旅を終わりにすることにした
谷地温泉まで走って温泉で疲れと汗を流したら
ちょうどバスの時間
あと10分遅れていたら次のバスは2時間後
最終の新幹線にも間に合わなかっただろう
那須塩原から家までのバスもぼくを待っていてくれた
今回の旅は順調すぎるほど順調だった
そしてこんなことは初めてで
天気の崩れがまったくなかった
人生は積み重ねていくよりも
積んでは崩し
積んでは崩ししていく方が
面白いのかもしれない
いつだって0からのはじまりだ
本当に面白くなってくるのは
0になってからだ
そこからどう上っていくか
いや違うか
もっと面白いのは
ぶっ壊し始めるときかな
跳べ 跳べ
目の前のそれを
ぶっ壊して
舞い上がれ
変えられるものと
変えられないもの
変えるべきものと
変えるべきでないもの
変えたいと思うもの
変えたいとは思わないもの
HPが突然消滅して
新しくHPを作ったが
まだ新しいHPの存在を知ってもらえていないので
遠くからのお客さんがなかなか来てくれない
店は実在しているのだが
実在しているものや事実よりも
インターネットの情報の方が力を持ってしまうという危うさ
日本をもっと知りたいなあと思って
外に出て歩いても
日本にはなかなか出会えない
近所を歩いていても
もうここに栃木はない
マクドナルド、セブンイレブン、ユニクロ、吉野家、デニーズ
木々の中を歩きたいなあと思っても
近くには木がない
あっても杉の木ばかりだ
かえって東京に行った方が木にいっぱい触れられる
公園や庭園、ビル前の小庭園
自分の住む町では何かを造ったり建てたりするとき
とりあえず木を全部伐採してしまう
公園に行っても木なんてほとんどない
新しく出来る公共の場にはとりあえず桜の木が数本植えられるといった感じだ
もう数年すれば木よりも太陽光パネルの数の方が多くなってしまうかもしれない
天気がよかったので
店を無人販売にして
根津美術館まで行ってきた
江戸から明治時代に作られた刀装具のコレクション
あの時代の職人たちの技と根気は本当にすごいと思う
刀装具に施された細工はどれも細かすぎて
肉眼で観ていたのではなんだかよくわからないので
無料で貸し出されているギャラリースコープ(保証金5000円)を借りにいった
99。9%のひとがギャラリースコープ無しで鑑賞していたが
あれはもったいない
美術館のひとももっと薦めればいいのに
あると無いのでは
満足度がぜんぜん違うと思う
感動して帰ったひとは少なかったのではないだろうか
次に行った国立近代美術館工芸館では
ギャラリースコープがあればと思ってしまう作品がいくつかあった
これは購入しなくては
工芸品を鑑賞しに行くのは磨きぬかれた職人の技に触れたいから
眺めているだけで幸せな気分になれる
自分もこんなことが出来る職人になりたいという思いにはならないかな
惹かれるのは
自分にはない部分
(おそらく、求めてもない部分)
繊細さだったり、根気だったり、とてつもなく高い技術力
今年は一週間がとても速く過ぎていく
今週の休みも大子町で山歩き
暗くなる前に下山するには
早い時間に家を出ればいいんだということに気づき
きょうは午前6時30分に家を出発
しばらく走ってから
手と足の指先の冷たさで
かなり気温が低いことに気がつき
軍手で出て来たことを後悔
途中冷たさに我慢できなくなり
自転車を降りて
腕をグルグル回しながらランニング
大事なことに気がつくのは
いつも痛い目にあってからだ
道路の気温掲示板を見ると
氷点下じゃん
車の事故現場に遭遇して
重い気持ちと怖さから
ペダルをこぐスピードが鈍って
到着時間が遅れたが
山に入ると重い気持ちもどこかへ飛んでいって
楽しんでいた
山で飲む水はうまい!
きょうは先週とは違う登り口から月居山に入り
第二展望台の少し先にある
もみじ谷へ
一週間ですっかり色は失われていたが
やはり素敵な場所だ
『水根』がどんなところなのか
見てこようと考えていたのだが
先は杉林が続いていて面白くなさそうなので
引き返そうと歩いているときに
主に出会った
これほどデカイもみじの木を自分は知らない
これだけデカイ木なのに
先週来たときも
きょう谷を下っていたときも
気がつかなかったのはなぜだろう
夫婦のように寄り添って立っている二本の木
「なぜ、この二本のもみじだけこんなにでかいのだろう」
脇に木のブランコ(自然の)があったので
寝転んで眺めていたら
ある考えが思い浮かんだ
この木の周りにあるたくさんのもみじたちは
この二本の木の子供や孫たちではないのだろうか
この二本の木だけがこの場所に残ったのではなくて
鳥か何かによって
運び込まれた種からのはじまる物語
きょうはそれ程歩かなかったが
素敵な時間を過ごすことができた
ありとあらゆるものに感謝しながら
山を下った
たくさんのものたちや
たくさんのことによって
自分は生かされている
苦しいこともあったし
悲しいこともあったが
自分に起こったすべてのことが
いまの自分をつくってくれた
すべてのことに
ありがとう
きのうに続き
自転車で大子町へ
きのうの一時間ちょっとの山歩きで
山の中にいることの喜びを思い出してしまった
それなので
きのうのきょうでまた月居山に入る
やりたいときがそのときなのだ
大子の山はいまが一番美しい姿を見せてくれる時期
きょうはきのうより早く11時30分に袋田の滝に到着できたので
男体山まで行ってくることに
鐘を鳴らして出発だ
思ったよりも急斜面が多く
登頂する前にばててしまった
体力低下を痛感
水を忘れたのも痛かった
昼飯にパンとチーズを持っていったのだが
喉が渇いているときに
飲み物なしにパンを食べるのはキツイ
あまりに喉が渇いたので
帰りは飲み物を求めて
駆けて帰った
15時頃には戻れるだろうと走りながら考えていたのだが
暗くなってきているのがちょっと気になった
雲が多くなってきたのでそのせいだろうと楽観していたが
戻り着いたのが16時だった
喉が渇いてなかったら
降りてこられないところだったよ
教訓 山に行くときは水を持っていってはいけない
途中ものすごく美しい場所があった
『水根』に降りていく谷
ものすごい数のもみじ
この世のものとは思えない風景に
うっとりしてしまった
黒澤明の『夢』の世界がそこにあった
もみじを見るなら京都じゃなくて
大子町だ
数週間前だったら
ひとがいっぱい歩いていたのかな?
きょうは行きも帰りも誰にも会わなかった
茨城県大子町
今年になって
初めて訪れた場所
もう何回行っただろう
きょうは袋田の滝遊歩道から
月居山へ歩いた
月居観音堂にて鐘を
突いて帰るつもりだったが
先客がいたので
その先の月居城跡まで歩いてみた
もう紅葉は終わりだろうと思っていたのだが
城跡周辺はものすごい数のもみじが
美しく色を染めていた
先客が鐘を突いていなければ
この美しい風景に出会えていなかったのだから
人生なんてわからないものだ
あと数歩足を進めただけで
素晴らしい出会いが待っているかもしれない
その逆だってあるかもしれないが
いいものを手に入れようと思えば
損するも覚悟の上で進まなければならない
普段からあと数歩進むことを
心に決めた
そこであと数歩進んでから
観音堂に戻り
鐘を突いた
素晴らしい音色
素晴らしい倍音だった
鐘の中で聞くと
不思議な感覚
宇宙にでもいるみたいだ
観音堂の近くには大きなイチョウが
大子町には大きい木がたくさんあるが
このイチョウはだいご小学校の欅に
負けないくらいの存在感がある
帰りは茶屋の脇に出る道を下る
一本のモミの木の葉が美しく黄色に染まっている
モミも黄葉するのか?
遠くに滝が見える
自分には
ここからの滝の眺めがベストかな
月居トンネルは暗くて嫌いだが
月居山は気に入った
きょうは袋田の滝に到着したのが
午後2時
今度はもう少し早く来て
男体山くらいまで歩いてこよう
山歩きは楽しいかもしれない
自転車で那須塩原に向かうが
一分差で新幹線は行ってしまった
一分の差で東京到着が六十分遅れた
これが田舎に住むということ
上野公園はひとで溢れている
東京藝術大学美術館にて
『皇室の彩』
美術館に入るのに一時間並んだのは
はじめて
今年は美術館に行く機会が多かった
東京は美しくないものも多いのだが
美しいものに出会う機会もたくさんある
自分の住むところはどうかというと
美しいものが少ないところに
美しくないものがどんどん増えている
なまけもののパン屋店主の
日記のようなもの
下の方に
あります
なまけもののパン屋店主の
日記のようなもの
下の方に
あります
なまけもののパン屋店主の
日記のようなもの
下の方に
あります
なまけもののパン屋店主の
日記のようなもの
下の方に
あります
2017年11月25日より
なまけもののパン屋 店主
日記のようなもの
下の方にあり